後世への最大遺物 1 内村鑑三
序文
この講演は明治二十七年、すなわち日消戦争のあった年、すなわち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年であったときに、海老名弾正君司会のもとに、箱根山上、蘆の湖の畔においてなしたものであります。
その年に私の娘のルツ子が生まれ、私は彼女を彼女の母とともに京都の寓居に残して箱根へ来て講演したのであります。その娘はすでに世を去り、またこの講演を一書となして初めて世に出した私の親友、京都便利堂主人、中村弥左衛門君もついこのごろ世を去りました。その他この書成って以来の世の変化は非常であります。
多くの人がこの書を読んで志を立てて成功したと聞きます。そのうちに私と同じようにキリスト信者になった者もすくなくないとのことであります。そして彼らの内のある者は早くすでに立派にキリスト教を「卒業」して、今は背教者をもって自から任ずる者もあります。またはこの書によって信者になりて、キリスト教的文士となりて、その攻撃の鉾を著者なる私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。
そして私は幸いにして今日まで生きながらえて、この書に書いてあることに多くたがわずして私の生涯を送ってきたことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物──私たちは後世に何を残すべきか」の一つとなったことを感謝します。「天地無始終、人生有生死」であります。
しかし生死ある人生に無死の生命を得るの途が供えてあります。天地は失せても失せざるものがあります。そのものをいくぶんなりと握るを得て生涯は真の成功であり、また大なる満足であります。
私は今よりさらに三十年生きようとは思いません。しかし過去三十年間、生き残ったこの書は、今よりなお三十年、あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。終りに臨んで私はこの小著述を、その最初の出版者たる故中村弥左衛門君に献じます。君の霊の天にありて安からんことを祈ります。
時は夏でございますし、ところは山の絶頂でございます、それでここで私が手を振り、足を飛ばしまして、私の血に熱度を加えて諸君の熱血をここに注ぎ出すことは、あるいは私にできないことではないかも知れません、しかしこれは私の好まぬところ、また諸君もあまり要求しないところだろうと私は考えます、それでキリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのは、たぶんこの講師が嚆矢であるかも知れない(満場大笑)。
しかしながら、もしこうすることが私の目的に適うことでございますれば、私は先例を破って、ここであなたがたとゆっくり腰を掛けて、お話をしてもかまわないと思います。これもまた破壊党の所業だと、おぼし召されてもよろしゅうございます(拍手喝采)。
そこで私は「後世への最大遺物」という題を掲げておきました、もしこのことについて私の今まで考えましたことと、今感じますることとをみな述べまするならば、いつもの一時間より長くなるかも知れませぬ、もし長くなってつまらなくなったなら、勝手にお帰りなすってください、私もまたくたびれましたならば、あるいは途中で休みを願うかも知れませぬ、もしあまり長くなりましたならば、明朝の一時間も私に戴いた時間でございますから、そのときに述べるかも知れませぬ。
どうぞこういう清い静かなところにありまするときには、東京やまたはその他の騒がしいところでみな気の立っているところでするような、騒がしい演説を私はしたくないです、私はここで諸君と膝を打ち合せて、私の所感そのままを演説し、また諸君の質問にも応じたいと思います。
この夏期学校に来ますついでに私は東京に立ち寄り、そのとき私のおやじと詩の話をいたしました、おやじが山陽の古い詩を出してくれました、私が初めて山陽の詩を読みましたのは、おやじからもらったこの本でした(本を手に持って)、でこの夏期学校にくるついでに、その山陽の本を再び持ってきました、そのなかに私の幼さいときに私の心を励ました詩がございます、その詩は諸君もご承知のとおり山陽の詩の一番初めに戟っている詩でございます。
十有三春秋 (じゅうさんしんじゅう)
逝者已如水 (ゆくものはすでにみずのごとし)
天地無始終 (てんちしじゅうもなく)
人生有生死 (じんせいせいしあり)
安得類古人 (いずこんぞこじんにるいして)
千載列青史 (せんざいせんしにれっするをえん)
有名な詩でございます、山陽が十三のときに作った詩でございます、それで自分の生涯を顧みてみますれば、まだ外国語学校に通学しておりまする時分にこの詩を読みまして、私も自から同感に堪えなかった、私のようにこんなに弱いもので、子供のときから身体が弱うございましたが、こういうような弱い身体であって別に社会に立つ位置もなし、また私を社会に引っ張ってくれる電信線もございませぬけれども、どうぞ私も一人の歴史的な人間になって、そうして千載青史(歴史書)に列するを得るくらいの人間になりたいという心が、やはり私にも起ったのでございます、その欲望はけっして悪い欲望とは思っていませぬ、私がそのことを父に話し、友違に話したときに、彼らはたいへん喜んだ、「あなたにそれほどの希望があったならば、あなたの生涯はまことに頼もしい」といって喜んでくれました。
ところが不意にキリスト教に接し、通常この国において説かれましたキリスト教の教えを受けたときには、青年のときに持ったところの、千載青史に列するを得んというこの欲望が大分なくなってきました、それで何となく厭世的の考えが起ってきた、すなわち人間が千載青史に列するを得んというのは、まことにこれは肉欲的、不信者的、heathen 的の考えである、クリスチャンなどは功名を欲することはなすべからざることである、われわれは後世に名を伝えるとかいうことは、根こそぎ取ってしまわなければならぬ、というような考えが出てきました、それゆえに私の生涯は実に前の生涯より清い生涯になったかも知れませぬ、けれども前のよりはつまらない生涯になった、まあ、どうかなるだけ罪を犯さないように、なるだけ神に逆らって汚らわしいことをしないように、ただただ立派にこの生涯を終ってキリストによって天国に救われて、未来永遠の喜びを得んと欲する考えが起ってきました。
そこでそのときの心持ちは、なるほどそのなかに一種の喜びがなかったではございませぬけれども、以前の心持ちとは正反対の心持ちでありました、そうしてこの世の中に事業をしよう、この世の中に一つ旗を挙げよう、この世の中に立って男らしい生涯を送ろう、という念がなくなってしまいました、ほとんどなくなってしまいましたから、私はいわゆる坊主臭い因習的な考えになってきました、それでまた私ばかりでなく私を教えてくれる人がそうでありました、たびたび‥‥ここには宣教師はおりませぬから、少しは宣教師の悪口をいっても許してくださるかと思いまするが‥‥宣教師のところにいって私の希望を話しますると、「あなたはそんな希望を持ってはいけませぬ、そのようなことはそれは欲心でございます、それはあなたのまだキリスト教に感化されないところの心から起ってくるのです」というようなことを聞かされないではなかった。
諸君たちもそういうような考えに、どこかで出会ったのではないだろうかと思います。なるほど千載青史に列するを得んということは、考えのいたしようによってはまことに下等なる考えであるかも知れませぬ、われわれが名をこの世の中にのこしたいというのでございます、この一代のわずかの生涯を終って、そのあとは後世の人に我々の名をほめ立ってもらいたいという考え、それはなるほどある意味からいいますると、私どもにとっては持ってはならない考えであると思います。
ちょうどエジプトの昔の王様が、おのれの名が万世に伝わるようにとピラミッドを作った、すなわち世の中の人に彼は国の王であったということを知らしむるために、万民の労力を使役して大きなピラミッドを作ったというようなことは、実にキリスト信者としては持つべからざる考えだと思われます、有名な天下の糸平(相場事業で財を成した明治の実業家田中平八)が死ぬときの遺言は「己れのために絶大の墓を立てろ」ということであったそうだ。そうしてその墓には天下の糸平と誰か日本の有名なる人に書いてもらえと遺言した、それで諸君が東京の牛島神社にいってごらんなさると、立派な花崗石で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っております、それは、その千載にまで天下の糸平をこの世の中に伝えよと言った糸平の考えは、私はクリスチャン的の考えではなかろうと思います。
またそういう例がほかにもたくさんある、このあいだアメリカのある新聞で見ましたに、ある貴婦人で大金持の寡婦が、「私が死んだ後に私の名を国の人に覚えてもらいたい、しかし自分の持っている金を学校に寄附するとか、あるいは病院に寄附するとかいうことは普通の人のなすところなれば、私は世界中にないところの大なる墓を作ってみたい、そうして千載に記憶されたい」という希望を起した、先日その墓が成ったそうでございます、どんなに立派な墓であるかは知りませぬけれども、その計算に驚いた、二百万ドルかかったというのでございます、二百万ドルの金をかけて自分の墓を建ったのは確かにキリスト教的の考えではございません。
しかしながらある意味からいいますれば、千載青史に列するを得んという考えは、私はそんなに悪い考えではない、ないばかりでなくそれは本当の意味にとってみまするならば、キリスト教信者が持ってもよい考えでございまして、それはキリスト信者が持つべき考えではないかと思います、なお、われわれの生涯の解釈から申しますると、この生涯はわれわれが未来に往く階段である、ちょうど大学校にはいる前の予備校である、もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである、私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、私の流すところの涙も、私の心を喜ばしむるところの喜びも、喜怒哀楽のこの変化というものは、私の霊魂をだんだんと作り上げて、ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから、もっと清い生涯をいつまでも送らんとするは、私の持っている確信でございます、しかしながらそのことは純粋なる宗教問題でございまして、それは今晩あなたがたにお話をいたしたいことではございません。
しかしながら私にここに一つの希望がある、この世の中をずっと通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる、すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何ものこさずに死んでしまいたくない、との希望が起ってくる、どうぞ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かをのこして往きたい。
それは何もかならずしも、後世の人が私をほめたってくれというのではない、私の名誉をのこしたいというのではない、ただ私がどれほどこの地球を愛し、どれだけこの世界を愛し、どれだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいうMemento をのこしたいのである、こういう考えは美しい考えであります、私がアメリカにおりましたときにも、その考えがたびたび私の心に起りました、私は私の卒業した米国の大学校を去るときに、同志とともに卒業式の当日に愛樹を一本校内に植えてきた、これは私が四年も育てられた私の学校に、私の愛情をのこしておきたいためであった、なかには私の同級生で、金のあった人はそればかりでは満足しないで、あるいは学校に音楽堂を寄附するもあり、あるいは図書館を寄附するもあり、あるいは運動場を寄附するもありました。
内村鑑三「後世への最大遺物」を「私たちは後世に何を残すべきか」に改題にして《草の葉ライブラリー》より近刊。
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