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高く、高く、より高く        潮沢族の伝説と戦争と文化と愛の記録

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プロローグ


 トンビが、言葉を持っている鳥だということを、あなたは知っているだろうか。トンビたちにも人に劣らぬ長い歴史があり、その歴史を彼らもまた絶えることなく語り継いでいる。不幸なことに人間にはその言葉がわからない。しかしもしあなたが彼らの言葉を聞き取り、その長大にして雄大な歴史に耳を傾けたいと思うならば、一つの方法を教えよう。松本から島々線に乗換えると、二両編成の電車が安曇平をのんびりと走り、二十分ほどで終着駅である島々につく。改札を抜け、駅舎を出て、畔道をたどっていくと、北アルプスの懐から流れこんできた梓川にぶつかる。とうとうと流れるその川の堤をゆっくりと下っていくのだ。むろんそのときあなたは、この地を歩いていかねばならない。車に乗ってどうして鳥の歌が聞こえようか。降り注ぐ陽光を浴び、もし雨ならば雨に打たれ、もし風が吹いていたら風を満身に受けて歩いていくのだ。

 梓川にかかる倭橋を渡り、サラダ街道に入っていく。辺り一面果樹園であったり、トウモロコシ畑であったりする。その広大な田園地帯を歩いていくと、梓村から北アルプスの山麓沿いに巡る道に出る。この道を土地の人々は山麓線と名つけたが、赤松の森や田畑を縫うこの美しい道をのんびりと歩いていくのだ。安曇村から堀金村ヘ、穂高町から松川村へと抜け、さらに大町へと入っていく。大町を抜け、国道十六線を下っていくと仁科三湖と呼ばれる三つの湖に出会う。最初の湖が木崎湖で、その湖畔をそぞろ歩き、小さなかわいい中網湖を眺めながら国道を通り、さらに青木湖をぐるりと一回りする。

 その湖を回遊すると、再び松本方面に足を向けるのだが、今度は、安曇野をはさみこみ、アルプスと向き合うように連なるこんもりとした山並み沿いにのびる明科大町線という県道を歩いていく。走る車がうるさければ田畑を縫いながら歩くとよい。池田町に入るとどこからともなくハープの香りが漂ってくる。この町には日本で最も美しい美術館が小高い丘の中腹に立っているが、その美術館を訪れると安曇野が一望できる。道はやがて明科町に入ると犀川にぶつかる。あなたはようやく潮沢一族の国の玄関に立ったことになる。

 月日をかけたその流浪のなかで、あなたの全身が次第に野生的になり、大地の匂いをかぎとり、草や木立の生命のささやきもかすかに感じられるよになっていくと、はじめて鳥の歌が聞き取れるようになってくる。うねうねと流れる犀川を渡り、潮沢の国深くはいりこみ、たとえば岩州山の岩山に立って空を見上げるとき、もしあなたが運がよければ悠然と飛翔している一羽のトンビに出会えるだろう。風介という名前をもつトンビに。彼は人の年齢に換算したら八十近い老鳥ということになる。しかしその飛翔はたくましく、彼はいまでも六千メートルの高度まで飛翔することができる。風を愛撫し、宇宙をたゆたうようにのんびりと飛翔するその翼に刻みこまれている言葉は深い。民族の悲劇の歴史をこの鳥は深く刻みこんでいるのだ。

 もちろんトンビ語なるものを聞き取ることができるには何十年もかかる。しかし安曇野を回遊したあなたには、少なくともトンビ語を感じとる体質ができつつあるのだ。もともとあなたがトンビの言葉を聞き取りたいという思いに駆られたのは、あなたの心がひどく痛んでいたからにちがいない。恋に破れたとか、仕事につまづいたとか、あるいは大切な人を失ったとか、生きる意味がわからなくなったとか。ともあれそんな人生の重大な岐路に立ったあなたは、新しい再生の道をもとめて安曇野に旅だったはずなのだ。風のそよぎに心がふるえ、月の光にさえ痛みを感じとるばかりに心が繊細で柔らかくなければ、烏たちの言葉は聞き取れない。

 もし風介にあなたが出会えたら、そして彼があなたの存在を認めてくれたら、彼はあなたにも以下のような物語を語るはずだった。潮沢一族の挫折と敗北の歴史を。そしてその敗北の底から立ち上がって雄々しく戦い、再び一族の国家を打ち立てていった輝かしい歴史を。


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