わたしの出会った判事たち -7-

土手(1)

就任して十年目ほど。
「先生。現地調停やってください」
ある日書記官に言われた。

現地調停?そんなの、初めて。
どうしよう、出来るだろうか。でも相調停委員は元裁判所の職員だ。慣れているからだいじょうぶだろう。

ちなみに、現在はどの家裁でも現地調停はやっていないと思う。
外で事故などに遭った場合、わたしたち調停委員に責任を取れないからではないか。
わたしたちは、労災も健康保険も厚生年金にも入っていない、事実上はただのパートだから。

しかし、平成の中ごろ、わたしは現地調停を経験したのだ。時代は今ほど交通事故の責任とか補償とかいうことには神経質ではなかったのかも知れない。
多分、これが最後の現地調停だったのではないか。

その日、朝早く書記官が裁判所の玄関までわたしたち二人の調停委員を送ってくれた。
玄関には白いワゴン車が停まっていて、すでに調査官が乗っている。
そこへ「やーやー、おはよう」
K判事がやってきた。

行き先はちょっと奥まった町の端、精神的な病を持っている人のための病棟。
そこに入院している夫に妻からの離婚申し立てだった。わたしたちは夫の考えを現地まで聞きに行くのだ。

当事者にこういう病がある場合、弁護士が夫側の代理人に就くか、後見人が立つはずだが、どんな経緯があったのか、その事案は夫本人が当事者になっていた。

思うに、本人が頑なに代理人や後見人を付けることを拒否、本人に判断能力ありと裁判所が見なして、やむなく本人を当事者にしたのだろう。

当時は調停委員の世界は『古いオトコ社会』そのものだったが、その他の点は今よりおおらかだったような気がする。
なぜこの事件が家裁に来たのだろう、と首をひねるようなことも、まま、あった。
つまり「何でもお手伝いする便利屋」みたいな……。

平成も半ば過ぎるとすべて規則第一。法律にのっとり、法的な解決をするよう、隣のおじさんおばさんみたいなお説教や自分たちの価値観の押し付けは絶対しないように、裁判所からは求められた。

「現地調停はたまにやりましたよ、昔は」
誰かが言っていたことをふと思い出した。

空は晴れ渡り、ちょっとしたドライブ気分。
いつもはそれほど打ち解けて話すタイプではないK 判事は上機嫌だった。
「そこでちょっと車止めてください。早く着き過ぎても相手に迷惑だから、散歩でもしてゆきましょう」
わたしたちは全員車を下りた。

判事は土手を登ったり下りたり、辺りを見回している。まるで初めて土手を見た子供のようだ。背広姿と青々とした土手はちょっと不釣り合いのように見えたが。
「ずいぶん楽しそうですね」
調査官が笑いながら言った。

ほんと、あのとき、あそこでソフトクリームでも食べたかった……。


十五分ほど、森林で休憩、また車に乗る。着いたのは森の中の木造、薄いグリーンの瀟洒な病棟だった。まるで軽井沢かどこかの別荘のようにわたしには思えた。

係員に案内され、裁判官、二人の調停委員、調査官は広い部屋に入る。
ややあって、一人の男性が入ってきた。
男性調停委員がいつものように、妻の要求を伝え、本人の意見を聞く。男性は、最後まで、離婚を拒否。「絶対、別れない」の一点張り。

男性が部屋を出ると判事がつぶやいた。
「お見合いのとき、自分に疾患があることを隠していたのはちょっと……ですね。妻が騙されたと思うのも仕方がないかな」

不運なことにその病は子供に受け継がれていた。
子供も父親と同じ病名を告げられていたのだ。

                      続く。次回配信は水曜日。

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