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『草の葉』の詩想  酒本雅之

 訳者はかつて同じ岩波文庫で『草の葉』の全訳を刊行したことがある。だが四半世紀以上もの時間が経過して、若い頃の自分の仕事にさまざまな不満や反省を感じるようになり、まだ余力が残っているあいだにできる限り良いものにしておきたいと考えた。旧訳を徹底的に見直し、むしろ新訳のつもりで取り組んだが、少なくとも今の自分としては精いっぱいのものができたと思いたい。旧訳の折、さまざまな事情から訳行として名を連ねて頂いた今は亡き杉木喬、鍋島能弘両先生、若い頃から刺戟を与えつづけて下さった常田四郎氏、それに岩波文庫編集部で旧訳の折(そして今回もまた)親身にお世話頂いた永見洋氏と、改訳の機会を与えて下さった同編集部の平田賢一氏に心から謝意を申し述べる。
                           一九九七年初冬
  

                     

『草の葉』の詩想    一つの構造として


一介の政治ジャーナリストだったウォルター・ホイットマン・ジュニアが、『草の葉』の詩人ウォルド・ホイットマンとなったとき、彼はすでに三十六歳を過ぎていた。まさに人生なかばの再出発だから、かつては奇跡とさえ評価されたこともある詩人誕生の秘密を考えるには、ともかくそれまでの人生からの転身と捉える視点が必要だろう。
 
 ホイットマンのこの変身の過程がひそかに進行していたと思われる頃、アメリカ社会はいわゆる「ジャクソニアン・デモクラシー」の渦中にあった。第二次対英戦争の国民的英雄アンドルー・ジャクソンの大統領在職期間中(一八二九~三七年)から四〇年代にかけて、さまざまな領域で、民衆のエネルギーがいっきに解き放たれ始めていた。たとえば労働組合運動、第二次信仰復興運動、選挙権の拡大を要求したドアの乱(一八四二年)、ニューヨーク州の地代反対一揆(一八三九~四六年)などだが、これら一連の民衆意識の高まりの背景には、当時頂点を迎えていた西漸運動と上昇期にあった産業革命を主因とする国力の飛躍的な拡充があった。
 
 『草の葉』初版の詩想がその核心に「民衆」という鍵イメージを持っていることは、例をあげるまでもなく異論のないところだろう。青年期のホイットマンが政治ジャーナリストとして、ジャクソンの治世を担った民主党の活動に深くかかわったことからも、「ジャクソニアン・デモクラシー」の精神風土が、この鍵イメージの醸成にいわば酵母の役割を果たしたことは容易に想像がつく。
 
 もっとも『草の葉』初版の「民衆」には、「衆」であるよりも、むしろ「ひとり立ちの」個人という趣が強い。むろん「衆」ではあるのだが、そのなかに個人が埋没せず、それどころか一人ひとりの個人が「言い換え不可能な実体」として、自己を譲り渡そうとする気配はいささかも見せない。それでも『草の葉』初版の世界に無秩序への不安が見られないのは、詩人、あるいはそのペルソナである「ぼく自身」が、「ものの完璧な適合と均衡」を確信しているからだ。お陰で彼は「沈黙を守り‥‥わが姿に見とれて」いればいい。ものの側が「適合と均衡」を保証してくれている以上、なんの憂いもなく、おのれの裡に宿る 「自然」が「拘束を受けず原初の活力のままに語ることを」許すことができる。

 「草の葉」初版の主たる魅力は、おそらくこの点にある。それぞれの個別が、何ものかへの帰属を強いられておのれ自身を抑制するのではなく、むしろ他者の存在になど気づかぬかの如く、元来おのれにそなわる「原初の活力」を傍若無人に放射するその「言い換え不可能な」実体性にある。個体の名称をただ列挙していくだけのいわゆるカタログ手法も含め、『草の葉』初版の世界では、個別が全体のことなど意に介さず、それ自身の実存を伸びやかに主張している。
 
 たとえば「ぽく自身の歌」の第十五節や第三三節は節そのものがこれら自立した個別たちで埋め尽くされているが、最も鮮やかな例の一つをあげるなら、同じ歌の第八節、「舗道にひびく饒舌、荷車の輪金」で始まる七行だろう。ここではブロードウエーの街頭風景が一つ一つ個別に切り取られて点描されていくが、歌われている瞬間にはそのそれぞれが「ぼく自身」の熱いまなざしを一身に受けて誇らしげに自存している。「ぼく自身」に言わせれば「一つとして同じものはなく、その一つ一つがどれもいい」(七節)のであり、しかも「一インチ、あるいは一インチの何分の一だろうと卑しいものなどはない」(三節)。
 
 ホイットマンをもしも常套句どおりに「デモクラシーの詩人」と呼ぶなら、卑小なものにも偉大なものにも区別を認めず、どんな形であれともかく存在していることに限りなく愛着する彼のこの特異な感性の構造をこそ視野に収めておくべきだろう。ホイットマンに関する限り、「デモクラシー」とはむろん、一片の政治的理念ではない。彼の意識の構造となって、彼の日常のいっさいの言動を規定する、いわば全存在的な原理なのだ。
 
 この原理を擬人化して、ホイットマンは「いのちの愛撫者」(十三節)と呼ぶ。それは「いのち」が息づいているところなら「どこへでも動き……/人目につかぬささやかな片隅へも足を向け………一つとして見落とさ」ない。なぜならそれにとっては、いのちだけが「愛撫」に値するのであり、外形の区別は意味を持たない。たとえば「窓辺に咲く朝顔が凡百の書物の形而上学よりもぼくを満足させる」(二四節)などという。「ぽく自身の歌」に頻出する価値観も、「いのち」という一点に支えられていることは言うまでもない。

 存在するものを、そのものの外形とはかかわりなく、無差別に「どれもいい」と肯定し、
「すべてが奇跡、・……部分も端々もそれぞれが奇跡」(二四節)と驚嘆するなら、「ぼく自身」が目の前の個別から離れて、他の個別へ移って行く必然性はないことになる。「いのちの愛撫者」が「どこへでも動」くことはすでに見たが、その直前の二行でも、「ぼくは絵のようなこの大男の姿を眺め、彼が大好きになる、/そのくせぼくはその場に立ちどまらず、馬たちの仲間にもなる」と、一つの「奇跡」から他の「奇跡」への移動が強調される。
 
 しかしどれ一つとして劣るものはなく、すべてが平等に「奇跡」なら、たとえば当面するものを低次と捉えて、より高次なものへと「超越」していくエマソンの足どりは、ぼく自身」の移動には無縁であるはずだ。現に「ぼくはゆったりと寄りかかり、ぶらつきながら、萌え出たばかりの夏草を眺めやる」(一節)、「ぼく」は目のまえの「夏草に完全に完令に満ち足りており、別の何かに移動する必要は感じていない。同じことは、前に一部を引用した次の一行についても言える。「ぼくはものの完璧な適合と均衡を知っているから、議論はそちらにまかせて沈黙を守り、水浴びをしてはわが姿に見とれている」。彼の移動はあくまでも後ろ髪を引かれながら、次の「奇跡」への興味も断ちがたいという形で行なわれる。
 
 彼が「超越」しようなどとは夢にも思わず、ただ無心に「見とれている」ことができるのは、この世界の真のありようを「知っているから」にほかならない。つまり『草の葉』初版のペルソナである「ぼく自身」のふるまいには、世界に関するある認識(それとも洞察)が根拠を提供してくれているのだ。たとえば第五節でも「ぼくの魂」の「低い呟き」は「のどかな調べ」を奏でるが、その魂とのエロティックな交情から「どんな論議も及ばぬ安らぎと認識」が見るみるうちに「ぼく」を包む。認識と安らぎがもしも不可分であり、ひとつづきの関係にあるなら、「ぼく自身」にとって認識は存在の保証であるにちがいない。

 ところが「ぼく白目身」が誕生する以前、あるいはその胎生期に、ホイットマンのほうは安らぎどころか、むしろ激流の渦中にあった。何よりもまず政治状勢が緊迫していた。周知のように当時のアメリカは奴隷制をめぐって国論が二分し、それをそのまま反映するかのように、ホイットマンの所属する民主党も保守派と急進派に割れていた。一八四八年八月に後者を中核として、西部に新しく奴隷州を作ることに反対するフリーソイル(自由な土地)党が結成され、彼はそのブルックリン地区の機関紙の主筆となるが、秋の大統領選挙には党の候補が敗れ、その挫折感から民主党の保守派に転向する者が続出した。
 
 翌年ホイットマンは告別の辞を紙上に掲げ、理念を持たぬ保守派を激しく非難して、政治の舞台をあとにする。政治世界の激流のなかで次第に孤立していったあげくの離脱だったが、逆に言えばそれは、「ジヤクソニアン・デモクラシー」を土壌とする彼の理念が次第に熟成し、巣立ちの時を迎える過程でもあった。すでに一八四〇年九月付の連作エッセー「日没の記」(第七回)で、ホイットマンは「すばらしい大著」を書いて世間を教化したいという願いを述べ、その本が価値あるものとなるためには「驚くべき大発見」が主題となることが必要だと語っている。この「大発見」が『草の葉』初版の詩想として具象化するには、まだかなりの時間や危機が必要だが、その過程を今は丹念に辿るだけの紙幅がない。
 
 だが「日没の記」は回を経るにつれて次第に「ぼく自身」を偲ばせるような発想の特徴を見せていく。ともかく何かが育っていることは確かであり、その何かが育つにつれて政治状況とのあいだの断絶は深まり、深まった断絶がその何かを熟成させていく、おそらく事態はこんなふうに進んでいったにちがいない。現に四七年になると「ノートブック」に「ぼく自身の歌」の原型とも言える詩句が数ページにわたって書きこまれる。あるいは逃亡奴隷法を含むいわゆる「一八五○年の妥協」に激怒して書かれた詩が、すでに『草の葉』のリズムで歌われている。
 
 つまり「ぽく自身」が誕生し、「ゆったりと…ぶらつきながら」、目のまえの個別(たとえば「夏草」)をつくづくと眺めやるには、まずホイットマンの理念が政治世界で孤立し、現実の施策となる道を閉ざされ、それでかえって理念それ自体となって、現実からきれいに解き放たれるという前史がなければならなかった、自由民権連動への幻滅から詩人となった北村透谷の言い方をかりれば、まさに実世界から想世界への移住だが、「ぽく自身の歌」三三節冒頭の一行は、この移住が新しい認識にほかならなかったことを明言している、「『空間』と『時問』よ、ようやくぼくには真実だと分かるぼくがかつて推測したことが」。そしてそれにつづく三行で、彼は実世界の桎梏から解放され、理念それ自体となったわが身の限りなく自由な境涯を謳歌する、「ぼくを繋ぎとめ抑えつけていた縛めがぼくから離れる、ぼくの肘は海の凹みに憩い、/ぼくは峨々たる連山を包囲し、ぼくの掌はいくつもの大陸をおおう、/旅ゆくぼくの道連れはぼくの幻想」。


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