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モーゼスおばあさんを世に出すまで  加藤恭子

 この頃までに私の出会った編集者の方たちのほとんどは、私よりも年上、もしくはまれに同年代で、人生経験の上からも、「師」と仰ぐにふさわしい方たちだった。
 しかし四十三歳で日本永住を決意してからおめにかかった方たちの多くは、同年代か年下となった。そして、その年下の編集者第一号が、八歳年下の小箕俊介さんだったかもしれない。彼と最初に会ったのがいつだったか、はつきりと覚えていないのだが、昭和四十七年だったのではないだろうか。主人の成蹊高校での教え子であり、私も英語を教えたことのある一橋大学教授、米川伸一氏のご紹介だった。

 その日のことで、二つ鮮明に記憶していることがある。一つは、未来社がふつうの家だったこと。中央公論と朝日新聞社の立派なビルしか知らない私は、こういう民家から秀れた本を出すのは大変だろうななと驚いてしまった。

 もう一つは、痩せてひょろっと脊の高い小箕さん。それまでに交流のあった明るく暖かい雰囲気の編集者の方と違って、陰気な哲学者風。ぽきりぽきりと短い文章が飛び出し、話の接穂がない。しかも、(女性の筆者とお話するのは、苦手でね)という、敬遠したい雰囲気。
 未来社発行の雑誌「未来」に、私が採集してきたニュー・イングランドの民話を連載して下さることにはなったのだが、この気難しそうない人物と、「モーゼスおばあさん」を中心に手を組むことになるとは思わなかった。

 いや、年下編集者の第一号は、もしかしたら「婦人乃友」の村本晶子さんだったかもしれない。痩せて小柄、清純な少女の雰囲気を残す村本さんに目白の婦人乃友社でおめにかかったのも、帰国後まもなくだった。柏原兵三さんの未亡人、柏原悦子さんのご紹介で、兵三さんが信頼かしていた編集者の一人ということだった。

「真実に生きる女性たち」というシリーズを「婦人乃友」に連載しているのだが、アメリカ人かフランス人の女性で誰がいないだろうか? と尋ねられたとき、とっさに思い出したのは、「モーゼスおばあさん」のことだった。

 それがいいと、大賛成して下さった村本さんに励まされて、「モーゼスおばあさんの絵」を「婦人乃友」昭和四十八年七月号から九月号にかけて連載。これが日本におけるモーゼスおばあさん紹介の最初のもとなったと言われているのだが、真偽のほどはわからない。
 はじめは文だけの予定だったのだが、村本さんは、「絵も載せたいですね、すばらしいですから。誰が版権をもつているのでしょう?」と言いだされた。

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 モーゼスおばあさんの本を出している二、三の出版社に手紙を出したが返事がこない。子供向けに彼女の伝記を出している社からは、
「あなた自身で書かないで、わが社の本を翻訳しないか?」
 などと返事がきた。
 時間だけがたったことに苛立った私は、(そうだ、モーゼスおばあさんに直接手紙を出してみよう!)と思いついた。モーゼスおばあさんは、すでに故人となっている。ゆえに、私は死者に手紙を出すことになるのだが、「モーゼスおばあさん」の名がアメリカ合衆国の郵便局を動かすことを願っていた。

 彼女が最後に度の村に住んだのかも、私は覚えていなかった。だが、フージック渓谷のどこかだったことは記憶していた。そこで私の書いた宛名は、
「アメリカ合衆国、ニューヨーク州、フージック渓谷、モーゼスおばあさん」
 という途方もないものになった。

 あの名前が、本人の死後十年たっても、アメリカの郵便局を動かしてくれるのだろうか……何とも頼りない気持ちでまっているうちに、二十日がすぎた。十二月三十日。あと一日で昭和四十八年も終わりという日になって、一通の航空郵便がニューヨーク市から届いた。
 差出人は、オットー・カリア氏とある。
「えっ、まさか!」
 と私は驚きの声を上げた。
 とっくに故人となったと思いこんでいた人の名を、私はそこに見たのだ。
「農婦の描いたもの」と題して、ニューヨーク市の聖エチエンヌ画廊で開かれた個展こそが、モーゼスおばあさんを世に出すきっかけとなっとこは前に述べたが、園画廊の主人が、カリア氏だったのだ。しかしこれは、一九四○年(昭和十五年)の話である。

「婦人乃友」の村本さんの要請によって版権者探しをしていた私が、苦しまぎれに天国のモーゼスおばあさん宛てに出した手紙。それに対する返信の差出人が、そのオットー・カリア氏だったのだ。
「あなたの出した手紙は、モーゼスおばあさんの息子が受け取り、私に送ってきた。私が版権をもっている。いくつかの質問をしたい」
 という趣旨だった。
「モーゼスおばあさん同様、あなたもとっくに亡くなられた思っていたのです。よくぞ生きておられました」
 とは、まさか書けない。
「私はもちろんあなたのお名前と、そしてモーゼスおばあさんの生涯にあなたが果たされた役割について知っていました。ただ、あなたは、私にとっては一種の伝説上の人物のようなものでしたので、版権と結びつけることしなかったのです」
 という書き出しで、私は急いで返事を書いた。

 すると、折り返しモーゼスおばあさんの絵や肖像の白黒のネガが送られてきて、「婦人乃友」昭和四十八年七月号から九月号の連載を終えることができた。
 ある日のこと、私がやっと抱え上げられるくらいの重さの小包が、アメリカから、しかも航空便で届いた。差出人はカリア氏。開いてみるモーゼスおばあさんの画集と「アメリカ・インディアンの美術」というどちらも大部な本だった。
「モーゼスおばあさんを世に出すまで──編集者たちの光景」

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