ぼくは間違いなく、君に向かって歩いている
宏子に電話をいれたのは、西海岸から東京にもどって十日もたっていた。たった一本の電話をいれるために十日間も迷い続けたわけだ。呼び出し音がカチャリと切れると、心臓も一瞬とまったかのように思えた。
「もしもし」
不安な声を送話器に流しこむと、
「実藤さんというわけ?」
ぼくを励ますような明るい声がかえってきた。
「そうなんだ」
「あなたの電話を待っていたわけよ」
「それはうれしいな。今夜会わないか?」
その夜、待ち合わせた渋谷の店にはいっていくと、片隅のテーブルに座った宏子が手をふっていた。まるでぼくをそこで何日も待ち続けていた人のようだった。
「絵葉書、びっくりしたわ。とってもうれしかった」
「あのとき言葉があふれでてきたんだ。指からこぼれ落ちるみたいにね」
サンタモニカの安宿で、絵葉書を書いたのだ。ピリオドを打つそばから新しい言葉がぼくの指をせきたてた。それはとどまることがなく、なんと七枚もの絵葉書にナンバーを打って投函したのだった。
「あれを読んで、この間のあなたのへんてこな演説が少しわかったわ」
「あのあと、連中はぼくに抗議をいれる決議をしたらしい」
「仕方がないわね。正しい意見っていつも迫害されるものよ」
「君と引替えならば、どんな迫害をうけてもいいと思うよ」
「それほどの価値があるなんて思えないけど」
「いや、君はそれだけの価値があるんだ」
小さなテーブルだったから向き合うぼくと宏子の膝がふれあうばかりだった。黒い幻想に苦しみながらも彼女にむかって歩いてきた。その解答が今夜ぼくの前に投げ出されるのだった。
「行きも帰りも飛行機のなかで、この本を読んでいたんだ」
と言って、ぼくは一冊の本をテーブルの上においた。それは彼女が学問に開眼したという「中世の秋」という本だった。
「これは間違いなく西川なんかの論文と格がちがうことがわかるな」
「悪いわね。西川さんに言っちゃうから」
「あいつは所詮、糊と鋏族なんだと思うね。君はいつか本物の学者って数えるほどしかいないと言ったけど、いまの日本にこんな本をかける学者なんていないだろうな。この本には音楽が鳴っているよ」
「音楽が聞こえるなんて、あなたすごい読書屋さんね」
「ブルックナーが鳴っているようだったよ。君に出会ったということはこの本に出会ったということだな。それだけでもよかったよ」
「あとは全部損をしたってことかもしれないわ」
「そういうふうにはしたくないね」
「それが正解かもしれないわ」
「そんな正解くたばりやがれだ」 自惚れるなよ、と自分に言った。思い通りにこの世が動くわけではない。あと数時間で彼女の体が、おれの腕のなかにあるなどと想像してはいけない。しかし彼女の目はどうだろう。彼女の微笑はどうだろう。ぼくにもうすべてをゆだねようとしている。
その店をでると道玄坂の中腹にあるバー〈セゴビア〉の扉を押した。カウン夕一にいる髭のマスターが衣袋だった。彼は大袈裟に肩をあげてウインクをよこした。そのウインクはすごい獲物を釣ってきたじゃないかと言っているのだった。
「あなたの行くところって、いつもスペイン風なのね」
「スペインに魅せられてるんだ」
ぼくは二度ほどスペインにいったことがある。そんなこともあって知ったかぶりのスペイン論をぶったが、彼女の描くスペインには口をとざしてしまった。あの赤茶けたイベリア半島を、彼女の一家はジプシーのように放浪したのだ。
「君のお父さんは、実に不思議な人だな」
「父は大学の先生だったのよ」
「この前は貿易商って言わなかった」
「それは日本を脱出してからなの。それまでは大学の先生だったのよ」
「糊と鋏で論文を書いていたわけかな」
「たぶんそういった種類の学者だったかもしれないけど」
「なんだかそういう種類の学者じゃなかったみたいだな。君をみていてそう思うよ」
「ちょっとした学者になろとしていたことは事実よ。でも悪人だったの」
「どうして?」
「同じ大学の先生の奥さんを奪ってしまったわけなんだから」
「どういうこと?」
「つまり、それが私の母なのよ」
「その奪った奥さんという人が」
「そうなの」
なんだか不思議な男だった。恩師でもあった哲学教授の若き妻を奪って日本を脱出すると、ヨーロッパや西インド諾島をジプシーのように放浪しながらコロンブス論を書き続けた。しかも膨大なノオトにつづられた文字は英語であり、スペイン語だったが、彼の生涯の野心は力を失った日本語に新しい血液をそそぎこむことだったという。なんだか聞けば聞くほどその謎が深くなっていくように思えた。しかし不思議なことに、その謎が深くなればなるほど、ぼくには逆に宏子がだんだん見えてくるように思えるのだ。
「わかってきたよ。いよいよ」
「なにがわかってきたわけ」
「ぼくはまちがいなく君に向かって、一歩一歩あるいていることが」
ぼくは宏子の手をとった。彼女はその手をにぎりかえしてきた。彼女の方からやってくる熱い波は、もう愛のシグナルそのものだった。ぼくたちの間に横たわる大きな岩を、彼女の方からも砕こうとしているのだ。彼女の手をにぎっているとこわくなかった。最後の岩を砕くように、
「一つだけ訊いてもいいかな」
「なあに」
「どうでもいいことだけど」
「いやあね、なんなの」
「君は婚約者がいるんだろう」
「西川さんが、そう言ったわけね」
「うん」
「婚約者がいると、あなた困るわけ?」
「君は困らないかい?」
「そんな器用なことができる女だって思うわけ?」
「そうじゃないけど」
とぼくはあわてて言った。
「嘘だわ。あなたはそう思っていたんだわ」
藤野和也のことを話しはじめた。藤野という男はかすかだか血のつながっている遠い親戚にあたることを。宏子の母が、そしてそれを追うように父もまたこの世を去ったとき、宏子のかたわらに兄のようなやさしさで立っていたことを。そして彼が結婚しようと言ってきたとき彼のやさしさにうなずいたことを。しかしだんだんと彼との婚約が重く感じられ、彼から遠ざかりたいと思っていることを。ぼくはもうその先をきいていなかった。
彼女の手をとるぼくの手は熱くなるばかりだった。熱い血がわきたってくる。その日は春の到来を思わせるようなあたたかい夜だった。裏通りから裏通りへとぬけていくと体育館の前の広場にでた。長い回廊を歩いていくと、そこには幾組もの恋人たちがキスをしていた。ぼくたちもキスをした。長い口づけでも彼女はどこか冷えたままのように思えた。そのことにちょっと不安がよぎった。しかし今夜ぼくたちは一つになるのだ。そのことはもう間違いがなかった。
「準備はできたのかな」
「準備はできているって言わせたいわけ」」 「そう」 「準備はできてる」
「アメリカでもずっと君のことを考えていたわけだよ。東京にもどってきても毎日毎日君のことばかりだった。会うのがとてもこわかったんだ」
「あなたにも準備が必要だったってことかしら」
「そうなんだ」
ぼくはまた彼女の唇を奪った。彼女の唇もまた燃えてきた。彼女は冷えてなどいなかった。少しづつ少しづつ自分を開いていくタイプなのだ。もうまもなくぼくたちに解放が訪れる。火のような自由がやってくるのだ。ぼくの放浪は終わる。この女がぼくの放浪と孤独の終止符なのだ。
大通りに出てまた裏通りを歩いた。闇の底に浮かぷようにピンクのネオンがみえた。そこはぼくたちの新世界だった。
「あそこにはいる勇気ある」
「あるわよ。でももう少し歩きたくない」
「うん」
「私は勇気があるのよ」
「そんなことに勇気がなくたっていいんだよ」
「でもやっぱり勇気が必要なのよ」
ぼくたちはまた裏通りを歩いた。歓喜と解放への助走といったものだった。会話による熱い愛撫がぼくをくらくらさせる。
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