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三人姉妹 第四幕          アントン・チェーホフ


三人姉妹
 
一九〇〇年に書かれた、一九〇一年モスクワ芸術座によって初演された「三人姉妹」 では、同じ主題がいっそう暗いトーンで展開する。凡俗な地方都市に住む三人姉妹にとって、両親のいない家庭における唯一の男子であるアンドレイがやがて大学教授になり、そして自分たちが明るい少女時代をすごしたモスクワへ帰ることが、唯一の夢であり、生活の支えとなっている。
 
しかし、彼女たちのそうした幻想は現実の生活によってしだいに打ち砕かれてゆく。そのことは、第一幕でモスクワ行きの夢を語るオリガとイリーナの会話の合間に、舞台奥での将校たちの「ばかばかしい」という台詞や、笑い声がはさまれていることによって暗示されている。
 
アンドレイは浅薄な女と結婚して、イオーヌイチのように、クラブでの力-ドや酒だけが楽しみといった俗物になってしまう、労働にロマンチックな夢を託していた末娘のイリーナは、いざ実際に勤めにでて、毎日の散文的な仕事に追いまくられ、モスクワによって象徴されるばら色の夢がくだらぬものであったことを思い知るのである。
 
また、世間的な体面や秩序だけを気にして生きているような教師クルイギンにとって二女のマーシャは、人類の明るい未来を美しく語るヴェルシーニンとの恋に生命を燃やそうとするが、そのヴェルシーニンとて、しじゅう自殺未遂をしでかすヒステリーの妻を扱いかねている頼りない人間にすぎない。こうして、連隊が町を去って行き、三人姉妹のすべての夢と幻想はぶちこわされ、彼女たちはあらためて「地に足をつけて」生きてゆかねばならぬことを決心するのである。

三人姉妹   第四幕


ブローソロフ家の古い庭、樅の並木道が長くつづき、そのはずれに河が見える。河の対岸は森。右手に家のテラス。そこのテーブルの上に何本かの酒壜やグラス、今しがたシャンパンを飲んだという感じ。昼の十一時。通りから河へぬける通行人が時折庭を突っ切って行く。兵士が五人ほど急ぎ足に通りすぎる。
 チェブトゥイキン、この幕の間終始かわらぬ柔和な気分で庭の肘掛椅子にかけ、呼ばれるのを待っている。軍帽をかぶり、ステッキを持っている。イリーナと、頸に勲章をかけ、口ひげをおとしたクルイギン、それにトゥゼンパフがテラスに立ち、階段をおりようとするフェドーチクとローデを見送る。二人の将校はともに行軍用の服装。

 トゥゼンバフ  〔フードーチクと接吻を交わす〕あなたはいい人だ。僕らは実に仲よく暮らしましたね。〔ローデと接吻を交す〕もう一度……さようなら、君!
イリーナ  いずれまたね!
フェドーチク  いずれまたじゃなく、さよならですよ、もう二度とお目にかかることもありますまい!
クルイギン  そりゃわかりませんよ! 〔目を拭って、微笑む〕わたしまで泣いたりして。
イリーナ  そのうちいつか会えるわ。
フェドーチク  十年か十五年したら、ですか? しかし、その頃にはお互い、見分けるのがやっとで、挨拶もそっけないでしょうな……〔写真を撮る〕待ってください……お名残りにもう一枚。
ローデ   〔トゥゼンバフを抱く〕もう会えますまいね……〔イリーナの手に接吻する〕いろいろお世話になって、ありがとうございました!
フェドーチク  〔腹立たしげに〕おい、じっとしてろよ!
トゥゼンバフ  ぜひまた会いたいものですね。手紙をください。必ずくださいよ。
ローデ  〔庭を見まわす〕木立よ、さようなら! 〔叫ぶ〕ヤッホー 〔間〕こだまよ、さようなら!
クルイギン  ヘたすると任地のポーランドで結婚、ということになりますよ……ポーランド人の奥さんが抱きついて、「コハーネー」と言うことになりそうですな。〔笑う〕
フェドーチク  〔時計を見る〕あと一時間足らずだ。うちの中隊からはソリョーヌイだけが貨物船で行って、われわれは戦闘部隊といっしょです。今日、三箇中隊が大隊編成で出発して、明日また三箇中隊が出て行きますから、この町にも静けさと安らぎがおとずれますよ。
トゥゼンバフ  それに恐ろしい寂しさもね。
ローデ  マリヤ・セルゲーエヴナはどちらに?
クルイギン  マーシャは庭です。
フェドーチク  お別れをしなければ。
ローデ  じゃ、お元気で。もう行かなけりゃ。でないと僕は泣きだしちまうから……〔急いで卜ゥゼンバフとクルイギンを抱擁し、イリーナの手に接吻する〕ここでの生活は素敵でしたよ……
フェドーチク  〔クルイギンに〕これ、記念に……鉛筆つきの手帳です……僕たち、ここから河へ出ますから……〔去って行く。二人とも何度もふり返る〕
ローデ  〔叫ぶ〕ヤッホー!
クルイギン  〔叫ぶ〕お元気で!
〔舞台奥でフェドーチクとローデ、マーシャに会い、別れを告げる彼女はいっしょに退場〕
イリーナ  行ってしまったわね……〔テラスの下の階段に腰をおろす〕
チェブトゥイキン  わたしにお別れを言うのを忘れて行ったよ。
イリーナ  あなたもまた、どうして?
チェブトゥイキン  わたしの方も何となく忘れてましたよ。もっとも、あの連中とはじきに会えるんだ、わたしも明日立つから、そう……あと一日残ってるわけか。一年後には退職させてもらえるから、またここへ舞い戻って、あなた方のわきで余生をまっとうさせてもらいますよ……恩給まであと一年足らずですからね……〔新聞をポケットに突っ込み、別のを取りだす〕ここへ戻ってきたら、生活を根本的に改めますよ……もの静かな、人に……そう。人に好かれる、礼儀正しい人間になるつもりです……
イリーナ  ほんとに生活を改める必要がありそうね。どうにかしなければ。
チェブトゥイキン  そう。自分でも感じてるんです。〔低い声で口ずさむ〕タララ……ブムビーヤ……歩道の柱に腰かけて……
クルイギン  イワン・ロマーヌイチは直りゃしないよ! 直りゃしないって!
チェブトゥイキン  そうだ、先生のとこへ弟子入りするかな、そうすりや直るでしょうに。
イリーナ  兄さんは口ひげを剃ってしまったのね。見られたもんじゃないわ。
クルイギン  なんで?
チェブトゥイキン  今のあなたの顔が何に似てきたか、言ってあげたいところだけど、とても言えませんよ。
クルイギン  かまうもんですか。これが世の習いですよ。 modus vivendi 生活の知恵というやつです、うちの校長さんが口ひげをおとしたんでね、わたしも生徙監になると同時に剃ったってわけです、だれにも気に入られなくたって、わたしにとっちゃ同じことですからね、わたしは満足しています。口ひげがあろうと、なかろうと、わたしは同じように満足なんです。〔腰をおろす〕
  〔舞台奥をアンドレイが、眠っている赤ん坊をのせた乳母車を押して通
すぎる〕
イリーナ  ねえ、イワン・ロマーヌイチ、あたしひどく心配なんです、あなたは昨日、広小路へいらしたでしょ。あそこで何があったのか、教えてく
さらない?
チェブトゥイキン  何があったか、ですって? いや別に。下らんことです。〔新聞を読む〕どうでもいいことです。
クルイギン  人の話では、なんでも昨日ソリョーヌイと男爵が広小路の劇場のわきで出会って……
トゥゼンバフ  やめてください! 何ですか、まったく、……〔片手をふって、家に入る〕
クルイギン  劇場のわきでね……ソリョーヌイが男爵にからみはじめたので、男爵も我慢しきれずに、何か侮辱的なことを言ったとか……
チェブトゥイキン  知りませんね。下らんことです。
クルイギン  どこかの神学校で先生が作文に、「下らない」と書いたら、一人の生徒が「さがらない」と読んだそうですよ。熱か何かだと思ったんですね……〔笑う〕ひどく滑稽でしょうが、なんでも、ソリョ―ヌイがイリーナに恋していて、男爵を憎んでいるとかいうことです……それもむりないですね。イリーナはとても素敵な子だから。マーシャに似たところさえあって、同じように瞑想的な性質だし。ただ、イリーナ、君の方が性質が穏やかだね。もっとも、マーシャだってとてもいい性質だけれど、わたしはマーシャを愛しているんだよ。
  〔舞台裏の、庭の奥で、「おーい、ヤッホー!」
イリーナ  〔びくりとする〕あたし、なんだか今日はのべつおびえてばかりいるわ。〔間〕あたしも支度はもうすっかりできたから、食事がすんだら荷物を発送するの。あたし、明日男爵と式をあげて、明日のうちに煉瓦工場へ行くわ、あさっては、あたしはもう小学校、新しい生活がはじまるんだわ。神さまがなんとか力を貸してくださるでしょう! 教員試験を受ける時、あたし、嬉しさと幸福感とで泣いたほどだったわ……〔間Jもうじき、荷物を運びに馬車が来るはずよ……
クルイギン  そりゃそうだろうけど、ただなんとなく万事が真剣じゃないようだね。理念ばかりで、真剣味が足りないよ。もっとも、心から幸せを祈ってはいるけれど。
チェヴトゥイキン  〔感動して〕わたしの可愛い、素敵なイリーナ……わたしの宝……あなたはどんどん遠くへ行ってしまって、迫いつけやしない。わたしは、年をとって飛べなくなった渡り鳥みたいに、あとに取り残されてしまった。飛んで行きなさい、気をつけて飛び立って行きなさい! 〔間〕フョードル・イリーチ、口ひげを剃りおとすなんて無意味なことでしたな。
クルイギン  もうたくさんですよ! 〔溜息をつく〕これで今日軍隊が出て行けば、何もかもまた元通りになるでしょう。世間でどう言おうと、マーシャは立派な、誠実な女です、わたしはとても愛しているし、自分の運命に感謝してますよ……人間の運命はさまざまですからね……ここの税務所にコズイリョフという男が勤めてるんですがね。わたしと同級だったんですが、中学五年の時に、どうしてもラテン語の「結果をあらわす従属文」が理解できなかったために、退学させられたんです。今じゃひどく貧乏して。病気持ちなので、わたしは出会うたびに、「こんちは、ミスター結果」と言ってやるんですよ。相手は「そう、まさしく結果の招来です」なんてぼやいて、咳をしていますけどね……一方のわたしは生涯運に恵まれて、幸福だし。こうしてスタニスラフ二等勲章さえもらって、今や自分がほかの人に「結果をあらわす従属文」を教える身分だ。もちろん、わたしは頭のいい人間で、きわめて多くの人よりも賢いけれど、幸せそんなことにあるわけじゃないんですよ……
〔家の中で「乙女の祈り」をピアノで弾いている〕
イリーナ  明日の晩はもう、あの「乙女の祈り」をきかなくてもすむし、ブロトポポフと顔を合わせることもないんだわ……〔間〕プロトポポフったら、客間にのさばってるのよ。今日も來たのね……
クルイギン  うちの校長さんはまだ来てないかい?
イリーナ  ええ、迎えをだしました。オーリャのいないこの家に一人で暮らすのがどんなに辛かったか、わかっていただけたらね……姉さん、学校に寝泊りしてるでしょ。今や校長先生だから、一日じゅう仕事に迫われているんですもの、ところがあたしは。一人ぼっちで、淋しくて、何もすることはないし、自分の寝起きしている部屋まで憎らしくなったわ……だから決心したの。もしモスクワヘ行く定めでないとしたら、それもやむを得ないって、つまり、運命ですもの。仕方がないわ……すべて神の御心のままっていうの、あれ本当ね。そこヘニコライ・りヴォーウィチがプロポーズなさったの……いいじゃない? ちょっと考えて、決心したわ。彼、立派な人ですもの、おどろくほど立派な人よ……そしたら、急にまるで心に翼が生えたみたいに、気持が明るく軽やかになって、また猛烈に働きたくなってきたわ……ただ昨日何かしらあったので、何か秘密めいたものが心にかぶさっているけど……
チェブトゥイキン  下らんよ。下らないことさ。
ナターシャ  〔窓から〕校長さんよ!
クルイギン  校長さんが来たってさ。行こうや、
  〔イリーナと家に入る〕
チェブトゥイキン  〔新聞を読み、低い声で口ずさむ〕タララ……ブムピーヤ……歩道の柱に腰かけて……
  〔マーシャ、歩みよる、舞台奧をアンドレイが乳母車を押して通る〕
マーシャ  こんなところにのんびり坐って、くつろいでるわ……
チェブトゥイキン  どうしたの?
マーシャ  〔腰をおろす〕別に……〔間〕こっちの母を愛しててらしたんですって?
チェブトゥイキン  とてもね。
マーシャ  で、母もあなたを?
チェブトゥイキン  〔間をおいて〕それはもうおぼえてませんね。
マーシャ  うちの人、来てました? いつだったか、勝手女中のマルファが巡査をしているご亭主のことをそう言ってたっけな、うちの人って、うちの人、来てました?
チェブトウイキン  いや、まだ。
マーシャ  あたしみたいに、時折幸福をほんのひとかけらずつ手に入れては、あとでそれを失っていると、だんだん気持がすさんで、とげとげしくなって行くものね……〔自分の胸をさして〕ここのところが煮えくり返っているの……〔乳母車を押してくるアンドレイを眺めながら〕ほら、アンドレイが来るわ、兄上さまが……いっさいの希望がフイになってしまったんだわ、何干人もの人が鐘を吊り上げにかかって、おびただしい労力とお金か費やされたのに、突然、鐘が落っこちて、割れてしまったの。突然、これといった理由もなしに。アンドレイもそれと同じことだわ……
アンドレイ  結局、いつになったら、家の中がおちつくのかね。なんて騒ぎだ。
チェブトゥイキン  もうじきだよ。〔時計を見る〕この時計は骨董品でね、時を打つんだ……[ねじを巻く。時を打つ]第一、第二、第五の各中隊は一時ちょうどに出発するんだよ。〔間〕わたしは明日さ。
アンドレイ  行きっきりですか?
チェブトゥイキン  わからないね。ことによると、一年後に戻ってくるよ。もっとも、そんなことはわかりゃしないし……どっちだっていいことさ……
  〔ハープとバイオリンを弾いているのがきこえる〕
アンドレイ  町は空っぽになりますね。ひっそりするだろうな。〔間〕昨日、劇場のところで何かあったんですってね。みんなが噂してるのに、僕だけ知らないんだ。
チェブトゥイキン  どうってことはないよ。ばかな話さ。ソリョーヌイが男爵に言いがかりをつけたもので、男爵もかっとなって、相手を侮辱したんだ。あげくのはては、ソリョーヌイが男爵に決闘を申しこまざるを得なくなったというのがオチさ。〔時叶を見る〕そろそろってとこかな、たぶん……十二時半に国有林でって話だ。ほら、ここから河向こうに見える、あの林だよ………バン、バンとね。〔笑う〕ソリョーヌイは、自分がレールモントフだと思い上がって、詩まで書いてるからね。それにしても、これで決闘は三度目だとさ。
マーシャ  どっちが?
チェブトゥイキン  ソリョーヌイですよ。
マーシャ  で、男爵の方は?
チェブトゥイキン  男爵に何があるもんですか?
マーシャ  あたし、頭の中がこんがらかってしまったわ……とにかく、はっきり言っときますけど、そんなこと、させてはいけないわ。あの人、男爵を怪我させるか、殺しさえしかねないもの。
チェブトゥイキン  男爵はいい人だけれど、男爵が一人増えようと減ろうと、同じことじゃないですか? 放っときなさい! 同じことですよ! 〔庭の向こうで叫び声、「おい、ヤッホー!」〕待てよ。あれはスクヴォルツォフがどなってるんです。介添人でね。ボートに乗りこんでるんですよ。〔間〕
アンドレイ  僕の考えでは、決闘の当事者になるのも、あるいは、たとえ医者としてにせよ、決闘に立ち会うのも、不道徳の一語につきますね。
チェブトゥイキン  そんな気がするだけさ……われわれなんて存在しないんだよ。この世には何もないんだよ。われわれは存在しているわけじゃなく、ただ存在しているような気がするだけさ……それに、どうせ同じことじゃないかな。
マーシャ  こんな調子で一日じゅう、だべりにだべってるんだから……〔歩く〕こんな気候になって、へたをすると雪が降るかもしれないってのに、ここでは相変わらずこんなおしゃべりばかり……〔立ちどまりながら〕あたし、家に入るのはよそう、とても入って行かれないわ……ヴェルシーニンが来たら、教えてくださるわね……〔並木道を歩く〕もう渡り鳥が飛んで行くわ……〔空を仰いで〕白鳥ね、それとも雁かしら……可愛い渡り鳥、幸せな渡り鳥………〔退場〕
アンドレイ  わが家も淋しくなるな。将校さんたちは行ってしまうし、あなたも行ってしまう。妹はお嫁に行くし、家に残るのは僕一人だけか。
チェブトウイキン  奥さんは?
  〔フェラポント、書類を持って登場〕
アンドレイ  妻は変ですよ。あれは誠実な、まともな、まあ、気立てのいい女です。だけど、そうでありながら、どこか卑しいところがあって、それが彼女をちっぽけな、目の見えない、毛むくじゃらの動物にまでなりさがらせてしまうんです。いずれにしても、人間じゃない。これは、僕が心を打ち明けることのできるたった一人の親友である、あなたにだから言うんですがね。僕はナターシャを愛してます。それはその通りなんだけど、時折彼女がおどろくほど通俗な女に思えることがあって、そうなると僕は途方に暮れちゃって、なぜ、どうしてこんなに愛してるのか、少なくとも今まで愛していたのか、わからなくなるんですよ……
チェブトゥイキン  〔立ち上がる〕僕は明日立つし、ことによると、もう二度と会えないかもしわない、だから一つ忠告しとくけどね、君。いいかい、帽子をかぶって、杖を手にして、出て行くんだね……出て行って、どんどん、あとをふり返らずに歩きつづけるのさ。遠く離れわば離れるほど、いいんだよ、
〔ソリョーヌイ、二人の将校といっしょに舞台奥を通りかかる。チェブトゥイキンの姿を見て、その方へ曲がる。二人の将校はそのまま歩いてゆく〕
ソリョーヌイ  ドクトル、時間ですよ! もう十二時半です。〔アンドレイと挨拶を交す〕
チェブトゥイキン  今行くよ。どいっもこいっも、うんざりしたよ。〔アンドレイに〕だれか、わたしのことをきいたら、すぐ戻ると言っておくれ、アンドリーシヤ……〔溜息をつく〕ああ、やれやれ!
ソリョーヌイ  あっと言う間もなく、熊は彼に襲いかかった、か。〔彼といっしょに行く〕何を唸ってるんです、ご老人?
チェブトゥイキン  ふん!
ソリョーヌイ  ご気分はいかがです?
チェブトゥイキン  〔腹立たしげに〕ゴキブリみたいさ。
ソリョーヌイ  ご老人の心配はご無用ですよ。僕はちょっとやってのけるだけですよ。あいつを山シギのように射とめてやるだけですか。〔香水をとりだして、両手にふりかける〕今日は一壜そっくり使ってしまったのに、まだ両手がくさいな。死骸の臭いがするんですよ。〔間〕さてと……レールモントフのあの詩をおぼえてますか? 反乱の白い帆は嵐を求めて進む、嵐の中に安らぎがあるかのように……
チェブトゥイキン  そうさ、あっと言う間もなく、熊は彼に襲いかかった、だとさ〔ソリョーヌイと退場〕
〔ヤッホー! おーい! という叫び声がきこえる。アンドレでとフェラポント登場〕
フェラポント  書類にサインを……
アンドレイ  〔苛立って〕俺から離れてくれ! どいてくれったら! 頼むよ! 〔乳母車を押して退場〕
フェラポント  書類ってものは、サインすろためにあるんですよ。〔舞台
に退場〕
〔イリーナと麦わら帽子をかぶったトゥゼンバフ登場。クルイギン、「おーい。マーシャ、おーい!」と叫びながら、舞台をよこぎる〕
トゥゼンバフ  どうやらあの人が、軍隊の出発するのを喜んでいる、この町ただ一人の人間みたいだね。
イリーナ  それもわかるわ。〔間〕これから町も淋しくなるわね。
トゥゼンバフ  ねえ、君、すぐ帰ってくるからね。
イリーナ  どこへ行くの?
トゥゼンバフ  町へ行く用があるし、それに……友達を見送らなけりゃ。
イリーナ  うそ……ニコライ、どうして今日はそんなにそわそわしてるの? 〔間〕昨日、劇場のところで何があったの?
トゥゼンバフ  〔もどかしげな身ぶり〕一時間後には戻ってきて、またいっしょにいられるんだよ。〔彼女の両手にキスする〕可愛いね……〔彼女の顔を見つめ〕君を愛するようになってもう五年たったけれど、いっこう慣れることができないし、君がますますきれいに見えてくるんだ。なんて美しい、素敵な髪だろう! なんという眼だろう! 僕は君を連れて明日出発するんだ。僕たち、働いて、金持になろうね。僕の夢がよみがえるんだ。君を幸せにしてみせるよ。ただ一つだけ、一つだけなあ、君は僕を愛していないんだもの!
イリーナ  それはあたしにもどうにもならないの! あたし、あなたの奥さんになるわ、貞淑で素直な。でも、愛情はないの、仕方がないじゃないの! 〔泣く〕あたし、生まれてから一度も恋をしたことがないの。ああ、あんなに恋愛にあこがれていたのに。ずっと前から昼も夜も恋にあこがれていたのに、あたしの心は、蓋をしめたまま鍵を失くしてしまった大事なピアノも同然なんだわ。〔間〕落ちつかない目をしているわね。
トゥゼンバフ  ゆうベー睡もしなかったから。この僕をふるえあがらせるような恐ろしいものなんて、僕の人生に何一つありゃしないけど、ただ、その失われた鍵だけが僕の心をさいなんで、眠れなくするんだよ……何か言って、〔間〕ね、何か言って……
イリーナ  何を? 何を言えばいいの? ね、何を?
トゥゼンバフ  何か、
イリーナ  いいのよ! もういいの! 〔間〕
トゥゼンバフ  実に下らない、愚にもつかぬこまごましたことが、時によると、突然これといった理由もないのに、人生で意味を持つようになるものなんだね、こっちは相変わらずそんなものをばかにして、下らぬことと見なしているうちに、いつしか深みにはまって、踏みとどまる力が自分にはないと感ずるんだよ。いや、こんな話、やめよう! 僕は楽しくって。まるで、この樅や楓や白樺を生まれてはじめて見るような気がするし、何もかもが僕をめずらしそうに眺めて、待っていてくれるような感じがするんだ。なんて美しい木立だろう、本来、こういう美しい木立のあたりには、本当に美しい生活があるべきはずなんだ! 〔「おーい、ヤッホー!」の声〕行かなけりゃ、もう時間だから……ほら、あそこの木は枯れてしまったけど、それでもやはり、ほかの木といっしょに風にそよいでいるでしょう。あれと同じで、たとえ死ぬようなことがあっても、僕はやはり何らかの形で人生に参加して行けるような気がするんだ。さよなら、僕の可愛い人……〔両手にキスする〕君からあずかった書類は、僕の机のカレンダーの下にあるからね。
イリーナ  あたしもいっしょに行くわ、
トゥゼンバフ  〔ぎょっとして〕だめ、だめだよ! 〔足早に歩み去り、並木道で立ちどまる〕イリーナ!
イリーナ  なあに?
トゥゼンバフ  〔言うべきことを知らずに〕僕は今日、コーヒーを飲まなかったんだ。入れておくように言って……〔足早に退場〕
〔イリーナ、物思いに沈んで立ちつくすが、やがて舞台奥に行き、ブランコに腰かける。アンドレイ、乳母車を押して登場、フェラポント、姿をあらわす〕
フェラポント  アンドレイ・セルゲーイチ、この書類はわたしのものじゃなくて、お役所のなんですからね。別にわたしが考えだしたものじゃないんですよ。
アンドレイ  ああ、俺の過去はどこにあるんだ、どこへ行ってしまったんだろう? 若くて、快活で、頭もよかった俺の過去は? 空想することも、考えることも洗練されていて、現在も未来も希望にかがやいていたあの時代は、どこへ行ってしまったんだろう? どうして俺たちは、生活をはじめるととたんに、退屈で、平凡で、おもしろみのない人間になってしまうんだろう? ものぐさで、無関心な、役に立たない、不幸な人間になってしまうんだろう? この町ができてもう二百年にもなるし、十万も人口があるってのに、ただの一人としてほかの連中に似ていないような人間はいないし、過去も現在も一人として功労者をだしてやしないんだ。学者一人、芸術家一人、生んでやしないし、妬み心や、手本にしたいという熱望をかきたてるような、多少なりとも傑出した人物も出てやしない……みんなただ、食って、飲んで、寝て、やがて死んで行くだけさ……別のが生まれてきたって、やはり食って、飲んで、寝るだけで、退屈ぼけしないように、嫌らしい険口だの、ウォトカだの、カードだの、裁判沙汰だので生活に変化を与えるってわけだ。女房は亭主をあざむくし、亭主は嘘をついて、何一つ見も聞きもしないふりをする。こうして俗悪な影響が有無を言わさず子供たちをねじ曲げてしまうもんだから、神々しいひらめきも消えてしまって、やがては父親や母親と同じような、お互い似たりよったりの哀れなしかばねになってしまうんだ……〔フェラポントに、腹立たしげな口調で〕何の用だ?
フェラポント  用ですか? 書類にサインしていただくんで。
アンドレイ  お前にはうんざりしたよ。
フェラポント  〔書類を渡しながら〕今しがた税務監督局の守衛が話してましたけど……なんでも冬にペテルブルグで、零下二百度もの寒さがあったそうですよ。
アンドレイ  現在はうとましいけれど、その代り未来のことを考えると、実にいい気分だな! 心が軽くなって、のびのびしてくる。遠くに光がさしこんで、月のあたりに自由が見えるもの。俺や子供たちが、怠け癖だの、クワスだの、キャベツを添えた鵞鳥だの、食後の昼寝だの、卑しいむだ飯食いの生活だのから解放される姿が、はっきり見えるんだ………
フェラポント  二千人もの人間が凍死したとかって話ですよ。みんな、恐れをなしたそうで。ペテルブルグだったか、モスクワだったか、よくおぼえてませんけどね。
アンドレイ  〔やさしい感情に包まれて〕姉さんや妹たちはいい人だ、すばらしい姉妹だ! 〔涙声で〕マーシャ、可愛い妹……
ナターシャ  〔窓に顔をだして〕だれ、そこでそんな大きな声で話してるのは? あんたなの、アンドリューシャ? ソーフォチカを起こしちゃうじゃないの。騒がないでちょうだい、ソフイはもう眠ってるのよ、あんたたち、まるで熊ね! 〔癇癪を起こして〕話がしたいんなら、赤ちゃんの乳母車をだれかほかの人にあずけなさいよ。フェラポント、旦那さまから乳母車をあずかっとくれ。
フェラポント  かしこまりました。〔乳母車を引きとる〕
アンドレイ  〔白けて〕小さな声で話してるのに。
ナターシャ  〔窓の奥で、子供をあやしながら〕ポ-ビク! 腕白坊主のポービク! わるい子のポービク!
アンドレイ  〔書類に目を通しながら〕よし、もう一度見直して、必要なものにサインしとくから、また役所へ持って行ってくれ……〔書類を読みながら、家に入る。フェラポント、庭の奥へ乳母車を押して行く〕
ナターシャ  〔窓の奥で〕ポービク、ママはなんて名前? 可愛いわね、可愛い子! じゃ、これはだれ? これはオーリャ伯母さま。伯母さまに、こんにちは、オーリャって言ってごらん!
〔流しの音楽家の男と若い娘、バイオリンとハープを合奏する。家の中からヴェルシーニン、オリガ、アンフィーサが出てきて、しばらく無言できく。
リーナがやってくる〕
オリガ  うちの庭は抜け道みたいに、人も馬車も通行自由なのね。ばあや、この楽師さんたちに何かさしあげて!
アンフィーサ  〔楽師たちに施しをし与える〕気をつけてお行きよ、あんたたち。〔楽師たち、おじぎをして退場〕いたましい人たちだこと。腹がくちけりや、流しなんぞしないだろうに。〔イリーナに〕しばらくだわね、アリーシャ! 〔彼女に接吻する〕ええ、この通り生きてますよ! 生きてますとも! 学校の官舎で、オーリユシカといっしょにね、年寄りをあわれんで神さまがお定めになったんですよ。わたしは罪深い人間だから、生まれてからこんな結構な暮らしをしたことはありませんでしたよ……住居は大きくて、お上のものだし、わたしにまでちゃんと一部屋あって、ベッドもついてるんですから。みんな、お上のものでね。夜中に目をさますと、ああ、神さま、聖母マリヤさま、このわたしほど幸せな人間はいませんと思いますよ。
ヴェルシーニン  〔時計をちらと見て〕もうすぐ出発です、オリガ・セルゲーエヴナ。そろそろ行かなけわば。〔間〕どうぞお幸せに、お元気で……マリヤ・セルゲーエヴナ はどちらですか?
イリーナ  庭のどこかにいますわ……行って探してきます。
ヴェルシーニン  すみません。急いでいるものですから。
アンフィーサ  わたしも行って、探してみましょう。〔叫ぶ〕マーシェニカ! 〔イリーナといっしょに庭の奥へ去る〕 マーシェニカ!
ヴェルシーニン  何事にも終りはあるものです。いよいよお別れですね。〔時計を見る〕市がわれわれのために朝食会のようなものを催してくれましてね、シャンパンを飲んだり、市長が演説したりしたんですが、わたしは食べたりきいたりしていても、心はここに来ていましたよ、あなた方のところに………〔庭を見まわす〕すっかりあなた方になじんでしまって。
オリガ  そのうちいつか、またお目にかかれるかしら? 
ヴェルシーニン  おそらく、だめでしょうね。〔間〕家内と娘二人はあと二ヵ月ほどここで暮らすことになります。もし何かあったり、用ができたりしましたら、どうかよろしく……
オリガ  ええ、ええ、もちろんですわ。どうぞご安心なさって。〔間〕明日になるとこの町には軍人さんはもう一人もいなくなって、すべて思い出になってしまうんですのね、もちろん、わたしたちにとっても新しい生活がはじまるんですわ……〔間〕何もかも、わたしたちの考えとは違うふうになって行きますわ。わたしは校長になんかなりたくなかったのに、やはりなってしまったし。つまり、モスクワには行けないってことですわね……
ヴェルシーニン  それじゃ……何から何までありがとうございました。もし何かお気に入らぬ点があったら、お赦しください……いろいろ、実にいろんなことをしゃべりちらしましたけれど、これもどうか悪くおとりにならずに、お赦しください。
オリガ  〔目を拭う〕どうしたのかしら、マーシャ、来ませんわね……
ヴェルシーニン  お別れにあたって、あと何を言えばいいでしょうね? 何について哲学をぶちますかな? 〔笑う〕人生はつらいものです。われわれの大多数にとって、人生は殺風景な、絶望的なものに思えますけど、それでもやはり、だんだん明るく楽になりつつあることは認めなければなりませんね。人生がまったく明るいものになる日も、明らかにそう遠くはないでしょう。〔時計を見る〕もう時間だ、行かなけりゃ。これまで人類は戦争また戦争で忙しくて、遠征だの襲撃だの勝利だので自己の全存在を充たしてきたのですが、今やそんなものはすべて廃れて、あとに巨大ながらんどうが残っているんです。当分はそれを埋めるものはありませんね。人類は必死に探し求めて、もちろん、やがて見つけることでしょう。ああ、ただそれが少しでも早ければいいんですがね! 〔間〕もし勤勉さに教育を加え、教育に勤勉さを加えることができれば。〔畔計を見る〕それにしても、もう行かなければ……
オリガ  あ、来ましたわ。
 〔マーシャ登場〕
ヴェルシーニン  お別れに来ました……〔オリガ、別れを邪魔せぬよう、少しわきへ離れる〕
マーシャ  〔彼の顔を見つめたまま〕さようなら……〔長いキス〕
オリガ  もういいわ、もういいじゃない……
マーシャ  〔はげしく泣く〕
ヴェルシーニン  手紙をください……忘れないでおくれ! もう行かせて……時間だから。オリガ・セルゲーエヴナ、妹さんを頼みます、わたしはもう……時間なので……遅刻です……〔心乱れてオリガの両手に接吻したあと、もう一度マーシャを抱き、足早に退場〕
オリガ   もういいのよ、マーシャ! おやめなさい、ね……
  〔クルイギン登場〕
クルイギン  〔どぎまぎして〕かまわないよ、少し泣かせておきなさい、そのまま……わたしの可愛いマーシャ、やさしいマーシャ……君はわたしの妻だ、たとえどんなことがあろうと、わたしは幸せだよ……わたしは文句も言わないし、一言だって非難なんかしないからね……ほら、オーリャが証人だ! また元通りに生活をはじめようね。私は一言も口にしないし、当てこすりも言わないよ‥‥
マーシャ  〔嗚咽を抑えながら〕人江のほとりに立っ緑の樫の木、金の鎖、その樫の木にかかり……金の鎖、その樫の木にかかり……気が違いそうだわ……入江のほとりに立つ……緑の樫の木……
オリガ  おちつきなさい、マーシャ……おちつくのよ……この人に水をあげて……
マーシャ  あたし、もう泣かない……
クルイギン  もう泣いていないよ……この人はやさしいから……
 〔遠くでにぶい銃声〕
マーシャ  入江のほとりに立つ緑の樫の木、金の鎖、その樫の木にかかり……緑の猫……緑の樫の木……こんがらがうちゃったわ……〔水を飲む〕失敗の人生……こうなったら何も要らないわ……あたし、すぐにおちつくわよ……どうだっていいもの……入江のほとりなんて、何のことかしら? どうしてこの言葉が頭にこびりついているんだろう? 考えがごっちゃになってしまうわ。
〔イリーナ登場〕
オリガ  気を静めてね、マーシャ。そう、お利口ね……部屋に入りましょう。
マーシャ  〔腹立たしげに〕行かないわ。あんなとこ。〔嗚咽するが、すぐに泣きやむ〕あたし、この家にはもう出入りしてないのよ、今だって行かないわ……
イリーナ  少しいっしょにいましょうよ、黙っていてもいいから、だってあたし、明日立つのよ……〔間〕
クルイギン  昨日、三年生のいたずら坊主から、ほら、この付けひげを取りあげてやったんだ……〔口ひげと顎ひげをつける〕ドイツ語の先生に似てるだろう……〔笑う〕だろう? ひょうきんな子供たちさ……
マーシャ  ほんとにあのドイツ人に似てるわ。
オリガ  〔笑う〕そうね。
マーシャ  〔泣く〕
イリーナ  もういいわよ、マージャ!
クルイギン  そっくりだろう……
  〔ナターシャ登場〕
ナターシャ  〔小間使に〕ソーフォチカはプロトポポフさんがお相手してくださるし、ポービクは旦那さまが乳母車に乗せてくださるからいいのよ。ほんとに子供って手がかかるわね……〔イリーナに〕いよいよ明日出発ね、イリーナ、ほんとにお名残り惜しいわ。せめてあと一週間いればいいのに。〔クルイギンを見て、悲鳴をあげる。相手は笑って付けひげをはずす〕まあ。あなたって人は。びっくりするじゃありませんか! 〔イリーナに〕あたし、あなたにすっかり慣れたところなのに。別れるのがつらくない、とでも思って? あなたの部屋には、アンドレイにバイオリンを持って移るよう言うわ、せいぜいあそこで鋸の目立てでも引けばいいわ! あの人の部屋へはソーフォチカを入れるの。とっても利口な、すばらしい子だわ! たいした子よ! 今日もこんな目であたしを見て、「ママ」ですって!
クルイギン  素敵な赤ちゃんだよ、それは本当だ。
ナターシャ  つまり、明日はもう、ここにはあたし一人ってわけね、〔溜息をつく〕何よりもまずこの樅の木の並木を伐り払うように言いつけるわ、それからあの楓も……夕方になると、あの楓、とっても見苦しいもの……〔イリーナに〕ねえ、そのベルト、あなたに全然似合わなくてよ……趣味がわるいわ。何か明るい色でなければ。それから、あたし、このへん一面に花を植えさせるわ、いい匂いがするわよ……〔厳しく〕なぜこのベンチにフオークが転がっているの? 〔家に入りながら、小間使に〕なぜこのべンチの上にフォークが転がっているのかってきいてるのよ! 〔叫ぶ〕お黙り!
クルイギン ほら、怒った。
  〔舞台裏で軍楽隊がマーチを演奏する。一同きく〕
オリガ  出発するのね。
  〔チェブトゥイキン登場〕
マーシャ  あの人たち、行ってしまうのね。でも。仕方がないわ……みんな、ご無事でね! 〔夫に〕帰らなければね……あたしの帽子とマント、どこかしら? 
クルイギン  家へ入れといたよ……今、持ってきてあげよう。
オリガ  そうね。もう、それぞれ家へ帰ってもいいんだわ。時間も時間だし。
チェブトゥイキン オリガ・セルゲーエヴナ!
オリガ  なあに? 〔間〕なんですの?・
チェブトゥイキン  いや、別に……どう言ってよいか、わからんのですよ……〔彼女に耳打ちする〕
オリガ  〔ぎょっとして〕まさか、そんな!
チェブトゥイキン  ええ……そういうわけでしてね……疲れました、へとへとで、もう口をきくのも厭ですよ……〔いまいましそうに〕もっとも、どうだっていいんだ!
マーシャ  何かあったの?
オリガ  〔イリーナを抱く〕今日はおそろしい日だわ……あなたにどう言ったらいいか、あたし、わからない、あのね……
イリーナ  なあに? 早く話して。何なの? ね、おねがい! 〔泣く〕
チェブトゥイキン  今、決闘で男爵が殺されました。
イリーナ  〔静かに泣く〕あたし、わかってたわ、わかってたのよ……
チェブトウイキン  〔舞台奥でベンチに腰かける〕疲れた……〔ポケットから新聞をだす〕しばらく泣かせておこう……〔低い声で口ずさむ〕ターラーラ・ブムビーヤ……歩道の柱に腰かけて……どうせ同じことじゃないか!
  〔三人の姉妹、互いに寄り添って立っている〕
マーシャ  ああ、音楽があんなにひびいているわ! あの人たち、去って行くのね。一人はまるきりすっかり、永遠に去ってしまったし、あたしたちだけ、また新しく生活をはじめるために残るんだわ。生きてゆかなければね……生活しなければ……
イリーナ  〔オリガの胸に頭をもたせかける〕いずれ時がくれば、なぜこんなことがあるのか、何のためにこんな苦しみがあるのか、だれもが知るようになって、何の秘密もなくなるでしょうけど、さし当たりは生きてゆかなければね……働くのよ、ただただ働かなければね! 明日はあたし、一人で立つわ。学校で教えて、自分の全生活を、ひょっとしてそんなものでも必要としてくれるかもしれない人たちに捧げるの。いま秋でしょう、もうすぐ冬が来て、雪がつもるだろうけど、あたし働くわ、あたし働く。
オリガ  〔二人の妹を抱きしめて〕音楽があんなに楽しそうに威勢よく鳴っていると、生きていたいと思うわね! ああ、つらいわ! いずれ時がたてば、わたしたちも永久に去ってしまって、忘れられるのね。わたしたちの顔や声も、何人姉妹だったかも忘れられてしまうんだわ。でも、わたしたちの苦しみは、わたしたちのあとに生きる人たちにとって喜びに変わるんだし、この地上に幸せと平和が訪れて、今こうして生きている人たちのことをあたたかい言葉で思いだして、祝福してくれるでしょうよ。ああ、可愛いわたしの妹、わたしたちの人生はまだ終わってしまったわけじゃなくってよ。生きて行きましょう! 音楽があんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っていると、もう少ししたら、何のためにわたしたちが生きているのか、何のために苦しんでいるのか、きっとわかるだろうという気がするわ……それがわかればね、それがわかりさえすればね! 
〔音楽がしだいに小さくなってゆく。クルイギン、うきうきと微笑しながら、婦人帽とマントを持ってくる。アンドレイが、ポービクを乗せた乳母車を押してゆく〕
チェブトゥイキン  〔小さな声で口ずさむ〕タラ……ラ……ブムびーヤ……歩道の柱に腰かけて……〔新聞を読む〕どうだっていいさ! どうだっていいんだ!
オリガ  それがわかればね、それがわかりさえすればね!


     

原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。

原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

 

 

 

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