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戦史 1 久保正彰



    史家の周辺  1


 トゥーキュディデースとは、どのような生涯を生きた人であろうか。紀元前四百三十一年から二十七年の長きにわたってギリシア全土を混乱の巷となしたペロポネーソス戦争の経過を、洞徹した観察眼と雄渾な筆致をもって綴らんとした史家その人の伝については、まことにわずかの事柄しか知られていない。比較的に年若くして国を追われたために、同時代の人々に深い印象を与える機もなかったのであろう、また師の思い出を伝える直弟子もなかったためでもあろう。かれとほぼ同時代の哲人ソクラテース、劇作者エウリーピデースら同胞アテーナイ人らとちがい、トゥーキュディデースの面影は誰の記憶にもとどまらず。やがてかれの綴った歴史が後世に光芒を放つようになったときには、その墓碑がわずかに史家の名と父の名と、出身区域の名をとどめているにすぎなかった。

 「戦史」をつうじて史家は、前後四回にわたってごく簡単ながら、自分自身の経験について語っている、先ず史巻の冒頭に、当時の史書の慣習によって自らの名と国名を記したのち、ペロポネーソス同盟とアテーナイ人との戦が勃発した当初から記述の筆をとったことを言い、ついで二巻四八章で、戦争第二年目にアテーナイ市内で激甚な疫病が暴威をふるったとき、史家自身もこれに罹病した旨を記している。第三の記述はこれらよりもやや詳細にわたる。すなわち四巻一〇四~五章の記述によると、前四二四年、ペロポネーソス、アテーナイ両軍がトラーキア地方のアテーナイ植民都市アムピポリスをめぐって争ったとき、史家トゥーキュディデースはアテーナイ勢の指揮官の一人として軍船七艘を率い、アムピポリスの救援にかけつけたが、ペロポネーソス勢の名将ブラーシダースに先を越されて、都市を奪われてしまった。史家はこの責任を問われて職を奪われ、アテーナイの支配圏から追放されることになるのであるが、彼はここでは自分の父の名がオロロスであることを記し、自分がトラーキア地方の金脈の採掘権をもっていること、そしてトラーキア本土の最有力者のあいだで勢力をもっていることなどが、敵将ブラーシダースの探知するところとなった旨、述べている。

  第四の記述、すなわち五巻二六章では、いわゆるぺロネーソス戦争は一見、ニーキアースの和約を境目に前後二つの別々の戦がおこなわれたかの如くに考える者もいるが、これは誤りである。自分は、戦争が勃発してから、ついにペロポネーソス勢がアテーナイの支配圏を壊滅させ、大城壁を取り壊すまでの二十七年間を一つの戦乱とみて、各年夏冬の順に事件を記述する。自分はこの全期間をつぶさに体験した。一人まえの分別のある年齢であったし、また自身、正確な情報をつかむために留意していた。自分はアムピポリスの作戦指揮の後、二十年間の追放刑をうけたが、その間、両陣営の事情を聴取することができたので、戦争の経過について冷静な見地から観察することができた、と述べている。そして最後に、これは記述とは言えないけれども、そのように二十七年間の戦史を綴るといいながら、第二十一年目の記事で筆が絶えているところから、史家は業なかばにして世を去ったと推定されるのである。

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 以上は史家自身の言葉であって、疑いの余地ない事実と見做されてよい。これらをもとにして、幾つかの補足的事実を加えながら、史家の周辺をたずねてみたい。先ずかれの生年であるが、これについては確実な手掛りはない。しかし史家自身の言葉によると、戦争勃発のときすでに一人まえの分別のある年齢であり、この戦争が史上最大の規模のものとなるに違いない、と予断することができた。一人まえというのは兵として従軍できる年齢で、アテーナイでは十八歳から六十歳までであった。七年後、四二四年には指揮官にえらばれた、といっているところから、四二四年頃にはどんなに若くとも三十歳には達していたと思われる。アテーナイでは市民として国政に参与できる最低年齢は三十歳だったからである。指揮官にえらばれたとき、まだ年若く、したがって高名な人物でなかったらしいことは、その名が当時の文献のどこにも現れていないことから想定される。

 またペリクレースの政策が赫々たる成果をあげつつあった時期の政策執行者たちのあいだにもその名は現れてこない。さらに、史家がペリクレースの政策評価をする際、評価の対象となっているのは主としてペリクレースの晩年の政治活動に限られている。そのようなことからも、トゥーキュディデースとペリクレースの接触は、年少者と大政治家との関係であったことがうかがわれる。以上のごとき情況判断が正しいとすれば、史家は前四六〇年頃、アテーナイで生れたことになる。劇詩人エウリーピデースよりニ十歳、哲人ソクラテースより十歳の年少で、喜劇詩人アリストパネースよりは、ほぼ十歳の年長であったと思われる。アテーナイはたくましい民主主義のエネルギーによって、強力な海軍力を東エーゲ海に駆使しつつ、海洋における覇を唱えんとしていた。

 史家がトラーキア地方と深い関係をもっていたことは、その父の名をオロロスといったこと、かの地方の有力者と目されていたこと、また「戦史」二巻においてトラーキア地方の住民や地理について克明な知識を披瀝していることなどから、充分に考えられる。オロロスという名は、トゥーキュディデースより一世代昔の史家ヘーロドトスの記事では、トラーキア地方の土侯の名として伝えられる。このオロロス王の娘ヘーゲシピュレーは、後日マラトーンの会戦でアテーナイ側の将として勇名をはせたミルティアデースの妻となっており、そしてさらに後にアテーナイの海洋同盟を組織したキモーンの母となった人である。ギリシアでは祖父の名が孫に伝えられる風習があるので、土侯オロロスと史家の父オロロスとのあいだに──その名自体、ギリシアではきわめて稀な人名であることからも──何らかの関係があったものとすれば、史家自身がトラーキア地方で富と勢力をもっていたことも自然に説明ができる。

 また、古代の卜ゥ-キュディデース諸伝が一致して記している、史家とミルティアデース、キモーンら一門との姻戚関係も、この辺りから生じたことが考えられるし、史家の墓碑がアテーナイのコイレーという地点にキモーンの碑とならんで残っているという古代の地誌家の言にもうなずくことができる。これ以上のことは立証しがたいが、ともあれ史家がミルティアデース、キモーンらの名将政治家を輩出したアテーナイの名門ピライアース族の一枝に連なることは、充分に蓋然性をもつこととされてよい。かれが後日、年若くしてアムピポリスの守備に派遣されたことも、アテーナイにおける一門の地位と、さらに加えてトラーキア地方における旧来の勢力地盤と、両者が重なってかれの任命をうながした為であろうか。
  
 しかしこのような関係が幾分たりと事実を示していたとすれば、説明できる事柄もあるが、かえって複雑な事情も生じてくる。かれの生れたときから二十年くらいの間、アテーナイでは急進的な民主派と保守的な旧勢力との間に指導権の争奪がつづき、政界はめまぐるしい変転を遂げつつあった。新興勢力たる海軍と旧勢力たる重装兵部隊とのあいだに生じた政治的問題、これを支配圏拡大と植民地増設によって解決しようとする急進派と、収縮的な解決を狙う穏健派、そして各派のとなえる外交政策、ことにペロポネーソス勢力に対する親疎両態度の国内的なもつれ、等々、急激な民主主義の発展にともなう新旧両勢力の均衡のアンバランスと政治的葛藤は、古い門地を有するアテーナイ人すべてをその渦中に投じた。

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 この政争を詳述することはひかえるが、その経過を二つの時期にわけて、岡内国外の対立を簡単に望観してみよう。これは、史家トゥーキュディデースの人と思想に少ながらぬ影響を与えたと思われるからであり、また、史家とペリクレースの関係を一層特殊なものとしているからである。なぜなら、本来史家の属したと思われるキモーンー派はこの政争の旧派や代表するものであり、これを峻烈な争いで打倒し新勢力を樹立したのが、史家の讃称をほしいま主にしているペリクレースであったからである。あらゆる現象に力の争いを見いだし、あらゆる争いを彼我両面から冷徹な眼で観察する史家の態度、虚飾を排し真実をあくまでも追究してやまぬその史限は、幼くしてその育成に資する環境にめぐまれていたのではないかと思われるのである。
 
 アテーナイにおける新旧両派の争いは、先ずキモーンとペリクレースとの政争となって現れた。キモーンは四七七年、パウサニアースからギリシア解放戦線の指揮権をうけつぐと、同盟諸国の海軍を率いてピューザンティオンをはじめ小アジア沿岸諸地に遠征し、東はキュプロス島から北はトラーキア沿岸まで討伐をかさねてエーゲ海冷地からペルシア勢力や撃退し、後日のアテーナイ支配圏の礎をついたのである。しかしこのように活溌な拡大政策にもかかわらず、内政的には貴族保守派の頭領であり、外交的にはスパルタとの平和共存主義者であったところに、キモーンの政策は破綻をきたした。キモーンの海軍政策を人的資源によって支えていたアテーナイの下層民は、いったん自分たちの力に目覚めると──彼らが軍船の漕手となっていた──、既得権を手放すどころか、さらに大なる生活権を要求しはじめたことは、けだし当然の推移といわれよう。

 この内政面の隙間をついて、キモーンを追い、下層民の生活向上を旗印しにして政界に現れたのが、キモーンよりすぐるとも劣らぬ大貴族ペリクレースであった。各派のスローガンこそ保守、民主とわかれていたが、いずれも大貴族を頭にいただく派閥をなしていたのである。これがちょうど史家トゥーキュディデースの生れた頃である。キモーン追放の直接の原因は、四六二年スパルタが地震と農奴の叛乱のために窮地に陥ったとき、スパルタを助けるためにキモーツは援軍を率いてペロポネーソスヘ赴いたが、スパルタ側の猜疑をうけて不面目にも送還され、かれは帰国すると本国アテーナイ人に──とくにペリクレースを旗頭とする民主派に──責任を追究されて、ついに十年の追放刑をうけたのである。

 この事件との前後関係に明らかではないが、アテーナイの貴族派の牙城として決定的な権威を握っていたアレオパゴスの法廷も、民主派の要求に屈してその権限がいちじるしく縮小され、内政面における民主派の勢力は妨げるものない勢で急激に仲長しはじめた。しかし反革命的勢力にも抜きがたいものがあり、民主派領袖エピアルテースの暗殺(四六一年)というテロ事件すら生じたことが伝えられている。また、新興勢力のふるまいには多々目にあまるものがあったのか、新しいポリスの像をかかげてきた詩人アイスキュロスでさえ、「オレステイア」(四五八年上演)においてアレオパゴス法廷の威厳を擁護するかのごとき場面を書きいれている。

 ともあれキモーンの追放をさかいとして、アテーナイの歴史には次々と民主派の勝利が記されていく。海軍はエーゲ海のみならず、ペロポネーソス諸邦をも牽制しはじめる。アテーナイと港湾をつなぐ大城壁が着工される。この城壁の完備は、海軍国としてのアテーナイの自立を意味し、海軍人口の充実、重装兵人口の弱体化を意味すると。これを当時の旧派は敵視していたのである。また四五七年タナグラの戦は、旧貴族派の中核に大きな痛手を与えたことが報じられている。大城壁が完成する。そしてアテーナイの財政にとって画期的な大事件、すなわちそれまでデーロス鳥にあったギリシア解放同盟の財庫が四五四年には、アテーナイのアクロポリスに移管されることとなったのである。この間の諸事件についてはトゥーキュディデースの一巻八九章以下に詳しいので省く。民主派を動員し、征軍に、公共事業に、またやがては植民活動に全市民を参加させて国力の増大を計ると同時に、民主派の頭領としての己れの地位を揺ぎないものとするためのペリクレースの才覚は、キモーンの追放後十五年間のアテーナイの歴史にまざまざと刻まれている。

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