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小宮山量平さんに送った最後の手紙

  小宮山さんへの手紙は、いつも挑戦といったレターになってしまうのは、小宮山さんがさらなる剛球を投げ返してくるからであって、いままた「千曲川」の第五部に着手した、その副題は「希望」となるであろうという剛速球が投げ返されてきた。これこそ私が小宮山さんに挑戦していたことであり、昨年の暮れに届いたこの便りに、私は再び挑戦の手紙をしたためることになる。

「千曲川」第四部が刊行されたとき、安曇野の絵本美術館「森のおうち」で、その上梓を祝う集いがもたれたが、誰もがその営為を祝福するなか、私の祝賀のスピーチはちょっと異例だった。正確には覚えていないが、だいたいこういうことを話してしまった。

──「千曲川」はようやく大河となって、とうとうと海をめざして流れはじめたのに、第四部でピリオドを打つとは、「千曲川」に対する裏切りではないだろうか。まるで堤防で塞き止められたような終わり方で、「千曲川」は号泣している、「千曲川」という大河物語が面白くなるのはこれからであり、これからこの物語の本当の魂というものがあらわれてくるはずなのだ、もし「千曲川」が第四部でピリオドが打たれるならば、成長小説としての本質を決定的に欠いたままになる、運命に翻弄される「ぼく」は描かれていても、敗戦という未曾有の社会の中で、自己を確立していく物語が書かれていない、あるいは物語の最大の魅力である愛の物語も書かれていない。

 さらにそのスピーチは、こういうふうに展開した。
──これ以降を書き続ける時間と体力を勘案して、第四部でピリオドを打ったのかもしれないが、作家は未完で終ること恐れてはならず、ボクサーがリングで倒れるように、岳人がヒマラヤの未踏峰で滑落するように、舞台人がステージ上で絶命するように、作家もまた未完のなかで倒れることを本望とすべきではないのだろうか、たとえ未完で終っても、その作品に生命力があるならば、歴史とともに海にむかって流れていくのであり、むしろ未完こそ未来につながる大河物語にふさわしい、未完を恐れずに第五部に着手していただきたいと。

 あるいはまた、こんな展開もあったはずだ。
──住井すゑさんの「橋のない川」は、巻を追うごとに国民的行事になっていった、新しい巻の執筆が国民的規模で見守られ、それが刊行されると、偉大な壮挙だと国民的規模で祝祭された、九十歳で第七部が刊行されると、なんと武道館で一万人もの聴衆を集めてスピーチを行うというイベントさえ登場した、小宮山さんにとって「千曲川」とはまさにそのような作品になりつつある、小宮山量平の大ブレイクが起こるのはこれからなのだ、作家の言葉と魂が、国民という広大な地に刻み込まれていくというまことに稀有な時間が到来したのであり、これを放擲する手はないと。

 大先輩に対して、しかも八十代に入って、五十階のビルを四棟も建てた人に、さらなる大建設をあおる無礼なスピーチになったのだが、しかし私がそういうスピーチをしなければならぬ種子は、小宮山さんその人がすでに播かれているからなのだ。ちょうど「千曲川」に着手した時期に平行するように、地元紙に連載されていたエッセイが「昭和時代落穂拾い」の三部作となって刊行されたが、その中に次のようなエッセイがある。三百編に及ぶエッセイの中でも白眉の文章であり、この文章を読むたびに私の目に涙がにじむ。
 
          もの言わぬリンゴ
 いつの日か私が戦後史について語るとすれば、話をそこから始めよう、と、長いこと心に描いていた風景がある。それは私が幼い日を過ごした望月という古い宿場町の、その家並み沿いに流れる鹿曲川に架かる中の橋の中ほどでのことだ。
 そこにマサ叔父が立っていた。母の生家は十二人きょうだいで、マサ叔父は、そのたくさんの叔父叔母の六番目だ。ある朝の目ざめのことで、ひどく鼻づまりで泣きやまぬその児の鼻を、その母なる祖母はけんめいにすすった。幼児の鼓膜が破れたのはそのためだったのか。マサ叔父は耳を失い、やがて当然口を失う運命を辿った。
 そんな運命がこの叔父を神の子のように育んだ。その宿場町で「マサさん」を知らぬ者は無い。誰もが思わず声をかけたくなる童顔で、それに気づくと叔父は、にっこりと微笑む。頬も瞼もサクラ色であったから、その微笑みはつねにほんのりと優しかった。
 やがてその町の製糸工場の罐焚きとなったが、そこの女工さんたちからは格別慕われたらしい。それというのも、さまざまの哀しみを胸に秘めた娘たちは、何によらずマサ叔父相手に打ち明けたがる。そのいちいちを叔父は聞いた。語り手が涙ぐむにつれて、叔父も涙ぐむのだった。
 敗戦の年の暮れ、長年の軍隊生活から復員して先ず訪れたその家に、この叔父だけがいた。祖父母は共に戦中に他界していた。縁者のすべてが四散していた家は森閑としていた。「ただいま」という声にも、答えは得られなかった。
 疲れはて、絶望しきって引き返そうとする私を、マサ叔父が追ってきた。何ひとつ語ることもできないその手に、一個の真っ赤なリンゴがあり、それを受けた私の手の甲に一滴の涙が注がれた。アダムとイブの物語よりも重く、そのリンゴの重みは私の胸に刻みつけられた。それが、私の戦後の出発点となった。
 
 千曲川の連載が『草の葉』誌上ではじまったとき、私はこの大河小説の核心は、ここにあるのだと思った。あるいは、この風景を書きたいために、小宮山さんは大河物語に取り組んだのではないかとも思えた。だから当然、この風景がさらに彩色され、さらに詳細に書き込まれて登場してくるものと思っていたのだ。そして、あらゆるものが打ち壊され、焼き払われた焦土に立った「ぼく」の自己確立の物語がはじまっていく。例えば次のような物語である。
 
         同胞(とも)よ地は貧しい
 理論社などと、もっともらしい名はつけたものの、いわばホームレスや難民のように住所不定であった。東京駅の正面玄関からまっすぐ皇居に向かう大通りの濠(ほり)端に面した左角に、日産はじめ大小の自動車メーカー本社の合同ビルのような岸本ビルがあった。たまたま級友の一人がN自動車の社長養子で若き取締役となっていた。その縁故で、私たちはこの一階の廊下に机を二つ置いて仮の事務所を勝手に名乗った。
 今では信じられないことだが、その廊下の不法占拠のままで、わが《季刊理論》の二号刊行迄の一年近くが過ぎた。電話はN自動車の老社員が取り次いでくれた上に、お茶まで恵んでくれた。だが最初の冬が来ると、廊下に忍びよる寒さの厳しさに私たちは萎えた。居たたまれず、小さなコンロを仕入れ、返品の創刊号をちぎってくべては暖をとった。その煙は忽ち廊下を通りぬけ、ゆるりと階段廻りを上昇し、全八階の各部屋へと侵入するのだった。
 幾日が過ぎたころ、くだんの老社員A氏が、炭俵一俵という当時の貴重品を届けてくれた。だが、その炭を使い切ったころ、A氏は申し訳なさそうに私たちの立ち退きを宣告した。大恩あるA氏には抗し切れず、早速返品雑誌の梱包などを開始したものの、未だ行く当てはなかった。
 丁度そのとき、古雑誌の買いあさりに現れた藤原さんが「その雑誌売るの?」と声をかけてくれた。「売る分もあるが、とっておきたい分を預かってくれる?」そう答えたのが縁で、行き場のない私たちに藤原さんは玄関の土間を提供してくれることとなった。
 同胞(とも)よ 地は貧しい
 われらは豊かな種子(たね)を
 播かなければならない
──天から降ったような新事務所に向かうトラックの荷台で、そのノヴァーリスの詩を私は口ずさみ、農夫の如く大地を耕さねばと思いつづけた。
 
 ところが「千曲川」は、マサ叔父の涙の一滴も、丸の内のビルの各部屋にもくもくと流れ込む廊下でたかれる返本の焚火の煙も書かれなかった。それらの風景が登場するはるか以前に、ピリオドが打たれてしまったのである。なにか裏切られたような思いが、その祝賀の集いの日の私のスピーチになったのだ。

 私は以前、小宮山さんにこういう提案をしたことがあった。「千曲川」四部作を読む読者だれもが漏らす感想は、第一部が一番面白かった、第一部にわくわくしたと。したがって第五部に取り組むとき、第一部で試みたように「草の葉」に委ねてみてはどうだろうかと。それはこういう意味であった。第一部は連載形式で発表され、一章ごとに読者の手に渡された。そのとき読者の力が、「千曲川」に流れ込んでいったのだ。それは少しも不思議な現象ではなく、読者から送られてくるパワーが、作家の精神を支え、その作品をより豊穣にしていくものである。おそらくそういう現象がおこったのだ。だからもし第五部に取り組むときは、書き下ろしではなく連載形式で発表すべきだと。

 長編小説とは、建築物にたとえたら五十階の高層ビルに匹敵する創造であり、この建設を成し遂げるには大変なエネルギーを要する。この巨大な建造物に立ち向かう小宮山さんに、「千曲川」を愛する読者から流れ込む力が必要である。その力がなければ書き切ることはできないだろう。しかし同時に、私が強く連載形式の発表を勧めるのは、読者の側もまた小宮山さんから放たれる力のエネルギーを必要としているからなのだ。小宮山さんは時代の最先端に立つ人だった。未知なる領域を先頭に立って切り開いている人だった。いままた九十にして、五十階の高層ビル建設に取り組んだ。果敢に巨大な創造に挑む小宮山さんの背中から放射される熱いエネルギーが、私たちを励まさないわけはない。

 昨年の夏に、上田駅前に「小宮山量平の編集室──エディターズミュージアム」が創設された。編集者のミュージアムというのは、おそらく世界に例のない壮挙なのであろう。しかし小宮山さんは、このミュージアム創設は「ゴールではなくスタート」と位置づけている。それは当然だった。ゴールにしてしまったら、安曇野の堀金村にある「臼井吉見記念館」と同じ光景になってしまうだろう。小宮山さん自身がこの記念館で講演したことがあるから、この記念館の惨状をよくご存知のはずである。閑古鳥が泣いているどころではない。訪問者は年間数えるばかりで、さりとて解体することもできず、村はこの建物の運営に苦慮している。それは臼井吉見記念館だけではない。日本各地に文学館というものが数多あるが、どこでも同じ惨状の光景をつくりだしている。どんな大作家でも、どんなに華やかなベストセラー作家でも、あの世に去ったら、人々はあっさりと忘却の底に投げ捨てる。

 だからこそ「ゴールではなくスタート」なのだ。しかしこれは容易なことではない。スタートとは、新しい創造を生み出せということなのだ。かつて小宮山さんが、創作児童文学という新しい分野を切り開いたように、そのエディターズミュージアムと名づけたその編集室から、世界を切り開く新しい文芸の波を引き起こせということなのだ。これから私たちに投じられる「希望」は、小宮山さんの白鳥の歌となるはずである。希望と祈りの歌である。そしてその歌の底に、「ゴールではなくスタート」だという問いが縫いこめられているはずなのだ。それぞれがスタート地点に立てと。そしてそれぞれが、それぞれの地で、新しい創造をはじめよと。


 

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