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ヘンリー・ソーロウの生涯 2     神原栄一

 ソーロウの生涯

 彼は兄ジョンを敬愛していて、手作りのボートでともに舟旅に出たこともあった。超絶主義者たちの一つの試みとして「ブルック・ファーム」なる共産村の建設があったが、社会改革論者の熱意には共感しながらも、個性の自由な伸張を第一義と考えていた彼は、師エマソンとともに参加しなかった。1841年から2年間、エマソン宅に寄寓して師エマソンから少なからず感化を受け、二人は強く結ばれていった。しかし一方では、彼は自分が師の鋳型にはめられて見られるのを嫌っていたし、事実、エマソンが抽象的、普遍的なのに対して、ソーロウは具体的、特殊的、という両者の個性の相違は見逃すことができない。

 その頃『ダイアル』の編集にたずさわっていたエマソンを助け、自分も寄稿した。恋愛問題もあったが実を結ばず、やがてエマソンも「野外では付き合いやすいが、屋内では扱いにくい」ソーロウを遠ざけるためもあって、ニューヨークの甥の家に家庭教師として彼を送り込んだ。だが、都会と群集に失望し、出版界とのつながりを求めることも不調に終って、その年のうちにコンコードの自然に帰った。

 今や教職もあきらめ、『ダイアル』も廃刊となった。病弱なこともあってその後は父の仕事を手伝いつつ、静寂に閉じ籠って、いちだんと鋭い自然観察に没頭するようになる。彼の観察は徹底したもので、虫めがね、望遠鏡、帳面を常に携行し、丈夫な靴と厚手のズボンに、麦わら帽子といういでたちで棘をかき分け、樹木に登る。土地のあらゆる植物の開花期が、ポケットの日誌に記されている。また、地理にくわしく、あらゆる抜け道に精通していた。

 当時、コンコード文化会なる一種の社会教育機関があって、彼はそこの管理人、書記に選ばれ、たびたびそこで講演もした。だが、定職もなく、家庭を築くことも果たせずで、彼は焦燥感に駆られていた。静寂を友に、簡素な生活の中で読書と思索に浸り、高尚な志操追求してゆきたい、とかねがね彼は望んでいた。この希望の直接的な動機としては、ブルック・ファームの試みや、親友オールコツトの菜食主義が挙げられる。

 やがてその念願がかなえられる時がきた。ウォールデン池のほとりに土地を購入したエマソンの好意で、その一部を使わせてもらうことになったのである。1845年3月下旬、オールコットから斧を借りて森に入った。マツを切り倒し、アイルランド人から買い取った掘っ立て小屋を解体して材料とし、自分の家と呼べる小屋の棟上げを終えたのは、五月初旬であった。独立記念日から住みはじめた二年二ヶ月余の独居生活の記録は、森を出てから七年後に『ウォールデン』として出版された。

 森での生活中にもう一つ、敬愛する兄ジョンを追憶して、六年前の舟旅を『コンコード川とメリマック川での一週間』としてまとめ、この紀行も森を出て二年後に出版された。彼のこの原始生活をひねくれ者のきまぐれと見る人もいたが、彼にとっては「各瞬間が戦闘の第一線にある」ような緊張の生活で、四季を通じて何ものにも束縛されることなく自己修養に励む舞台であり、世捨て人の隠遁生活ともまったく異質なものであった。

 この期間に彼の思索を乱す事件が起きた。奴隷制度を維持し、彼に不正としか思われなかった対メキシコ戦争を進める政府に、数年来彼は人頭税の支払いを拒否していた。この事が逮捕、投獄につながることは明白であったが、それによって、とくに奴隷問題の重大さを世人に認識させるのが彼のねらいであった。投獄された夜、誰かが彼にかわって支払ったので、翌朝には不本意の釈放となった。この後、コンコード文化会で二度にわたって講演した「国家に対する個人の関係」は、納税拒否の意味を明らかにした政治論で、後に「市民政府への抵抗」と改題され、世界各国政治活動に思想的影響を与えることとなった。
 森の生活に終止符を打った後は、ヨーロッパ旅行に出かけたエマソンの留守宅に住み込んで、家事の面倒をみたこともあったが、エマソン帰国後は父の家にもどり、苦しい家計を支えるためにペンキを塗り、壁紙をはり、除草、測量、父の手伝いなどしながら、雑誌への寄稿、講演も継続していた。

 1849年に「コンコード川とメリマック川での一週間」を出版したが、売れ行きは思わしくなかった。1854年、第七稿まで推敲を重ねた「ウォールデン」の初版がようやく出て、評判も良く、喜びはひとしおであった。自然志向は森を出てからも依然として強く、独居生活中に一度メインの森に旅行していたが、森を出てからも「ウォールデン」の出版までの七年間にメインの森に一度(その後にもう一度)、コッド岬に二度(その後に二度)、カナダに一度出かけて、それらの紀行は死後出版された。カナダ旅行ではイギリス軍の訓練を見て軍隊を批判している。小旅行にもよく出かけ、1860年までにモナドノック山を三度訪れている。彼は人影まばらな地域の散歩が好きで、その態度は自然科学者的といえるほどであったが、神秘主義者、自然哲学者と自称し、自然を書斎とする「神聖な孤独」を愛して、自己修養に努めた。

 一方、アイルランドでは1851年までの六年間、食糧が不作で大飢饉に見舞われていた。活路を求めてアメリカに移民した農民たちは貧しく、不潔で無能であった。ソーロウは、これを低賃金で酷使するヤンキーのせいだと考えるようになり、彼らに金を貸し与え、代筆をしてやり、子供に外套を届けてやり、寄付まで集めてやった。こうした弱者への共感が奴隷解放運動と結びつくことは当然であった。

 18950年秋、「逃亡奴隷法」が制定されて、それに適用される逃亡奴隷の逮捕送還が行われると、彼は憤慨して法案そのものはもちろん、日和見的な大衆を批判し、州政府、裁判所、新聞を日記の中で鋭く攻撃している。救いを求めてきた奴隷を泊めて鉄道の切符を買い与え、カナダに逃してやりもした。

 1854年、独立記念日に開かれた奴隷制度反対集会での講演「マサチューセッツ州の奴隷制」は激烈をきわめたもので、市民に抵抗を呼びかけ、「自分のことだけ専念し、政府のことなど忘れて」生きてゆけると思い込んでいた自分を「愚か」だったと反省している。先にエマソン宅で知り合ったイギリス人、トマス・チャムリーから44冊にのぼる東洋思想の英訳書、インド文学の研究書が送られてきて、大学在学中から東洋の心に引きつけられていた彼を喜ばせたこともあった。

 その後、健康の衰えを感じはじめるが、晩年まで一貫として自然の野生を求め続け、降雪量の測定、樹齢、鳥の巣の調査、動植物の標本作りなどに忙しかった。またかねてから興味の対象となっていたインディアンの研究も継続された。ホイットマンと会見して互いを理解し合ったのもこの時期である。父が病弱となって、仕事の代理をすることも多くはなったが、自然観察旅行も講演も続いていた。

 1859年10月16日、熱狂的な反奴隷制運動家ジョン・ブラウンが十数名の同志とともに武装蜂起し、12月2 日、反逆罪で処刑された。彼は聴衆を前に、文字通り生命を賭して「ジョン・ブラウン隊長のための弁護」なる演説をした。これは彼の最も雄弁な演説とされ、新聞雑誌にも掲載されて、後にエマソンのブラウン擁護の演説とともに、単行本「ハーバーズ・フェリーの反響」となった。彼は武力行使そのものには必ずしも賛成しなかったが、理想に殉じたブラウンに感動せずにはいられなかったのである。

 1860年2月3日、午後の寒さの中をずっとフェア・ヘイブンの丘で木の切り株の年輪を数えていて風邪を引いた。それは気管支炎へと悪化したが、周囲の止めるのも聞かず約束していた講演にでかけた。翌年の12月には肋膜炎へと進んでいた。病床にあるソーロウについて、妹ソフィア「ヘンリーは病気で心を乱したり動かしたりは決してしませんでした。精神力が物質に勝るということを、こんなにはっきりと見せつけられたことはありません」と言っている。
 死を目前にして不眠に悩まされながらも睡眠薬を拒み続け、1862年5月6日の朝、「オオジカ」と「インディアン」を最後の言葉として静かに45歳の生涯を閉じた。妹ソフィアによれば「何かとても美しいことが起こったかのような」死であった。

 ウォールデンについて

「ウォールデン」は、ウォールデン湖畔における2年2ヶ月余りの生活体験を素材としているが、全体が一年間の枠組みの中にまとめられており、独居生活期間の前後の日記から転用された部分もある。森を去る年の二月にコンコード文化会で行った講演「私自身のこと」、およびその後の続編ともいうべきいくつかの講演の好評に気をよくして、森での生活をまとめることを思い立ち、第一稿はその年の九月に完成した。森を出てから第七稿まで推敲を重ねたすえ、1854年8月9日、初版がようやくボストンのティクナー・アンド・フィールズ社から出た。

 章分けが決定稿通りとなったのは出版の前年で、全体は18章から構成されているが、時には内容が著者の想念のおもむくままに章題から自由奔放に逸脱することがあって、彼の描く霊妙な自然に引き込まれて、読者が心身ともに浄化される思いでいる時、著者は唐突に教訓的感想へと叙述を一転させて読者を戸惑わせる。これは、彼が効果を予測して内容と量に配慮するタイプの芸術家ではなく、思うがままになんの忌憚もなく、真正直にものを言い、ひたすら自分の道を突き進む、専心一途な気質によるものであろう。

 また、偏狭、独断、誇張を思わせる箇所もあるが、そこには論理よりも直観と印象を重んじ、東洋的な禁欲と悟りに共感を示し、わずかな自然の変化も鋭く感じとる著者の姿がある。さらに、随所に見られる故事の引用、逆説、比喩と飛躍的な叙述に振り回されて、読者は前後の脈絡を失いがちだが、そこから読み取れる著者の深い学識、人生に対する真摯な姿勢、それにその独創性が作品の晦渋さを相殺しているように思われる。そして、そこにはきわめて型破りで個性的な「私」なる人物が鮮やかに形象化されている。以下、本作品との関連において、ソーロウの思想と片鱗に触れておきたいと思う。

 ソーロウの思想

 ソーロウについて、古くは世間に背を向ける偏屈者、人間嫌いな怠け者、新しくはスチューデント・パワーやヒッピーの源流など、否定的な評価が少なくない。しかし、ウォールデン湖畔での生活とその動機は、そうした評価で片づけるにはあまりにも求道的色彩に色どられている。そこには、あらゆる虚飾を取り去った本質的な人生だけを、遠回りせず直接的に、しかも力いっぱい生きようとする姿、ひたむきに生の実相を追及する姿がある。実相を究めようとする欲求は、ソーロウにかぎらず、人間の高度な精神活動に普遍的なものと言えるが、その方法において彼は個性的である。

 彼は、既成社会と完全に絶縁することによって、その権威とそれからの制約を退け、揺るぎない自己信頼の上に立って自分を唯一絶対の尺度とし、実験と納得のうちに生の正体を突き止めようとする。また、一方では自分よりも雄大なものはそれを全体的に受け入れ、みずからそれとも交感し、身も心もそれに溶解させてそれを無上の幸福と観ずる。こうした点から、彼はたんなる観念論者でないことが分かる。彼の世界は、実験と直観の糸で織り合わされた彼独自の世界である。

 彼にとっては、実相、つまり永遠なるものの追及は、聖書や教会を通じてなされるべきものではなく、自然を通じてなされるべきもの、そうしてのみ成就できるものであった。人間との交際を浅薄なものと断じて、ウォールデン湖畔に独居したのもこのためである。インディアンに興味を抱いたのも、自然の中でのびのびと生きる野性的なインディアンに生きることの本義をみたからであった。彼の科学的ともいえるほどの動植物の観察も、それらが自然の一部であるからだ。精緻な自然現象の観察、音に対する鋭敏な感覚、法悦忘我の境で感得する自然との一体感──これらをとおして、最も野性的で最も簡素な自然が彼を導く最善の師であるとの確信は、ますます強固なものになっていった。

 彼は、有形無形を問わず外部からの一切の束縛を排して自己を磨き、個性の命ずるままに内より外に膨張、展開して行くところに理想の人生を見た。彼にとっては衣食住は個性を束縛する第一のもので、それは流行と商業主義に毒され、常識なるものに迎合して没個性的となり、生きるためのぎりぎりの手段たるべきそれが逆転して、目的と化してしまっている、としか見えない。無意味な虚飾に満ちたその衣食住を獲得し、維持するために世人は働く。つまり、職業、勤勉、信用などの奴隷となり、人間、すなわち個性をそれに従属させて、自分を常識の縄でがんじがらめにする。

「人間が自分の道具になりさがっている」と彼は言う。生活をぎりぎりに単純化し、迂路を避けて即刻目的に向うべし、と説く彼にとっては、善行とか慈善事業も、自分の名声のためにするものはもちろん、そうでないものも個性の完成をないがしろにしておいてまでなすべきものではない。彼は、ただただ働くだけで、霊性と知性に欠けるアイルランド人を哀れむ。そして、森の踏みならされた特定の道筋が自分を一つの型の生活に縛りつけることを嫌って、あこがれてはじめたそこでの生活にさえ終止符を打つのである。

 実相に注がれる彼の強い関心は、彼を物質の束縛から解放し、精神の優位を確信させる。彼は獣性を退け、禁欲生活を高唱し、観察と直観と良心によって真と信じるところに向かってひたむきに突進する。文字通り現実に突進するのである。人頭税の不払い、後日ガンジーやキング牧師にその運動の拠り所を与えることになったといわれる、不当な権威への反抗、奴隷制に反対する積極的な実際行動などは、たんなる隠遁者にとどまらない、実践的思想家ソーロウの面目躍如たるものがある。トルストイが彼を思想界の雄と評したのも、じつはこの点にかかわっていた。


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