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メインの森──真の野生に向かう旅   小野和人

 メインの森について

 アメリカ・ルネサンス期(19世紀前半)に活躍した合衆国の思想家・随想家のヘンリー・デビット・ソロー(Henry David Thoreau 1817─1862)は、自然と人生の相関というテーマを扱った名作『ウォールデン』でよく知られている。けれども、合衆国における従来のソロー全集(リバーサイド版)には、この他、日記を中心に十九冊に及ぶ彼の著作が収録されているし、現在刊行中の新版の全集(プリンストン版)では、さらに旧版の倍近くの作品が収められる予定の由である。ソローはその短い生涯の割に多作であったが、日本ではその作品の大半が、学界を別とすれば、世に未紹介のままであると言わねばならない。今後の翻訳や解説の進展が望まれるゆえんである。

 ソローがメイン州へ短期間の旅をした後に、その未開の森林地にはじめて本格的な旅をしたのは、1846年の夏の終り頃で、これは彼が、作品『ウォールデン』の場であるマサチューセッツ州コンコード(彼の故郷)のウォールデン湖畔の丸太小屋ら生活中のことであった。元々ソローは自然の営みを好み、自然に学ぼうとする姿勢を持っていた。湖畔の森の中で彼は自然に即した独居生活を営み、自然に照らして自己の人生を見つめ、真の生きがいを模索していた。けれどもソローは、さらに、人の手の一切加わらない野生そのものの大自然にも相対し、その極限的な状況に自己をさらしてみたいという願望にかられたらしい。

 ソローがその度に選んだメイン州は、合衆国の東部ではあるが、遠くカナダとの境界に位置し、カナダへ向けて途切れることなく大原生林帯が続いており、まさに原自然(ウイルダーネス)を代表する地域の一つであった。折りしもメイン州の町バンゴーには、ソローの従弟ジョージ・サッチャーが住んでおり、奥地にあるクタードン山の麓へ森林の管理の仕事に赴こうとしていた。それがソローにとって直接の手誤記となった訳である。この森林地や河川、湖沼地帯はソローを畏怖させるとともに魅了し、その後も二回、メインの奥地へ探検の旅に出かけることになった。

 最初の旅から帰省の直後にソローは、本書の第一話「クタードン山」の元になる原稿を作成し、これを題材にして1847年1月にコンコードのライシーアム(文化協会)で講演を行い、地区の人々に好評を博した。この原稿は1848年7月から、『ユニオン・マガジン・オブ・リテラチャー・アンド・アーツ』という雑誌に五回にわたり連載された。

 この話の中心は、峨々たる岩山クタードンへのソローの登山と、その帰途に遭遇した茫洋と広がる焼け地バートン・ランドの荒野そのものの光景であろう。ソローは人間としての自己を見失う思いで「我々とは誰なのか、我々はどこに位置しているのか」と問いかける。「ウォールデン」の中でソローは、日常の自己を見失ってこそ真の自己の意味がひらけてくるものだ、と述べている。これはクタードンにおける彼の直接の体験が導き出した悟りなのではなかろうか。

 ソローの二回目のメインの森への旅は1853年9月になされ、同年12月にその講演が、やはりコンコードのライシーアムで行われた。このときの原稿は本書の第二話「チェサンクック湖」に該当するもので、58年6月から雑誌「アトランティック・マンスリー」に三回連載された。

 この話では、ソローが従弟のヘラジカ狩りに同行し、猟銃で一頭がしとめられるのを目撃した後、その解剖にも立ち会っている。狩猟の前にはそれに好奇心を抱いていたソローが、その後では後悔し、己の心がひどく荒廃したと感じているのである。さらに、インディアン達によるヘラジカの乱獲と白人達によるストローブ松の徹底的な伐採の状況を目にし、ソローの怒りと嘆きが沸騰する。この箇所では、現在の自然環境破壊を摘発する世の論評をしのぐものほどの真摯な訴えがなされている。

 ソローの三回目のメイン行きは1857年の盛夏の頃になされ、講演は翌年2月に行われた。本書の第三話「アレガッシュ川の東流」の基となったこの原稿は、その後推敲の途中、1862 年にソローが死亡し、未刊のままとなった。
 第三話では、ソローの関心が旅に同行したインディアンの優れたガイド、ジョウ・ポリスの言動に一貫して向けられている。「僕の知っていることは全て教えるから、君の知っていることも全て教えてくれないか」とソローはもちかけ、ポリスも快くそれに応じたのである。ソローは極めて意欲的で、インディアンが大自然の中に順応して生きているその暮らしぶりを体得しようとし、彼らの言葉の表現をも学びとろうと努めている。このことは「補遺」の部分のインディアン語の一覧表にも窺うことができる。

 1864年に至り、以上の三つの紀行文は、ソローの妹ソフィアと彼の友人エラリー・チャニングの尽力により一冊の書物にまとめられ、テイックナー・アンド・フィールズ社より「メインの森」(The Maine Woods)と題して出版された。この作品はホートン・ミフリン社による1906年の全集(リバーサイド版)にも収められた。さらに、新全集(プリンストン版)においては、1972年にテキサス大学オースチン校のジョウゼフ・モルデンハウアー教授の編集により出版された。教授は、この作品に関してこれまでに刊行された書物のみならず、ソローの部分的に残存する直筆原稿や当時の掲載雑誌をも逐一参照し、でき得る限り正確な作品の収録を期されたとのことである。このたびの私の翻訳に際しても、底本として躊躇なくこの書物を選んだことを付記しておきたい。

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 我が国において「メインの森」り翻訳を、部分的にではあるが、最初に公にされたのはアメリカ文学者の斎藤光教授であった。教授は「クタードンの初めて後半の一部と結語」の部分を訳出され、「アメリカ古典文庫」(研究社)の中の「超越主義」と巻(1975)の一部分とされた。続いて大出健氏がこの作品の第一部(クターデン)と第二部(チュサンクック)を訳出され、1988年に冬樹社より出版された。これは処々に省略はあるが、全作品の半分ほどの分量である。以上のお二人が、先達として、この作品の解読と鑑賞への道を切り開くのに貢献されたことはいうをまたない。

 それに続いてもこのたび私の試みでは、作品の第一部と第二部の省略箇所を埋め、さらに、私なりの解釈も示したいと願い、かつ作品の後半部、即ち第三部と補遺の部分を含めて作品の完訳を公にするべく、出版にふみきった次第である。その際に、作品の題名をより明確にするために、「真の野生に向う旅」という副題を添えてみた。また読みやすくするために、幾つかの章に分け、その内容になるべく添うような章名をつけた。旅の一日の行程を一つの章にするように心がけたが、内容により一致していない箇所もある。第三部ではソロー自身による日付が添えられているので、章の区分けに利用することにした。角がっこの中は訳者による註であるが、文中に収まらない場合は後註も加えた。

 この仕事の間、青山学院大学の?川恙教授には一方ならぬお世話をいただいた。教授はこの作品に関する書物や資料、植物学に関する参考書や辞典等を次々と御恵贈くださり、かつ拙訳の原稿全般にわたり点検をされて、有益な助言とご注意を度々くださった。その懇切なご指導にはお礼の申し様もなく、ただこの事実を記して感謝に代えさせていただく。又、それ以前に、学会のヘンリー・ソロー協会により、十数年にわたりソロー研究の指導をいただいたが、それもこの仕事に幸いしたことと思われる。

 翻訳の作業は既に協会に入会の頃から開始し、その後も断続的に行い、粗書の原稿を七冊の大学ノートに書き留めておいた。けれども、まだ疑問が幾つか残り、それが解消しないうちに私は文部省の在外研究員に選ばれ、1990年9月初旬から7ヶ月間、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校に滞在することになった。同校の総合図書館長ジョウゼフ・ボワッセ博士の温顔に迎えられて安堵し、翻訳の仕上げに取り組んだ。同図書館三階には、現在刊行中のプリンストン版ソロー全集の編集出版局が置かれている。編集長はソローの著名な文献学者で才媛のエリザベス・ウィンザレル博士である。私は博士は「メインの森」に関して数十箇所にわたり疑問点を問いかけ、博士は編集の仕事で多忙にもかかわらず、それを逐一検討してくださった。それでもなお不明の箇所については、全集中でこの作品の編者であったテキサス大学のジョウゼフ・モルデンハウアー教授に問い合わせてくださり、教授の尽力によりそれらの疑問も解消できた。又、同出版局で編集の実務を担当されているルイザ・デニス氏も、資料の扱い方等で気さくにお世話をしてくださった。なお、私の渡米前に、プリンストン大学のウイリアム・ホアース教授より、この出版局について詳しい情報と紹介をいただいたこともありがたかった。教授は全集の前編集長を務めた方である。

 滞米期間の残りを私は東部で過ごし、六月下旬にメイン州のバンゴーを訪れた。ホテルに一泊後、格安のタクシーをやとい、澄んだペノブスコット川の流れに沿って進み、三時間半の後、カターディン(クタードン)の山麓に至った。ここから山道を二時間ほどたどると、カターディンの登山基地で小池のあるチムニー・ポンドに着いた。この基地自体も一つの山上といえるほどの高地であった。そこから見上げると、峨々たる岩山が、千数百メートルの高さで、横長に屏風の如く連なっている。その尾根にピークが三つあり、左がポラーラ峰、真中が南峰、右が最高点のカターディン本峰である。私はポモーラ峰の大岩にとりつき、その中腹まで登ってみた。けれども、霧雨が降り出し岩々が滑り、危険な感じとなり、残りの時間も少なくなったので下山した。チムニー・ポンドの基地には山小屋があるので、そこで一泊するか、あるいはバンゴーを早朝にたてば、その日のうちに最高峰の登頂も可能と思われた。基地を去って帰途の山道から仰ぐ山並みは、又晴れわたり、私の小心とせっかちさに哄笑している如くに見えた。ソローの達した地点までゆけなかったのは残念である。けれども、五十代に入った私ではこれで止むを得なかったとも思う。

 なお、ムースヘッド湖の絵は、ソロー学者で中村学園大学教授の重松勉氏のお手によるものである。同じくソロー研究者で福岡大学教授の西村正巳氏にもご支援いただいた。私の勤務先九州大学では、田島松二教授をはじめ、同僚の方々にお世話をいただいた。さらに、出版を快諾された金星堂の常務、福岡正人氏、丹念に編集された岡部等氏にも厚くお礼申し上げる。
1992年2月

 学術文庫版訳者あとがき

『森の生活』(ウォールデン)で名高いアメリカの思想家・随筆家ヘンリー・デイビット・ソロー(1817─1862)は、その短い生涯の間に、合衆国の最東部メイン州を四回旅し、そのうち三回は、奥地の大秘境というべき森林地帯に分け入った。本書は、その旅の記録と、それによって彼が抱いた自然や野生への想いを融合させたエッセイである。
 本書『メインの森』の三つの話のうち、第一話は、彼のクタードン山登山による真の荒野の体験記であり、第二話は、無制限なヘラジカ狩りとストローブ松の乱伐に接し、自然破壊への警告と環境保全を呼びかけた先駆的な問題提起の作品である。さらに第三話では、大自然に即応して生きるインディアンの生活様式が一人のガイドの姿を通して活写され、ルポルタージュ風の作品となっている。

 このように三話はいずれも独立した話であるので、どれからも取り組んでも興味深く読むことができる。どの話においても、自然と野生の魅力に満ちたメインの原生林地帯の情景が展開し、読者は心の森林浴を堪能されるであろう。著作の年代も、1846年に第一話が手がけられて以来、断続的であるが、全体の完成に至るまで(ソローは死の直前までこの作品を推敲していたという)十数年に及んでいる。そのせいか、作品の文体とソロー自身の姿にも漸次、微妙な変化が見られる。
 第一話の「クタードン」では、彼の代表作「森の生活」におけるような詩的で格調の高い文章が処々に用いられ、彼自身、肩肘の張った、感受性の強い青年というべき姿が浮かびあがる。ところが第三話では、文体がより散文的となり、リラックスした感じになってくる。彼も意外に気さくで世慣れた人となり、インディアンのガイドに対して温かい気配りをし、へだてのないうちとけた付き合いをしているのが印象深い。第二話ではこのような両方の要素が混在し、ちょうど移行期の状況を呈している。
 以上のように、この『メインの森』という作品は、ソローの文体と彼自身の人間像の変容という観点からも、興味深い作品となっている。感受性の鋭い理想主義者の青年と、世間を認識し、人生を熟知した旅上手の壮年者、そのいずれもが魅力的な彼の実像といえるのではなかろうか。
 ソローの主な作品には、『森の生活』(1854)や、社会改革を訴えた論文『市民としての反抗』(1849)等の他に、自然の地域を踏査した旅行記の三部作がある。それが本書『メインの森』(1864)と『コンコード川とメリマック川の一週間』(1849)、および『コッド岬』(1864)である。特に『コッド岬』は『メインの森』と構成が似かよっており、いわば『メインの森』の海洋版ともいえる作品である。
 なお本書中では、地名、人名、動植物名等につき、表記の不統一が見られるが、これはなるべく原作の表現に忠実に従ったためである。ソローの著昨年代が十数年にわたったためにこうした不統一が生じたのであろう。それにこの当時、インディアン語による表現が、まだ明確に文字化されていなかったせいもあろうと思われる。御寛恕をいただければ幸いである。
 本書は最初1992年に金星堂から出版された。このたび講談社学術文庫への収録に際し、金星堂社長の福岡靖雄氏より寛大なご許可をいただいた。記して感謝申し上げる。またこの際に、文章判読の便宜のために、全般的に改行を増やすことにした。本書中の写真は、作品の原本である(The Illustrated Maine Woods)に掲載のものから数点使用させていただいた。なお、文庫出版に到るまでには、九州大学の同僚でソローの良き共感者である中国文学者、合山究教授から、いろいろとご支援いただいた。感謝にたえない次第である。
 さらにね学術文庫出版部長の池永陽一氏と、編集を担当された砂田多恵子氏のご尽力にも厚くお礼を申し上げる。

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