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承久記  上巻 1


承久記  上巻 
後鳥羽の院の事   01
 頼家実朝昇進并びに薨去の事  02
義時追討御評定の事               03
光季・親広召さるゝ事  04
官兵光季を攻むる事  05


後鳥羽の院の事              01

 人皇八十二代の帝をば、隠岐の法皇とも申すなり。顕徳院とも号し奉る。後には後鳥羽の院と申しけり。御諡は高成、高倉の院の第四の御子、後白河の院の御孫なり。御母は七条の院、正三位藤原信隆の卿の娘なり。
 治承四年庚子七月十四日に御誕生、寿永二年癸卯八月廿日、御年四歳にて後白河の法皇の命によって御践祚あり。元暦元年甲辰七月廿八日、五歳にして太政官の堂にて御即位あり。
 
 御在位十五年が間、芸能二つを学びおはします。建久九年戊午正月十一日御位をおりさせ給うて第一の御子に譲り給ふ。土御門の院これなり。
 それより以来、怪しの者に御肩をならべ、賤しき下女を近づけさせ給ふ御事もあり。賢王聖主の道をも御学びありけり。また弓を射てよき兵をも召仕はゞやと叡慮をめぐらし、武勇の者を御尋ねありしかば、国々より進み参りけり。
 
 白河の院の御宇に、北面と云ふものを始めさせ給ふて、侍を玉体に近づけさせ給ふ御事ありき。またこの御時より西面といふ事を始めらる。早業水練にいたるまで淵源を極めまします。弓取つてよからむ勇士十人参らせよと、関東に仰せければ、常陸の筑後の六郎・遠江の原の弥三郎一家に、天野の次郎左衛門尉時継を始めとして、武士六人を参らせらる。相撲の上手同じく参らせよと仰せられければ、その頃岡辺の義介五郎・犬嶽の小太郎家光二人参りけるを、義介をば秘蔵して関東に留め、犬嶽の小太郎を参らせられけり。
 
 かくて十三年を経て、承元四年庚午十一月廿五日に一の御子御位をおろし奉り、第二の御子を御位に立てまゐらせ給ふ。順徳院これなり。これ当腹(たうぶく)御寵愛によつてなり。その後十一年を経て、承久三年四月廿日、また御位をおろし奉りて新院の御子に譲り奉り給ふ。
 これによつて新院(=土御門)とも、法皇の御仲ご不快なり。御在位四ケ月に及ばずして、御位後堀河の院に参りて、王法つきはてさせ給ひ、人臣世に叛きし故を如何にと尋ぬるに、地頭・領家争論の故とぞ聞えける。
 
 上古には地頭といふ事なかりしを、故鎌倉の右大将頼朝卿、平家を亡ぼしける勧賞(けんじやう)に、文治元年の冬のころ、日本国の総追捕使になり給ふ。その後建久三年七月に征夷大将軍に補(ふ)し給ふ故に、国々に守護を置き郡郷に地頭を居(す)ゑ、既に五升宛の兵粮米を宛て取る。これによつて領家は地頭を嫉み、地頭は領家を軽めけり。


 

頼家実朝昇進并びに薨去の事          02


 頼朝は伊豆の国の流人たりしが、平家追討の院宣を蒙りて、治承四年の秋のころ、謀叛を起して六ケ年の間天下安からず。元暦二年の春夏のころ、平家を亡ぼしはて、静謐に属する事十三年、世を執る事十九年なり。
 廿年と申す正治元年正月十三日に五十三歳にして卒し給ふ。その御子左衛門の督頼家、世を継ぎ給ふ。御母は従二位政子、遠江守平時政の娘なり。童名は十万殿と号す。
 
 建久八年十二月十五日に従五位上に叙し、同じき日右少将になり給ふ。御年十六歳なり。同じき九年正月卅日讃岐の権の佐に任じ給ふ。同じき十一月廿八日正五位下に除す。同じき十年改元あつて正治と号す。正月廿日左中将に転ず。御年十八歳なり。同じき廿六日に諸国の事を奉行すべきよし宣下し給ふ。正治二年正月五日従四位上に叙し、同じき八日禁色をゆるさる。同じき十月廿六日従三位に叙し、左衛門の督に任じ給ふ。御年十九歳なり。同じき(=建仁二年)七月廿二日従二位に叙し、同じく征夷大将軍たり。
 
 同じき三年七月廿七日、病を受け給ふ間、同じき八月廿七日に御跡を長子一幡殿に譲り給ふ。御年六歳なり。同じき九月七日出家し給ふ。同じき廿九日に伊豆の国修善寺に移り給ふ。この将軍世を知り給ふ事、正治元年より建仁三年に至るその間五ケ年なり。二代の将軍として世を継ぎ給ふと雖も、不調の振舞ひをし給ひしかば、神慮にも放たれ人望にも背く故に、僅かに五箇年が内に、元久元年七月十九日、大祖遠江守時政が為に亡ぼされ給ひけり。御年廿三歳なり。
 
 ここに御弟万寿御前、未だ幼童にて長兄の御後を継ぎ給ふ。建仁三年九月七日に御年十二歳にて従五位に叙し、同じき日征夷大将軍の宣旨をくださる。同じき年十月廿四日に右兵衛佐に任じ給ふ。御年十三にて御元服あり。右兵衛の権佐実朝と申しき。
 
 同じき四年改元有りて元久と言ふ。正月五日従五位上に叙し、元久二年正月五日正五位下に叙し給ふ。同じき廿九日右中将兼加賀介に任ず。同じき三年改元ありて建永と号す。二月廿二日従四位下に除す。二年に改元あつて承元と言ふ。正月五日従四位上に除す。承元二年十二月九日正四位下に除す。同じき三年四月十日従三位に叙し、同じき五月廿六日右中将に復任す。同じき五年改元あつて建暦と号す。正月五日正三位に叙し、同じき十八日美作の権守に任ず。建暦二年十二月十日従二位に叙し、同じき三年改元あつて建保といふ。二月廿七日正二位に叙し、同じき四年六月廿日権中納言に任ず。中将もとの如く、随身四人を給ふ。御年廿四歳なり。同じき六年正月十三日権大納言に任じ、同じき三月六日左大将に任ず。道家の卿のあとなり。同じき日左馬寮の将監たり。同じき十月九日内大臣に任ず。大将元の如し。同じき十二月二日右大臣に任じ給ふ。大将元の如し。これ公房公のあとなり。同じき七年四月十二日改元あつて承久と号す。正月に大饗行はる可しとて尊者の為に、坊門の大納言忠信卿を関東に招請すべきよしとの聞えあり。
 
 この事公卿僉議有りけるに、按察使の中納言光親卿申されけるは、「そもそも例を往代に尋ぬるに及ばず。実朝が親父頼朝右大将拝任は、即ち上洛をとげ格式の如し。なんぞ実朝自由にその身関東に在りながら、結句(けつく)卿相(けいしやう)を辺愁の堺に下して拝賀をすべしや、百官を王庭に定められてよりこの方、未だかゝる例を聞かず」と申されければ、その時の摂政は後京極殿(=良経)にてましましけるが、仰せられけるは、「光親卿の意見条々その謂れ有り。但し何とも只実朝が申すままに御許し有るべしと覚ゆ。旧規を乱り格式に違せば、官職は私にあらず、神慮も計らひあるべし」と仰せありければ、各々この議に同じ給ひけり。
 
 同じき正月廿七日、将軍家、右大将拝賀の為に鶴が丘の八幡宮へ御社参あり。酉の刻に御出でありけるに、先づ牛飼ひ四人、次に舎人四人、次に一員。将曹狩野の景盛・府生狛の盛光・将監中原の成能、以上束帯なり。次に殿上人には、一条の侍従能氏・藤兵衛の佐頼経・伊予の少将実雅・右馬の権守頼範の朝臣・中宮権の亮信能の朝臣随身四人なり。一条の大夫頼氏・一条の少将能房・前の因幡の守師憲の朝臣・伊賀の少将隆経の朝臣・文章博士仲章(なかのり)の朝臣なり。
 
 次ぎに前駆藤勾当頼方・平勾当時盛・前の駿河の守季時・左近大夫朝親・相模の権守実定・蔵人の大夫以邦・右馬の助行光・蔵人の大夫邦忠・右近の大夫時広・前の伯耆守親時・前の武蔵の守義氏(=足利)・相模の守時房・蔵人大夫重綱・左馬の権佐範俊・右馬の権助宗泰・武蔵の守親広・修理権大夫惟義の朝臣・右京権大夫義時の朝臣。
 
 次に官人秦の兼光・番の長下毛野の敦秀。次に御車・同じく車添四人・牛童一人。次ぎに随兵二行なり。小笠原の次郎兵衛長清、小桜縅の鎧を着す。武田の五郎信光、黒糸縅の鎧を着す。伊豆の左衛門尉頼定、萌黄糸縅の鎧を着す。隠岐の左衛門の尉基行、緋縅の鎧を着す。大須賀の太郎道信、藤縅の鎧を着す。式部の大夫泰時は、小桜縅の鎧を着す。秋田の城介景盛、黒糸縅の鎧を着す。三浦の小太郎時村、萌黄糸縅の鎧を着す。河越の次郎重時、緋縅の鎧を着す。隠岐の次郎景員、藤縅の鎧を着す。
 
 次に雑色廿人。次に検非違使の大夫判官景廉、束帯鞘巻の太刀なり。次に御調度掛、佐々木の五郎左衛門尉義清。次ぎに下臈御随身波多野の公氏・同じく兼村・播磨の貞文(さだぶん)・中臣の近任(ちかとほ)・下毛野の敦光(かげののあつみつ)・同じく敦氏。
 
 次に公卿には、新大納言忠信・左衛門督実氏・宰相中将国通・八条三位光盛・刑部卿三位宗長各々乗車なり。
 
 次に左衛門の大夫光員・隠岐守行村・民部の大夫広綱・壱岐守清重・関の左衛門尉政綱・布施の左衛門尉康定・小野寺の左衛門尉秀道・伊賀の左衛門尉光季・天野の左衛門の尉政景・武藤の左衛門尉頼範・伊東の左衛門尉祐時・安立の左衛門尉元春・市河の左衛門の尉祐光・宇佐美の左衛門の尉祐政・後藤の左衛門の尉基綱・宗の左衛門の尉高近・中条の左衛門の尉家長・讃岐の左衛門の尉正広・源の四郎右衛門の尉秀氏・塩屋の兵衛の尉朝業・宮内の兵衛の尉公氏・若狭の兵衛の尉忠秀・綱島の兵衛の尉俊久・東の兵衛の尉重胤・土屋の兵衛の尉宗長・堺の兵衛の尉常秀・狩野の七郎光広等なり。路次の随兵一千余騎なり。
 
 宮寺の楼門に入らしめ給ふ時、右京の大夫義時、俄に心神違例の事ありて、御剣を仲章の朝臣に譲りて罷り去り給ふ。神宮寺御解脱の後に於て、小町の御亭に帰らしめ給ふ。夜陰に及びて神拝の事畢つて、やうやう罷り出でんとする所に、何処よりともなきに、女房中の下馬の階(はし)の辺(ほとり)より、薄衣きたるが、二三人程走るとも見えし。いつしか寄りけん。石階の間に窺ひきたりて、薄衣うちのけ、細身の太刀を抜くとぞ見えし。右大臣殿を斬り奉る。一の太刀をば笏にてあはさせ給ふ。次の太刀にて、斬られ伏させ給ひぬ。「広元やある」とぞ仰せられける。次の太刀に文章博士斬られぬ。次の太刀に伯耆の守盛憲斬られ、疵を被つて次の日死す。これを見て一同に、「あ」とばかり戦慄(をのの)きけり。供奉の公卿・殿上人はさておきぬ。辻々の随兵、所々のかがり火、東西にあわて、南北に馳走(ちそう)す。その音億千のいかづちの如し。
 
 その後随兵、宮中に馳せ駕すといへども、讐敵をもとむるに所なし。武田の五郎真先に進めり。或人申しけるは、「上(かみ)の宮の砌において、別当公暁父の敵を討つのよし名乗られける」とぞ申しける。これによつて各々件の雪の下の本坊に襲ひ至る所に、かの門弟の悪僧らその内に籠つて相戦ふの所に、長尾の新六定景、子息太郎景範、同じく次郎種景等、先駈けを争ひけり。勇士の戦場に赴くの法、誠にもつて美談たり。つひに悪僧等敗北す。公暁はこの所に居給はざりければ、軍兵ども空しく退散す。諸人茫然たる外なし。
 ここに公暁は彼の御首をもちて、後見の備中が宿所に向はれけり。雪の下の北谷の膳をたたちせんの間も、なほ手に御首をば離し給はず。公暁のたまひけるは、「我専ら東関の長に当る。早く計議を運らすべきよし」示し合せられけり。これは義村(=三浦)の息男駒若丸、門弟に列するによつて、その誼(よしみ)を頼まれし故なり。
 
 義村この事を聞きて、先君の恩化(くわ)を忘れざるの間、落涙数行、さらに言語に及ばざりけり。少しさへぎつて、「先づ茅屋に光臨あるべし。御迎の兵士を参らすべきのよし」をぞ申しける。使者(=公暁の)罷り去つて後、また使者を遣はし、件の趣を右京の大夫(=義時)に申されけり。
 
 さても公暁は、かく誅し奉るべき企図をば知り給はず。左右なく阿闍梨(=公暁)を誅し奉るべきのよし下知し給ふの間、一族等を招き集めて、評定をこらす。「それ阿闍梨といふは、太だ武勇にたんぬ。すなほにあらざるなり。人たやすくこれを計らふべからず。頗る難儀たるよし」、各々相議する所に、義村は勇悍の器を選んで、長尾の新六定景討手立たれけり。定景辞退に及ばず座を立つて黒糸縅の鎧を着し、雑賀の次郎とて大強力の者あり、これら以下郎従五人相具し、公暁の在所備中阿闍梨の家に赴きけり。
 
 折節公暁は、義村が迎の兵士延引せしむる間、鶴が丘の後面の峯にのぼつて、義村が家にいたらんとし給ひける所に、定景と途中にて行遇ひ給ひけり。雑賀の次郎寄つてかゝり、たちまちに公暁を抱く。互に雌雄を争ふ所に定景太刀をとつて、公暁の御首を斬り奉る。素絹の衣の下に腹巻を着給ひけり。生年二十歳なり。
 
 そもそもこの公暁と申すは、右大将頼朝の卿の御孫、金吾将軍頼家の卿の御息なり。御母は加茂の六郎重長のむすめなり。公胤僧正の家に入りて、貞暁僧都受法の御弟子なり。若宮の別当悪禅師の公と号す。無慚なりしことどもなり。
 
 御父頼家の卿、御後を長子一幡殿に譲り給ふ所に、建仁二年九月に伯父北条平の時政が沙汰として義時を大将軍として発行せしめ、これを討ち奉る。この時御年六歳なり。叔父比企の判官藤原の能員が郎党百余人、防ぎ戦ふといへども叶はずして各々自害してけり。これによつて右大臣殿に於ては、親兄の御敵なれば今度かゝる謀反を企て給ひけり。
 
 このほか連枝あり。同じく別当栄実とて、昌寛法橋の娘の腹の御子おはします。童名をば千手殿とぞ申しける。これをも同じき年の十月六日に討ち奉りけり。
 同じき御腹に禅暁とて、童名千歳殿とぞ申しけるは、承久二年四月十一日討たれたまへり。また木曾義仲の娘の腹に竹の御方とておはします。これは頼経将軍の妻室になり給ふ。
 
 去る程に定景は彼の御首を持ちて帰り、即ち義村、右京の大夫の御廷に持参す。亭主出であひてその御首を見らる。安東の次郎忠家紙燭を秉り、ここに式部の大夫申されけるは、「まさしく未だ阿闍梨の面を見奉らず。なほ御首に疑ひあり」とぞ申しける。

 そもそも希有の凶事、かねて本意をしめす事、一つに非ず。所謂御出立(=実朝)の期に及びて、前の大膳の大夫入道(=大江広元)参じて申しけるは、「某は成人の後、未だ泣涙の面に浮く事を知らず。しかるに今時昵近申すの所に、落涙禁じがたし。これ只事にあらざるなり。事定めて仔細あるべきか」。また公氏(=随身)御髪を候する(=整髪)所に自ら(=実朝)御髪を一筋ぬいて、次に庭の梅を取りて禁忌の和歌を詠じ給ひけり。
 
出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
 
となん。門を御出のとき霊鳩鳴囀す。車よりおり給ふきざみは、雄剣を突き折り給ひけり。
 同じき二十八日御台所落飾せしめ給ふ。御戒の師は荘厳坊の律師行勇なり。また武蔵の守近広、左衛門の大夫時広、前の駿河の守秀時、秋田の城介景盛、隠岐の守幸村、大夫尉景廉以下、御家人一百余人。薨去の哀傷にたへずして、出家をとげらるなり。戌の刻には将軍家勝長寿院の傍らに葬し奉る。去ぬる夜、御首のある所を知らざりければ、五体不具その憚あるべきによつて、昨日公氏候する所の御髪をもつて御頸に用ひ棺に入れ奉りけり。
 さてもこの世の中如何になるべきぞ、実に闇の夜に燈火を失へるに異ならず。鎌倉殿には誰をか据ゑ参らすべきとぞ申しける。去る程に公卿殿上人は空しく帰りのぼり給ふ。駿河の国浮島が原にて、帰雁おとづれて行きければ、左衛門の守実氏の卿、
 
春の雁の人にわかれぬならひだに帰る路にはなきてこそゆけ
 
 同じ年の二月八日右京の大夫義時、大倉の薬師堂に詣で給ふ。この寺は霊夢の告げによつて草創の地なり。去ぬる月の二十七日戌の刻供奉のとき、夢見るが如くに白き犬御側らにま見えて後、心神悩乱の間御剣を仲章の朝臣に譲りて、伊賀の四郎ばかりを相具して罷り出で給ふ。しかるに右京の大夫御剣の役たるのよし、禅師(=公暁)かねてもつて存知の間、その役、人をまぼつて、仲章が首を斬り給ふ。当時この堂の戌神堂中に坐し給はずと申しけり。
 
 さても公暁は今度の企図のみにあらず、この両三年が間御所中に化け物とて女の姿をして行きいり給ふに、極めて足早く身軽くしてしばしばまみえ給ふを人見けり。今こそ、この人の仕業なりとぞ思ひあはせける。御父には四歳にておくれ給ひしをば、二位殿育み奉りて若宮の別当になり給ひけり。
 
 また同じき年二月十五日の未の刻に二位殿の御帳台の内へ、鳩飛びいる事ありけり。かゝる所に同じき日の申の刻に、駿河の国より飛脚参りて申して曰く、「阿野の次郎冠者頼高、去ぬる十一日より多勢を引率して城郭を深山に構ふ。これ即ち宣旨を申したまはつて、東国を管領すべきのよし相企つ」とぞ申しける。これは故右大将家の御弟、阿野の前司全成の次男なり。母は遠江の守平の時政が娘なり。
 
 同じく十九日二位殿の仰せによつて、義時、金が窪兵衛の尉行親以下の家人等を駿河の国へさつしかはす。阿野の冠者誅戮の為なり。同じき二十三日駿河の国より飛脚参着して、阿野の冠者禦ぎ戦ふといへども無勢なれば叶はずして自害するのよしをぞ申しける。かくて東国は無異(ぶい)になりにけり。
 
 さても将軍の後嗣絶え果て給はん事を悲しみ思ひ給ふ。二位殿の沙汰として、光明峯寺の左大臣道家公の三男頼経の卿を申し下し給ひ、源家の将軍の後嗣をつがしめ給ひけり。これによつて二位殿の代りとして義時天下の執権たりき。
 
 また都には、源三位入道の孫右馬権守頼茂(=原文頼範)とて内裏の守護にてありけるを、これも源氏なる上、頼光が末葉なりと思し召して、西面の者どもに仰せて、させる罪なきを討たせられける。同じく子息頼氏を生捕られけるこそ不憫なれ。陣頭に火をかけて自害してけり。温明殿(うんみやうでん)に付きてけり(=火が)。内侍所如何なり給ひけんとおぼつかなし。


 義時追討御評定の事         03



 およそ院、如何にもして関東を亡ぼさんとのみ思し召しけることあらばなり。京童を集めさせ給ひて、ぎじちやうとう(=義時打頭)ぎじちやうとうと唱へとて物を賜はりければ、さなきだに漫言(すずろごと)云ふに、ぎじちやうとうぎじちやうとうとぞ申しける。
 
 これは義時の首を討てといふ文字の響きなり。また年号を承久とつけられたるも深き心あり。その上南都・北嶺に仰せて、義時を呪詛し給ふ。三条白河に寺を建て、最勝四天王寺と名付けて四天王を安置し、障子に詩歌を詠ぜさせらる。実朝討たれ給ひぬと聞こし召して、俄にこの寺をこぼたれぬ。調伏の法成就すれば破却する故なり。
 
 六条の宮(=雅成)を鎌倉に据ゑ奉らんと思し召しけるが、京・田舎に二人の聖主悪しかるべしとて止めたまひけり。九条の左大臣道家公の三男(=頼経)、二歳にならせ給ふを、将軍に定めさせ給ひけり。これは鎌倉殿(=頼朝)の御妹婿一条の二位の入道能保の卿の御娘、九条殿(=道家の祖父兼実)の北の政所にてましませば、その御由縁なつかしさに、義時申し下しけるとぞ聞えし。
 
 承久元年六月二十五日に京を立たせ給ひて、同じき七月十九日関東に下着。たちまちに槐門(=大臣の家)太閤の窓を出でて、軍監亜相の扃(とぼそ)に留まり給ふ。そもそも右京の大夫兼陸奥の守平の義時は、上野の守直方が五代の末葉北条の遠江の守時政が嫡子、二位殿の御弟、実朝の御叔父なり。権威重くして国郡に仰(あふ)がれ、心正しくして王位を軽くせず。
 
 ここに信濃の国の住人に、仁科次郎盛遠(もりとも)といふ者あり。十四五になる子二人もちたり。存知の旨あるによつて元服もさせず。折節院熊野参詣の路にて参りあひ、やがて見参に入奉り、しかじかと申しければ、即ち西面に参るべきよし仰せ下されけり。悦びをなし父盛遠も参る。
 
 義時伝へ聞いて、「関東御恩の者が義時に案内を経ずして、左右なく京家奉公の条、はなはだ以て奇怪なり」とて、盛遠が所領五百余町没収しをはんぬ。盛遠このよしを院へ申しければ、還し付くべきよし義時に院宣を下さる。御請文(うけぶみ)には還すべきよし申しながら、即ち地頭を据ゑられけり。院、奇怪なりと御気色斜めならず。
 またその頃、京に亀菊といふ白拍子あり。院、御心ざし浅からずして、摂津の国倉橋の庄といふ所をぞ賜はりける。彼の所は関東の地頭あり。ともすれば、鼓打ちどもを散々にしける間、院に訴へ申しければ、地頭改易すべきよし院宣をなさる。義時御請文に、「彼の庄の地頭は故右大将の御時、平家追討の恩賞なり。命に代り功を積みて賜はりたる所なり。義時が私のはからひにあらず」と申しければ、「それはさる事なれども、当時罪科によつて改易することなり。ただ没すべきよし」重ねて仰せくだされけれども、「なほもつて叶ひ難きよし」御請け申しけり。

 一院日比の御憤りに、盛遠・亀菊そそのかし申しける間、いよいよ御腹立てさせ給ひて仰せられけるは、「そもそも右大将頼朝を鎌倉殿となす事、後白河の法皇の御許しなり。率土の王土は皆これ朕がはからひなり。然るを義時、過分の所存に任(まか)して院宣違背申すこそ不思議なれ。天照大神・正八幡もいかで御力を合せ給はざるべき」とて、内々仰せ合せられける人々には、坊門の大納言忠信・按察使の中納言光親・中御門中納言宗行・日野の中納言有雅・甲斐の中将範盛・一条の宰相義宣・池の三位光盛・刑部卿の僧正長厳・二位の法印尊長、武士には能登の守秀康・三浦の平九郎判官胤義・仁科の次郎盛遠・佐々木の弥太郎判官高重等也。

 これは皆義時を恨むる者共なりければ、神妙の御計ひなりとぞ申しける。摂政・関白等など位重き人には仰せ合せられず。寄々聞き給ひて、「思し召さるゝは理なり。然れどもただ今天下の大事出できて、君も臣もいかなる目をか見給はん」と恐れまします。

 一院、秀康を召して、「先づ胤義が許にゆきて、所存の旨を尋ねよ」と仰せありければ、秀康が宿所に胤義を招いて、「そもそも御辺は鎌倉の奉公を捨てゝ、公家に奉公、如何様の御心にて候ふぞ」と尋ねければ、「胤義が俗姓、人皆知ろし召されたる事なれば、今更申すに及ばず。故右大将家をこそ重代の主君にも頼み奉りしが、この君におくれ奉りて後、二代の将軍を形見に存ぜしに、これにも別れ奉りて後は、鎌倉に胤義が主とて見るべき人があらばこそ別の所存なし。大抵みなこれなるべきに、次ぎに胤義が当時(=現在)相具して候ふ女は、故右大将殿のとき、一品房と申しゝ者の娘なり。頼家の督(かう)の殿に召されて若君一人儲け奉りしを、若宮の禅師公(=公暁)の御謀反に同意しつらんとて、義時に誅せられけり。この故に、鎌倉に居住して、つらき事を見じと申す間、かつは心ならぬ奉公仕るなり」とぞ申しける。

 秀康、「実(まこと)に恨み深きも理なり。義時が振舞ひ過分とも愚かなり。如何にして亡ぼすべき」といひければ、胤義重ねて申しけるは、「京・鎌倉に立ち別れて合戦せんずるには、如何に思ふとも叶ひ候ふまじ。謀をめぐらしてはなどか御本意をとげざるべき。胤義が兄にて候ふ義村は、謀事人に勝れて一門はびこつて候。義時が度々の命に代りて、心安き者に思はれたり。胤義内々消息をもつて、『義時討つて参らせ給へ。日本国の総御代官は疑ひあるべからず』と申すものならば、余の煩ひになさずして、安らかに討つべき者にて候ふ」と申しければ、うち首肯いて、「げにも然るべし」とて、秀康御所へ参りてこのよしを奏す。

 一院、胤義を小坪に召して、御廉を巻きあげさせ給ひて、密々に直に御ものがたりあり。胤義が申す条先の如し。頗る叡感をすすめ奉る。既にこの事思し召したちて、秀康に仰せて近江の国信義を召さる。鳥羽の城南院の流鏑馬の為にと披露す。承久三年五月十四日、在京の武士・畿内の兵士ども、高陽院殿に召さる。内蔵の権の守清範、交名(けうみやう)(=連判状)を注す。一千五百余騎とぞ記したる。

 先づ巴の大将公経を召さる。余の御気色も覚束なく思ひ給ひてければ、後見に主税の頭(ちからのかみ)長平を召して、「伊賀の判官光季が許に馳せ行きて申すべし。三井寺の悪僧実明等を召され、そのほか南都・北嶺・熊野の者ども多く催さる。いかさま仔細のあらんずると覚ゆるなり」

 公経召されてただ今院参す。「重ねて告げしらせん時院参すべし。左右なく参るべからず」とぞ仰せ遣はされける。大将殿参られければ、二位の法印尊長うけたまはりて、公経の卿の袖をとりて引き、馬場矢殿におしこめ奉る。これは御謀反を領掌せず、如何にも関東亡ぼしがたきよし、御謀反に与せざるによつてなり。いまの西園寺の先祖これなり。さてこそ関東には西園寺の御子孫をば、かたじけなき事にはし奉りけれ。子息中納言実氏の卿同じく召し籠められけり。

 おおまかなところ、後鳥羽院は、いかにしても関東を滅ぼそうとだけをお考えになっているようだった。京童を集めて、義時打頭(ぎじちょうとう)、義時打頭と唱えさせる物を与えると、ただでさえ漫事(すずろごと:とりとめのないこと)だというのに、義時打頭、義時打頭と言っていた。
  これは北条義時の首を討てという文字の響きである。また年号を承久とつけたのも深く考えたからである。その上に南都北嶺に申しつけて、義時を呪詛させた。三条白河に寺を建て、最勝四天王寺と名づけて、四天王を安置し、障子に詩歌を詠み書かれた。実朝が討たれたと、知らせが届き、すぐにこの寺を破壊してしまった。調伏の法が成就すれば、破却するのが常のことだったのだ。
  六条宮雅成親王(後鳥羽院子息)を鎌倉に据えようと考えたが、京と田舎に二人の聖主を置くのは悪いことだと中止した。九条左大臣道家の三男・頼経が二歳になったので、将軍に任じた。これは鎌倉殿(頼朝)の妹婿の一条(二位)入道能保の娘、九条殿(道家の祖父兼実)の北政所でいらっしゃったので、その由縁がなつかしく、義時が承知したと聞いている。
  承久元年(1218年)六月二十五日に京を出発し、七月十九日に関東に到着した。すぐに槐門(=大臣の家)太閤の窓を出て、軍監亜相の扃(とぼそ)に逗留された。そもそも右京大夫兼陸奥守・平・北条義時は、上野守平直方から五代後の遠江守北条時政の嫡子で、二位殿の御弟、実朝の叔父である。権威は重く、国郡に仰がれて、心正しく、王位を軽んじなかった。
  ここに信濃国の住人に仁科次郎盛遠(もりとも)という者がいた。十四、五になる子を二人がいた。存在を知る事により元服をまだしていなかった。後鳥羽院が熊野参詣の時に、路にて参り会って、後に見参に入った。そこで云々と述べたところ、西面に召すことを伝えた。喜んだ父盛遠も参上した。
  このことを北条義時は伝え聞いて、
 「関東に御恩ある者が、義時に内容を経由せずに、自分勝手に京都に奉公するという事は、とても怪しいことである」
  と言って、仁科盛遠の所領五百余町を没収したのだった。盛遠がこの事を後鳥羽院に申し上げると、還しつけるように、北条義時に院宣を下された。請文(うけぶみ)には還すと返事をしながら、すぐに地頭を派遣したのだった。後鳥羽院は、怪しい事だとご機嫌が悪くなった。
  また、その頃に、京都に亀菊という白拍子がいた。後鳥羽院の好意も深く、摂津国倉橋荘を給わらせた。ここには関東の地頭がいた。すると、鼓打ちどもを散々な目にあわせたので、後鳥羽院に訴えたので、地頭を改易(かいえき:職を取り上げる)するおゆに院宣をなされた。北条義時はその請文に、
 「彼の荘の地頭は、故右大将(源頼朝)の時代に、平家追討の恩賞である。命に代えて功を積んで、賜った土地である。義時自身で与えたものではない」
 と返事をしたので、
 「それは、そういう事であるが、今、罪科があって改易するのである。ただ没収すればよいのだ」
 と重ねて述べられたのだが、
 「なおさら、できません」
 と請文を返したのだった。
  一院(後鳥羽院)は日頃のお怒りに、仁科盛遠と亀菊が悪い方へ向かっている間、ますますご立腹されて、おっしゃるには、
 
「そもそも、右大将頼朝を鎌倉殿としたことは、後白河法皇が許したことだ。率土(そっと:国の果て)までの王土は、すべて朕が管理することである。それを義時が、過分の考えに任せて、院宣に背くとは、問題である。天照大神、正八幡(正八幡大菩薩)もなんとかお力をお貸し下さい」
 と言って、内々に話をされる人々には、坊門大納言忠信、按察使藤原中納言光親、中御門中納言宗行、日野中納言有雅、甲斐中将範盛、一条最勝義宣、池三位光盛(平頼盛の子)、刑部卿僧正長厳、二位法印尊長(そんちょう)、武士では藤原能登守秀康(和田義盛の弟・宗実の子)、三浦平九郎判官胤義、仁科次郎盛遠、佐々木弥太郎判官高重、等であった。
  これは皆、北条義時に怨みを持つ者どもだったので、密かな謀であると申しつけた。摂政、関白等の位が高い人には、話を知らせなかった。ある時、聞き及んで、
 「後鳥羽院がお考えのことはよくわかる。しかし、ただ今の天下で大事が起きても、君も臣もどのような目にあうかわからない」
 と恐れていた。
  後鳥羽院は藤原能登守秀康を呼んで、
 「まず、三浦胤義の許に行って、計画の主旨を告げよ」
 と命令したので、藤原秀康は宿所に三浦胤義を招いて、
 「そもそも、あなたは鎌倉への奉公をやめて、公家に奉公しているが、どのように後鳥羽院のお心をお考えか」
 と尋ねたところ、
 「胤義の鎌倉での話は、人は皆知っていることですので、今更お離しすることはございません。故右大将家こそ重代の主君であると考えて奉公しましたが、この君にの後、二代の将軍を亡くしてしまい、これで別れた後は、鎌倉には胤義が主人と見る人がいなかったので、特に鎌倉への依存はありません。多くの者がこのように考えていると思いますが、胤義が今、妻としている女は、故右大将のとき一品房という者の娘です。頼家督に召されて若君を一人もうけたのですが、若宮禅師(公暁)の謀反に同意しいたため、北条義時に殺されました。これ故、鎌倉に居住して、辛いことを見たくないと言う間は、心にかなわない奉公はしたくはありません」
 と答えたのだった。
  藤原秀康は、
 「まことに怨みが深いのはよくわかります。北条義時の振る舞いが過ぎるというのは愚かなことです。どのようにして滅ぼしましょうか」
 と言うと、三浦胤義が重ねて、
 「京都、鎌倉に別れて合戦をするのは、どうかと思いますし、上手くいかないと思います。謀(はかりごと)をめぐらして、なんとか御本意を遂げたいと思います。私の兄である三浦義村は、謀略が人より優れていて一門の中でも勢力があります。北条義時の度々の命令に代わって、親しい者と思われています。私が内々に連絡をとって、
『北条義時を討って参れ。日本国の総御代官に任じられるのは間違いない』
と言えば、余計な煩いも残さず、すぐに行動に移す者です」
と述べると、秀康は頷いて、
「なるほど、そうなのか」
と言って、秀康は御所へ参上して、この事を後鳥羽院に報告した。
 後鳥羽院は、三浦胤義を小壺(小さな庭)に呼び出して、御簾を上げさせて、秘密を直に打ち明けたのだった。胤義が話したのは、前の通り。少々、後鳥羽院が感じられたことを話された。既に、この事については、お考えがあって、秀康に話して、近江国(藤原)信義(藤原信実の子か?)を呼ばれた。鳥羽城南院の流鏑馬の為にと披露(公表)した。承久三年(1220年)五月十四日に、在京の武士、畿内の兵士ども、高陽院殿に集められた。内蔵権守藤原清範(藤原範康の子)に連判状に書き付けた。一千五百余騎と記入した。
  まず、巴大将(藤原)西園寺公経を呼ばれた。あまりのご表情が不安のように思えて、後見に主税頭(ちからのかみ)三善長衡(三善行衡の子)を呼び、
 「伊賀判官藤原光季の許に急いで行って申すべし。三井寺の悪僧実明等を集め、その他南都、北嶺、熊野の者どもを多く集めた。虚構の仔細があるものと覚悟しておいてくれ」
  公経は呼ばれてすぐに、後鳥羽院に参上した。
 「重ねて告げ知らせる時、後鳥羽院に参上しなさい。自由に来なさい」
 とおっしゃた。大将殿が参られたので、二位法印尊長がこれに気がつき、西園寺公経の袖を引いて知らせ、馬場矢殿に招いた。これは謀反を了承せず、どのように関東を滅ぼしたら良いか、謀反の内容を話し合うためだった。今の西園寺の先祖がこの公経である。さて、後日、関東には西園寺の御子孫を、おそれおおくも子息中納言実氏が、公経と同様に召し捕られ、幽閉されるのだった。

光季・親広召さるゝ事 04



 また胤義を召して、「伊賀の判官光季・少輔入道親広をば討つべきか。また召し籠むべきか」と仰せあはせられけり。胤義申しけるは、「親広入道は弓矢取る者にても候はず。召されてすかし置かせ給て、一方にも指し遣はされ候べし。光季は源氏にて候ふ上、義時が小舅にて弓矢をとる家にて候へば、召され候ともよも参り候はじ。討手をさし向けられ候べしと覚え候。さりながら先づ両人召さるべく候ふか」と申す。
 先づ少輔入道をめさる。やがて参るべしよし申して、御使帰りて後、親広入道、光季が許へ、「三井寺の強盗しづめん為にとて、急ぎ参るべきよし仰せ下さるゝ間参り候。御辺にも御使候ひけるやらん」というたりければ、判官、「いまだこれへ使も候はず。召しに従つてこそ参り候はめ」と返事す。親広入道は百余騎にて馳せ参ず。
 殿上口に召されて、「如何に親広。義時既に朝敵となりたり。鎌倉へつくべきか、味方へ参ずべきか」と仰せ下されければ、「いかでか宣旨をそむき奉るべきよし」申しければ、「さらば誓書を以て申すべきよし」仰せらる。二枚書きて、君に一枚、北野に一枚参らせけり。この上は一方の大将に頼み思召すよし仰せ合はせられけり。
 その後光季を召さる。判官、院の御使に出合ひ申しけるは、「光季はかたの如く鎌倉の代官として京都の守護に候を、先づ光季を召して後こそ、自余の武者をば召さるべきに、今まで召されず候間、大方不審一つに非ず候。軈(やが)て参るべきよし」申し候。御使一時の内に重ねて「遅し」と召されけれども、過ぎにしころ怪しき事を聞きし上、大将殿御使も様(=わけ)あり。人より後に召さるゝ事もかたがた以て怪しければ、ご返事には、「何方へも仰せ蒙りて直に向ふべく候。御所へは参るまじきよし」を申しければ、「光季めははや心得てけり。急ぎ追討すべし。今日は日暮れぬ。明日向ふべきよし」胤義申してその夜は御所を守護し奉りけり。


官兵光季を攻むる事 05



 去る程に、光季も「今日は暮れぬ。明日ぞ討手は向ひ候はんずらん」と思ひければ楯籠る。その夜、家子・郎等並居て評定す。人々申しけるは、「無勢にて大勢に叶ひ難し。私の遺恨にあらず。忝くも十善の帝王を御敵に受けさせ給へり。夜の内に京を紛れ出でさせ給ひて候はゞ、美濃・尾張になどか馳せのべさせ給はざるべき。又は若狭の国へ馳せ越えて、船に召され越後の庄に着きて、それより鎌倉へ伝はせ給へ」と、口々に詮議す。
 光季いひけるは、「東へも北へも落つべけれども、人こそ板東に多けれ。光季を頼みて代官として京都の守護に置かれたる者が、敵も敵により所も所による、流石に十善の帝王を敵に受け奉り、処は王城、花の都、弓矢取る者の面目にあらずや。今は関をも据ゑられつらん。憖(なまじ)に落人となりて、此所彼所にて生捕られん事こそ口惜しけれ。義時帰り聞かれんも恥づかし。若党どもの言はん所もやすからねば、光季は一足も引くまじ。落ちんと思はん人々疾々(とくとく)落つべし。恨みもあるべからず」と云ひければ、暫しこそありけれど、夜更けゝれば残り少なく落ちにけり。
 思切り止まる者は、郎等に贄田の余三郎・鼓の五郎・飯淵の三郎・大住の進士・山村の次郎・河内の太郎・治部の次郎・うのての次郎・大村の又太郎・金王丸、以上廿七人なり。各々父母・妻子の別れは悲しけれども、年来の誼・当座の重恩、また未来の恥も悲しければ、屍を九重の土に晒すべしとて、留まりけり。
 判官の子に寿王の冠者光綱とて十四歳になる者ありけり。判官、「汝は有りとても戦すべき身にもあらず。鎌倉へ下り、光季が形見にも見え奉れ。幼からんほどは千葉介の姉の元にて育て」といひければ、寿王申しけるは、「弓矢取る者の子となりて、親の討たるゝを見捨てゝ逃る者や候。また千葉介も親を見捨てゝ逃る者を養育し候べきや。唯御供仕り候べし」と云ひければ、「さらば寿王に物具させよ」と云ひければ、萌黄の小腹巻に小弓・小征矢を負て出で立たせたり。
 光季も白き大口に着背長前に置き、弓二張・箭を二腰副へて出居の間に居たり。白拍子共召し寄せ終夜酒宴し、夜も曙になりしかば、日比秘蔵しける物ども遊君共にとらせつつ帰しけり。
 同き十五日午の時に、「上京に焼亡出できたり」とぞ罵りける。また暫しあつて、「焼亡には非ず。これへ向ふ官兵の馬の蹴立つる烟なり」とぞ申しける。既に院より差遣はさるゝ大将軍には、三浦の平九郎判官胤義・少輔入道親広・佐々木の山城の守広綱・弥太郎判官高重・駿河の大夫の判官維家・筑後の前司有信・筑後の太郎左衛門有長、都合八百余騎にて押寄せたり。
 館の内には少しも騒がず最後の酒宴して並居たり。贄田三郎申しけるは、「京極西の大門をも高辻西の小門をも共に開いて、両方を防いで最後の合戦を人に見せ候はん」と申しければ、贄田右近申しけるは、「二つの門を開くならば、大勢こみ入りて無勢を以て支へ難し。大門をば差固め、上土門ばかりを開きて、入らん敵を暫し支へて後には自害せん」と申す。この義はよかりなんとて、京極表をば差固め、高辻表計りを開きたり。

 兵士ども矢前(さき)を揃へて立ち並びたり。一番には平九郎判官、「手の者進めよ」とて閧をつくる。信濃の国の住人志賀の五郎左衛門、門の内へ駈け入らんと進みけるを、判官の郎等藤武者の次郎に膝を射られて退きにけり。山科次郎駈寄つて贄田の四郎に腕(かいな)射られて引退く。屋島の弥清太郎、贄田の三郎に胸板射させて退きにけり。垂井の兵衛太郎入れかはりたり。内より放つ矢に、馬の腹射られて鐙をはづして、縁の際まで寄せたりけるが、高股射貫れて引いて出づる。西面の帯刀左衛門の尉、射白まかされて退きにけり。

 その後押寄せ押寄せ戦へども、打入る者こそ無かりけれ。館の中には少しも騒がず防ぎけり。「上土門をば破り得ず。大門を打破れ」とぞ下知しける。判官これを聞きて、「敵に打破られては見苦し。内より開けよ」と言ひければ、治部の次郎押し開き、「とくとく御入り候へ」とぞ申しける。

 兵士ども二手に引分けて待つ処に、筑後左衛門押寄せたり。射白まかされて退きにけり。真野左衛門時連入れかはりたり。内より判官これを見て、「日比の詞にも似ぬ者かな」と詞を懸けゝれば、門の外より蒐(かけ)入りて馬より下り、太刀を抜き縁の際まで寄せたり。

 簾(すだれ)の内より判官(=光季)の射ける矢に胸板のぶかに射られまろぶ所を、郎等肩に引きかけて出でにけり。平九郎判官(=胤義)車やどりに打ち入りて、「胤義宣旨の御使也。太郎判官に見参らせん」といはれて、簾の際に立寄り、「何と云ふぞわ人ども。君をすすめ奉りて、日本一の大事を起すは如何に。大将軍と名乗りつれば、矢一つ奉らん」とて放つ。胤義が弓の鳥打ち射切りて、並びたる武者に射立てたり。胤義人を進ませて、「思ふ様あり」とて引退く。

 「弥太郎判官高重」と名乗りて、門の内へ喚いてかく。「寿王冠者が烏帽子親(=名親)にておはし候へば、恐れ候へども矢一つ参らせ候はん」とて放つ矢に、高重は射向けの袖に裏かゝせけり。高重引返す。

 御園の右馬の丞・志賀の平四郎射られて引いて出づ。内には頼みつるに、贄田の三郎大事の手負うて腹を切る。治部の次郎自害す。宗徒の二人自害するを見て、残る者ども矢は射尽しつ。内へ入つて自害す。敵庭に乱れ入りければ、二十七人籠りつる兵十余人落ちにけり。十人は自害して、判官父子贄田の右近・政所の太郎四人にぞなりにける。

 家に火かけて自害せんとする処に、備前の前司・甥の帯刀の左衛門二人駈け入るを、贄田の右近・政所の太郎おり合ひて打ちはらひ帰り入る。二人も手負うて自害して伏しにけり。
 寿王丸簾の際に立たりけるを、判官、「敵に取らるゝな。光季より先に自害せよ」と云はれて、物具ぬぎ捨てゝ刀を抜いたりけれども、腹を切り得ざりけり。「さらば火の中へ飛び入りて死ね」と云はれて走り入りつるに、恐ろしくや思ひけん。二三度走り返り走り返りしけるを、判官呼び寄せて膝に据ゑて目を塞ぎ腹を掻き切り、火の中へ投入れて、我身も東へ向きて、「南無鎌倉の八幡大菩薩、光季唯今大夫殿の命に代つて死に候」と申す。三度鎌倉の方を拝して、西に向ひ念仏唱へ腹を切り、火に飛び入つて寿王が死骸に抱付きて伏せにけり。
 去程に胤義・親広以下、御所へ参り合戦の次第をぞ奏す。「君も臣も、昔も今も光季程の者こそありがたけれ」と褒められけり。一院「今度勧賞あるべし」と仰せければ、胤義申しけるは、「光季ばかりにて候はゞ尤も然るべく候。義時程の大事の朝敵を置かれて、唯今の勧賞如何に候べき」と奏す。君も臣も、「いしう(=見事に)申したり」とぞ仰せける。
 一院仰せけるは、「義時が為に命を捨つるもの東国に如何程ありなん。さすが朝敵と名乗りて後は何程の事あるべき」と、問はせ給ひければ、庭上に並居たる兵士ども、「おしはかり候に、いくばくか候べき」と申しあぐる中に、庄四郎兵衛何がしといふもの進み出でて申しけるは、「式代(=お世辞)申させ給ふ人々かな。あやしの者討たれ候ふだにも、命を捨つる者五十人・百人は有る習ひにて候。まして代々の将軍の後見、日本国の副将軍にて候時政・義時父子二代の間、公様(おほやけざま)の御恩と申し、私の志を与ふること幾千万か候らん。就中元久に畠山(=重忠父子)を討たれ、建保に三浦(=和田義盛の乱)を亡ぼしゝより以来、義時が権威いよいよ重うして、靡かぬ草木もなし。この人々の為に命を捨つる者二三万人は候はんずらん。某も東国にだに候はゞ、義時が恩を見たる者にて候へば、死なんずるにこそ」と申せば、御気色悪しかりけれども、後には「式体なき兵士なり」と覚し召し合せられたり。


  一方、伊賀光季は、 
「今日は暮れました。明日こそ討手が向かってくるだろう」
 と思ったので、立て籠った。その夜、家子・郎党を集めて評定を開いた。それぞれが言うには、
 「こちらは無勢ですので大勢には敵(かな)いません。個人の遺恨によるものでもありません。すべて天皇や法皇を御敵とされたからです。夜の内に京をから紛れ出ていただいて、美濃、尾張などに、なんとか逃げ延べさせるべきでしょう。または若狭国へ馳せ越えて、船を使って越後の荘に着いて、そこから鎌倉へお使いを出されてはどうでしょうか」
 と口々に詮議した。
  光季が言うには、
 「東へも、北へも落ちろというが、味方は板東に多いのだ。光季を頼って代官として京都守護に置かれたのに、敵も敵、所も所で、さすがに天皇、法皇を敵に回してしまった、ここは王城、花の都、弓矢を取る者として、人に合わせる顔が無くなるではないか。これから関所を設置されるだおう。中途半端に落人となって、此処彼処(ここかしこ)で生け捕られたときは、後悔するだろう。北条義時がこれを聞けば、恥ずかしいだろう。若党どもが言う所もよくわかるが、光季は一歩も引くつもりは無い。落ちたいと思う者どもは、急いで落ちるように。恨みなどあるはずもない」
 と伝えると、しばらくの間、夜更けになると大半が京都を脱出し、残り少なくなった。
  思い留まる者は、郎党に贄田余三郎、鼓五郎、飯淵三郎、大住進士、山村次郎、河内太郎、治部次郎、うのて次郎、木村又太郎、金王丸、など以上二十七人であった。各々父母・妻子との別れは悲しいが、これまでの誼(よしみ)、現在の重恩、また将来の恥も恥ずかしいが、屍を宮中の土に晒してやろうと、留まったのだった。
  伊賀判官光季の子に寿王冠者光綱という十四歳の者がいた。光季が、
 「お前は居ても戦いすべき身ではない。鎌倉へ下って、光季の形見として見参せよ。幼い頃は、千葉介の姉の元で育て」
 と言うと、寿王がそれを聞いて、
 「武門の者の子となって、親が討たれるのを見捨てて逃げることはできません。また千葉介も親を見捨てて逃げた者を養育するわけもありません。ただお供したく」
 と言うと、
 「そうならば、寿王に武装させよ」
 と言って、萌黄(もえぎ)の小腹巻(木製の胴巻き)に小弓、小征矢を背負って、出て立たせたのだった。
  光季も白い大口(おおぐち:下袴)に着背長(きせなが:大将の鎧の美称)を前にして、弓を二張、箭(せん:矢の古称)を二腰添えて、出居(いでい)の間に居た。白拍子どもを召し寄せて、終夜主演し、夜も曙(あけぼの)になってきた頃、日頃より秘蔵していた物を、集まった者どもに分け与えて帰したのだった。
  承久三年(1220年)五月十五日午(うま)の刻(午後十二時頃)に、
 「上京に火災が発生した」
 と大声で叫び回った。そのあとしばらくして、
 「火災ではない。これは伊賀光季討伐に向かう官兵の馬が駆けている土煙である」
 と言った。既に後鳥羽院より使わされた大将軍には、三浦平九郎判官胤義、大江少輔入道近広、佐々木山城守広綱、佐々木弥太郎判官高重、駿河大夫判官維家、筑後前司有信、筑後太郎左衛門有長、およそ八百余騎で押し寄せたのだった。
  伊賀光季の館の中は、少しも騒がずに最後の酒宴をして、皆並び居た。贄田三郎が、
 「京極西の大門も、高辻西の小門も共に開いて、両方を拠点として、最後の合戦を人々に見せてやろうではないか」
 と言うと、贄田右近が応じて、
 「二つの門を開くのならば、大勢込み入って、無勢では防ぎきれないだろう。地紋を差し固めて、その上土門だけを開いて、入ってくる敵からしばらく防いで、その後に自害しよう」
 と言う。この義はよい方法だというので、京極表(おもて)を差し固めて高辻表をわざと開いたのだった。
  後鳥羽院方の兵士達は矢前(さき)を揃えて立ち並んでいた。一番には平九郞判官胤義、
 「手の者よ、進め」
 と鬨を上げた。信濃国の住人、志賀五郎左衛門(幕府方)は門の中から駈け入ろうと進むのを、判官の郎党藤武者の次郎に膝を射られて退いていった。山科次郎(幕府方)駆け寄って、贄田四郎に腕(かいな)を射られて退いた。屋島弥清太郎(幕府方)も贄田三郎に胸板を射られて退いた。垂井兵衛太郎(幕府方)に入れ替わった。内から放たれる矢に馬の腹を射られて、鎧をはずして、縁の際まで寄せたのだが、高股射貫かれて退いていった。西面の帯刀左衛門尉(幕府方)も伊賀勢の射に悩まされて退いていった。
  その後も押し寄せ、押し寄せ、戦ったけれど、打ち入るものはなかった。館の中では少しも騒ぐこと無く、防戦していた。
 「上土門を破れないか。大門を打ち破れ」
 と下知された。伊賀判官光季はこれを聞いて、
 「敵に打ち破られては見苦しい、内から開けよ」
 と言うと、治部次郎が大門を押し開いて、
 「急ぎ、お入りください」
 と言った。
  兵士等を二手に分けて待つところに、筑後左衛門(幕府方)が押し寄せてきた。これも射に悩まされて退いていった。真野左衛門時連が交代した。内側から判官光季がこれを見て、
 「日頃の言葉に似つかわしくない者よ」
 と言葉を掛けると、門の外から懸け入って馬から下りて、大刀を抜いて縁の際まで寄せてきた。
  簾(すだれ)の内から判官光季が射る矢に、胸板深く射られたところを、郎党が引きずって出ていった。平九郞判官胤義は、車宿(くるまやどり:牛車などを収納する倉庫)に打入して、
 「胤義、宣旨のお使いである。太郎判官にお目に掛りたい」
 と言うと、簾の側に立ち寄り、
 「いったいどういうことでしょうか。君をもり立てて、日本一の大事を起こすのはどうしてでしょうか。大将軍と名乗るのならば、矢を一つ差し上げよう」
 と矢を放つ。胤義は弓の鳥打ちを射切って、並んでいた武者に射立てられた。胤義は、他の人にまかせて、
 「思う所がある」
 と退いていった。
 「(佐々木)弥太郎判官高重」
 と名乗って、門の中へ喚いて行くと、
 「寿王冠者の烏帽子親(名親)であれば、恐れおおいが、矢を一つ差し上げよう」
 と三浦胤義が放つ矢に、高重は射向けの袖で避けたのだった。高重はここで引き返した。
  御園の右馬丞・志賀兵四郎が射られて退いて出ていった。内には頼みとしていた、贄田三郎が手ひどい傷を負ったので、切腹した。治部次郎も自害した。主要な二人が自害するのを見ながら、残る者達は矢を射尽くしてしまったあので、内に入って自害していった。敵が庭に乱れ入ってくると、二十七人が籠っていたが兵十余人が落ちていった。十人は自害して、伊賀判官光季父子、贄田右近、政所の太郎の四人だけになった。
  家に火をかけて自害しようとするところに、備前前司である甥の帯刀左衛門が二人で懸け入ってきたのを、贄田右近、政所太郎が撃ち合って、追い返した。二人は手傷を負ったので、自害して倒れてしまった。
  寿王丸が簾の側に立っているので、判官光季が、
 「敵にやられてしまうぞ。光季より先に自害せよ」
 と言って、武具を脱ぎ捨てて、刀を抜いたけれども、腹を切ることは出来なかった。
 「それでは、火の中に飛び入って死ね」
 と言われて、走り入ったものの、恐ろしくなって、二度三度走り、戻り、走り、戻りをしていたので、判官光季は呼び寄せて、膝に座らせて、目を塞ぎ、腹を掻き切り、火の中に投げ入れて、自分自身も東を向いて、
 「南無鎌倉の八幡大菩薩よ、光季はただいま大夫殿の命に代わって死にます」
 と入った。三度鎌倉の方を拝んで、西に向かって念仏を唱えて、切腹し、火に飛び入って寿王の死骸に抱きついて、倒れたのだった。
 少しして、三浦胤義、大江入道親広以下、御所へ参上して合戦の次第を報告した。
 「君も臣も、昔も今も、伊賀光季ほどの者がいたのは、ありがたいことだ」
 と褒められたのだった。後鳥羽院は、
 「この度の、戦功はどうであろうか」
 とおたずねになると、三浦胤義が、
 「伊賀光季だけと戦をしましたので、およそ適当にお任せいたします。義時のような大物の朝敵がまだ残っておりますので、ただいまの恩賞を与えるのはどうかと思います」
 と述べた。君も臣も、
 「お見事な、申し分ですぞ」
 と言った。
  後鳥羽院は、
 「北条義時の為に命を捨てる者が、関東にどれほどいるだろうか。さすが朝敵と名乗った後はどれほどの事があるはずだろうか」
 と問われた。庭上に並び居た兵士どもは、
 「ご心中のことは、どのくらい甚だしいかわかっております」
 と答える中に、庄四郎兵衛某(ないがし)という者が進み出て、
 「お世辞を言う人々ばかりですね。敵となった者を討った早々に、命を捨てた者五十人、百人になるのはきまりきったことです。ましてや、代々の将軍の後見、日本国の副将軍として、北条時政、義時の父子二代の間、公様(おおやけざま:天皇と朝廷による国家経営)の御恩だと言って、個人的な志を抱いて幾千万の軍勢になっています。就中元久によって畠山重忠父子が討たれ、建保には、和田義盛の乱で三浦を滅ぼして以来、北条義時の権威はますます重くなり、なびかない草木もありません。この人々のために命を捨てる者は二、三万人はいるにちがいありません。私も東国の出身ですので、義時の恩があるものは、死ぬべきときに死にましょう」
 と言うと、後鳥羽院の顔色が変わったが、後になって、
 「式体(しきたい:挨拶、お世辞)もない兵士である」
 と思った。
 

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