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コッド岬  飯田実

 現在、夏のリゾート地・高級別荘地として名高いコッド岬は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の南東部から、大西洋に向って、「折り曲げられた、むき出しの腕」のように突き出た細長い半島である。運河のあるサンドウィッチから先端のプロヴィンスタウンまで、全長約105 キロ、幅は平均8キロ、おおむね砂地からなる脆弱なる地盤で占められている。ことにその「肘」の部分に当たるチャタムから「拳」の先のレイス崎に至る砂浜と砂丘は、激しい大西洋の波風に絶えず揉まれ打たれながら、オーリーンズとイースタムとの間で一旦短く途切れたあとは、ただ一本の細流によって妨げられることもなく、次第に北西の方向に湾曲しつつ、延々50キロ近くにわたって続いている。

 それは二つの大洋に面して長大な海岸線をもつ北アメリカ大陸でも、他に例をみない地形上の特質である。しかもいくつかの小高い丘や、(今日ならば)プロヴィンスタウンにあるピルグリム・メモリアル・モニュメントに登れば、波の荒い大西洋と比較的穏やかなマサチューセッツ湾を同時に見比べることができる。岬の海岸風景は現在もなお砂の移動によって絶えず微妙に変化し続けているのであるが、その地形的特徴はソローが訪れた150年前とさほど変わってはおらず、特にケネディ政権時代の1961年に、大西洋岸一帯が国立海岸(National Seashore)に指定されてからは、自然環境や景観の保存は大体うまくいっているようである。

「ウォールデン──森の生活」の著者として、日本でも広く知られるアメリカの詩人・思想家・博物学者ヘンリー・デヴィット・ソロー(Henry David Thoreau 1817~1862)は、本書の冒頭に述べている通り、1849年10月に初めてコッド岬を訪れたのを皮切りに、翌1850年6月と1855年7月の三回にわたって岬を訪れ、彼の作品とはひと味もふた味も違った、ユーモアと爽快感に溢れる、興味深い旅行記「コッド岬」を書き残した。(実はその後1857年6月に、彼はもう一度岬に赴いているが、その時のことは日記に記されているのみで、旅行記に生かされるには至らなかった)。事実に即して、彼の足跡をざっと辿ってみよう。

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 まず、1849年秋の旅では、同じコンコード村に住む友人のエラリー・チャニング(詩人)と一緒にボストン港から蒸気船に乗り、マサチューセッツ湾を横断してプロヴィンスタンに行く計画だった。ところが、嵐のために出航が遅れて足留めを食っている間に、ボストン港に近いコーハセットの海岸でアイルランド系移民を乗せた船が難破し、145人の死者が出たことを知り、急遽予定を変更して列車でコーハセットに向かった。海岸では沢山の死体と難破船の残骸を目の当たりにし、生存者や付近の住民の話を聞いた。こうして、思いがけなくも「コッド岬」の物語は、いきなり難破船および死者たちとの遭遇から始まることになり、その後も引き続き、残響のように難破とレッカー(wrecker本書では「漂着物拾い」と訳しておいたが、本来は文字通り、船を難破させて略奪する沿岸住民などを指していた)の話が繰り返される。

 ソローがこれほど多数の無残な人間の死体を見たのは明らかに初めてであり、大きな衝撃を受けたはずである。だが、死体をめぐる彼の描写は感傷やセンセーショナリズムとは無縁であり、ふしぎなほど淡々と即物的に進む。また、死をめぐる彼の想念は宗教的というよりもむしろ詩的である。少なくとも、死は自然万物の不可欠な一部分として平静に受け止められ、時には荒涼とした海岸風景の崇高美を高める一要素ともなっている。

 その後、二人はコッド岬の入り口に当たるサンドウィッチまで列車で行き、そこから駅馬車に乗り換えてオーリーンズに至り一泊する。翌日は激しく雨が降りしきる中をウェルフリートまで歩き、カキ養殖業者の老人、ジョン・ニューカムの家に一泊する。革命時代の出来事を克明に記憶しているこの90に近い老人とのやり取りは、ソローが書き残した最も生彩に富む愉快な人物描写の一例であろう。翌日は大西洋をさらに北上し、ハイランド灯台に一泊して灯台守の生活を興味深く観察し、その翌日は岬の先端にあるレイス崎まで辿り着いたのち、プロヴィンスタウンに取って返し、アメリカ大陸に到着した巡礼始祖たちが初めて上陸した地点にある、この由緒ある漁村に二泊する。帰りはここから蒸気船に乗ってボストンに帰港した。

 二度目の訪問翌1850年の6月である。今度は一人でボストン港から蒸気船に乗り込んでプロヴィンスタウンに向い、最初の時とは逆のコースを辿って、ハイランド灯台とカキ養殖業者の老人の家を再訪している。前回老人の家を立ち去ったあと、二人が一時プロヴィンスタウン銀行強盗事件の犯人ではないかとの疑いを、地元警察からかけられたことを知ったのはこの時のことであった。

 三度目はそれから五年後の1855年7月。健康状態が思わしくなかったが、おそらく「コッド岬」を完成するために必要な材料を補うためであろう。再び友人のチャニングとの二人連れでボストンからプロヴィンスタウン行きのスクーナーに乗り込み、翌日トルーローまでは駅馬車を利用し、そこから大西洋岸のハイランド灯台まで徒歩で岬を横断した。ここにしばらく滞在して、植物採集などに専念したあと、再び快速スクーナーでボストンに戻っている。この時の成果は、主に最終章「プロヴィンスタウン」に生かされた。

 ソローは1849年に、岬からコンコードに帰郷したあと、さっそく旅行記をまとめにかかるとともに、各地の文化講演会で草稿を披瀝し、聴衆を辛辣な観察と暖かいユーモア(この両者がこれほど見事に溶け合った例はソローの作品でもまれである)で大いに沸かせた。「聴衆は大声を上げて笑いころげました」。ある時、講演を聞いたソローの友人エマソンは、二人の共通の友人そう書き送っている。

 一方、彼は引き続き精力的に膨大な歴史資料や地誌、動植物調査報告書などを読んで材料を補充しながら、全体を一貫性のある旅行記に仕上げていった。原稿の大部分は1852年中に完成していたとみられるが、発表誌の編集者との間にいくつかの章句をめぐって、意見の食い違いがあり、1855年に至ってようやく「パトナムズ・マンスリー・マガシン」の6、7、8月号に、第一章から第四章までが発表された。さらにその続編が掲載される予定だったが、作中にしばしば見られる教会関係者や、岬住民への揶揄が物議をかもすことを懸念した編集者の意向により、突然連載が中断され、作品は一旦宙に浮いてしまった。ソローはなおも推敲を続けるうち、ついにその続編が日の目を見ないまま、1862年5月6日に肺結核で死去した。

 その後、1864年になって、「ウェルフリートのカキ養殖業者」と「ハイランド灯台」の二章がそれぞれ「アトラック・マンスリー」誌の10月号、12月号に掲載され、翌1865年3月、著者の死後およそ三年を経てようやく、ティックナー・フィールズ社から、全10章よりなる「コッド岬」が出版された。編集に携わったのはソローの妹のソフィアと、彼の岬行きに二回同行した友人のチャニングであり、ここに最適の編集者を得て、本書はおおむね作者の意図通りに完成されたとみてよい。

 「コッド岬」は、ソローの主著のなかでも特異な位置を占めている。その体裁は、一見したところ、作者が直接見聞したり、調べたりしたことを淡々と記した、言葉の通常の意味における旅行記である。そこには格別読者の度胆を抜くような事件や異常な体験が語られるわけではないし、初期の二著作「コンコード・メリマック川の一週間」と「ウォールデン─森の生活」にしばしばみられる自然論や人生論のようなものは、ほとんど影をひそめ、ほぼ同時期にはじまる一連の社会改革論文たとえば「市民の不服従」にみなぎる激しい論調もここにはみられない。作者はあたかも、コッド岬の歴史、気候、地質、動植物、産業、民族など、あらゆる側面を網羅した、一種の念入りなガイドブックを書こうとしているかのようだ。その限りにおいては、作者の意図はさほど野心的ではなく、現に、俗受けを狙った比較的軽い作品、とみる専門家もいるほどである。

 にもかかわらず「コッド岬」は「ウォールデン」と並び、ソローの主著の中で、今日もっとも多くの愛読者を得ている作品である。両書は有名なペンギンブックス叢書に収められており、英語圏では容易に入手することができる。そのペンギンブックス版「コッド岬」に序文を寄せたアメリカ生れのイギリスの作家シルーは、著名なソロー研究者たちのいく分「見下したような」評価とは無関係に、この本は出版以来多くの読者に支持されてきたと言い、ロバート・ローウェルのような一流詩人にも少なからぬ霊感を与えていると指摘している。

 シルーはまた「コッド岬」が初めから「一冊の書物」として書かれたわけではなく、三回の旅行に基づく一○篇のエセーであるにもかかわらず、全体として揺るぎない統一性をもっている」ことを称えた。さらに、ソローは本来「森の住人、陸上生活者」であるにもかかわらず、好奇心に駆られて出かけて行った岬で「海を発見した」こと、とりわけ「海を理解するには公海上からではなく、岸辺からそれを研究する以外にない」という新しい視点を発見したことを高く評価している。最後に、海を見つめるソローの目は、メルヴィルの「白鯨」の語り手であるイジュメイルのように「初々しく清々して」と言い、コッド岬への旅によってソローはかつてない「解放感」を味わったとして序文をしめくくっている。

 訳者のささやかな特権として、シルーの簡にして要を得た解説に、少しばかり補足(蛇足?)を加えることをお許し願いたい。私はこの本の大きな魅力と独自性は、散文によってソローがものにした最も混じり気のない詩的な作品であるという点にあると思う。事実を淡々と述べた旅行記を詩的と呼ぶことは、いくらか奇を衡っているようではあるが、この作者はかねがね「最も興味深く美しい事実は、最上の詩である」とか「探求心の旺盛な人間にとっては、最もありふれた事実こそ、常に最大の喜びである」などと述べていることを思い出さずにはおれない。本書の全体から受ける純一な詩的印象は、まさしくシルーが「揺ぎない統一性」という言葉で表現しているところである。この本を読み進むにつれて、読者は地の果てにあるという輝く白砂の国、吹き荒ぶ嵐に次々と船が打ち砕かれる混沌の岸辺、一風変わった人々が固有の地霊に呪縛されながら、孤独に暮らす不毛の砂漠へと順次導かれる。それはある架空の国、幻想の世界の冒険の旅を歌った長編叙事詩に似ている。

 叙事詩といえば、「コッド岬」には作者が原典で愛読していたホメーロスの「イーリアス」からの引用が、ギリシャ語原文を含めて八回にも及んでいるのは、異常といえば異常であり、単なる偶然とは考えにくい。いくらか突飛かもしれないが、いっそこの本を、ソローの書いた「イーリアス」という風に捉え直してみてはどうであろうか。すると描かれている人物や風景が、すべて実在のものであるはずなのに、どこかしら神話めいた物語性、架空性を帯びているように感じられることも、全体としてある種の幻想性に満ちていることも、随分とうなずけるような気がするのである。

 最終章「プロヴィンスタウン」では、30頁余を費やして、巡礼始祖たちが渡来する以前の、コッド岬を含む北アメリカ大陸北東海岸に、諸民族が次々と来航した次第を詳らかに記している。この部分を、ソローによくみられる不必要な逸脱とみる評者もいる。だが、本書を一篇の叙事詩と考えると、作者にとってはむしろ不可欠な一部分であったことが納得できよう。こうした航海者たちこそ、英雄叙事詩を飾るにふさわしい本物の冒険家たちであり、雄々しくも神々しい主人公たちなのだ。たとえアングロ・サクソン人が、北アメリカで最後の勝利を収めたようにみえるとしても、それ以前にこれらの海岸を訪れた多くの探険家たち──10 世紀のスカンディナヴィア人から始まって、17世紀初頭のフランス人シャンプランに至るまで──は、勇気、冒険心、不屈さ、航海術、用意周到さなどにおいて、巡礼始祖らにいささかも劣らないばかりか、時にはそれを凌ぐ人々であった。とりわけシャプランがソローお気に入りの探検家であったことは、彼自身の祖先がフランス人であることを思い合わせてみると興味深い。

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 しばしば「森の哲人」の名で呼ばれるソローが、30歳を越えて急に海を見たくなったというのはどういう風の吹きまわしだったのであろうか。まず思い当たるのは、ソローと水とのひと通りでない因縁である。彼の四冊の主著「コンコード・メリマック川の一週間」、「ウォールデン」、「コッド岬」、「メインの森」のうち三冊までが、それぞれ川、湖、海を主題としているという事実が、暗黙の内に何事かを物語っていよう。ソローは生来、強く水に惹かれるタイプだったと考えられる。ガストン・パシュラール風に言えば、彼の詩的イマージュは水という物質元素を巡って展開され、そこに原初的なものと永遠なものと同時に見出そうとする、はなはだ顕著な傾向をもっていた。

 西洋古来の体液説との関係で言えば、水に引かれる人間は粘液質ということになっており、「粘液質の人間の夢想は、湖水と大河と氾濫と難破である」(ガストン・パシュラール「水と夢」)といわれている。かねてからコンコード川に親しみ、ウォールデン湖のほとりで暮らしたソローが海に出かけたのは、いわば必然の行為であった。本書において、何回も述べられているように、海は人間を含むすべての地球上生物の母体であり、「生命に満ち」た場所であるが、同時に難破によって人間の夢を打ち砕き、生命あるものを暗黒の深淵に引きずり込む、死の領域でもある。

 彼はまた、浜辺の不思議さにいく度となく打たれた。それは古来、四大元素(火─太陽、空気、水、土)が一挙に混じり合うことによって、混乱が生じる場所とされてきた。
「陸地が海から隆起して乾燥地となる前は、混沌(カオス)が支配していた。陸の女神が部分的に衣の着脱を繰り返す高水位線と低水位線との間では、今でも一種の混沌が支配しており、そこは変則的な動物しか棲み着かない場所になっている。

 シルーはソローが発見した海と、メルヴィルの「白鯨」に描かれた海との類似性に言及しているが、改めて、この両作品を比べてみると、両者の海の捉え方には大きな相違があることに気づく。メルヴィルの小説に描かれる「神秘な海」は、生と死、善と悪、光と闇が交錯する、旧約的──カルヴァン的な存在論的宇宙のイメージに満たされているようであり、作者自身もまた、「創世記」「ヨブ記」「ヨナ書」などをはじめとする「旧約聖書」の諸篇から頻繁な引用と、同じく「旧約」に由来する主要な登場人物たちの呼び名によって、読者をつとめてこうした一種の神学論的宇宙に導こうとしているようにみえる。

 一方ソローが発見した海はそれとはまったく異質なものであった。彼はおそらく宗教的に解釈され以前の、根源的物質としての海──ギリシャ人たちが初めて発見した海──をそこに見出したのだ。メルヴィルの引用がそうであったように、ここでも再び「イーリアス」が、彼の見つけた海のイメージを解く鍵となろう。つまるところ作者は、読者の海への想像力を、従来の旧約的──カルヴァン的な枠組みから切り離し、詩的であると同時に科学的でもあるような、ある方向へと展開しようとしたのではないかと思われる。あるいは彼の歴史的地理学的想像力において、岬の内側には巡礼始祖たちの宗教的事跡に彩られたマサチューセッツ湾があり、外側にはギリシャ人たちの冒険に彩られた大西洋があった、というべきであろうか。

 イースタムの野外集会に加わる常連たちは、メソジスト派の牧師の説教と、岬の裏側にぶつかる大波の説教の、どちらにも耳を傾けていいのかわからなくなるそうだ。彼らが当地に滞在する間中、両者が滔々と押し寄せて来るからである。……砂丘の上の群衆に向って、海が「聴衆の皆さん!」と呼びかけるとき、どんな感動が人々の間に広がることであろうか! あちら側にはジョン・M・マフィット氏が、こちら側にはポリュフロイスボホス・サラッサス牧師がいるというわけだ」(本書)

 ソローが海に惹かれたもうひとつの理由として、当時、ヨーロッパやアメリカにおいて海や海浜リゾートへの関心がかつてなく高まっていた点を指摘しなくてはなるまい。最近、わが国で翻訳出版されたフランスの歴史家アラン・コルバンの大著「浜辺の誕生」は、18世紀半ばから19世紀半ばにかけて、浜辺のリゾートをめぐる集団的感性が西洋世界においてどのように形成され、変化していったかを詳細に跡づけている。1840年代はねアメリカ東海岸でも一般人の浜辺への関心が著しく高まり、海浜リゾートが次々と造られはじめた時期である。

 ソローは本書において、いち早くその流行に注目し、海岸という高貴な自然の、低俗な受容形態に批判の目を向けている。彼は、やがてコッド岬に押し寄せる観光客たちが、海岸地帯の原初的な生態系や古い生活様式を変化させ、破壊するであろうことを直感し、現地に赴いて可能な限り正確に、当時の自然や風俗を記録にとどめようと考えたのであろう。1961年にコッド岬の大西洋岸一帯が国立海岸に指定されたことは、「アメリカにおける自然保護運動と生態学の先駆者」と呼ばれるソローの精神を、遅ればせながら踏襲する企てであったといえる。

 コッド岬に描きこまれた作者自身の円熟したペルソナも、本書の魅力を高める上で一役買っている。語り手としてのソローは、いくらか気難しい森の哲学者といった従来のイメージとはだいぶ異なり、気さくで快活なヤンキー、好奇心溢れる旅人であり、人好きのする若者である。「一般に社交というものはつまらないものだ。ひとと付き合うよりも一人でいるほうがよい」(ウォールデン)といういつもの口癖を忘れて、岬では「人間的なものはすべて私にとっては無縁ではない」というテレンティウスの格言まで持ち出し、見知らぬ土地の人々との交わりを大切にする人間探求家に変身している。

 第二章の、駅馬車に乗り合わせた人々の描写を、「メインの森」第三章にある駅馬車の描写と比べてみるとよい。メインの森では、「駅馬車の乗客としても、宿屋の泊り客としても、なにか違和感を禁じえなかった」ソローが、ここでは一転して「駅馬車の乗客の間に行き渡っていた気持ちのよい分け隔てのなさと、開けっ放しで何物にもくじけない陽気さ」に心を打たれる。「彼らはまさに自由闊達であり、一期一会をないがしろにしないところは、人生いかに生きるべきかをついに会得した人々のようだった。未知の間柄なのに旧知の仲のように付き合える、じつに単純率直な人たちであった」と言い、ついには「互いにうまく出会ったばかりでなく、うまが合ったというわけである」と洒落のめしている。

 ソローが、訪れた土地の人々に、人好きのする人間という印象を与えたことは間違いない。たとえばトルーローでたまたま出会った親切な男が、かれをストローベリーがよく生えている場所へ案内したあげく、「ある池のほとりまで行ったとき、彼は土地っ子の歓迎の印だと言って、シンドバッドみたいに私を両肩の上に乗せて対岸まで運んでくれたものだった。情けは人のためならず。いつか彼が私たちの村へやって来たら、今度は私が担いでやるつもりだ」などというくだりがある。

 教会や牧師に対するときだけは、彼も相変わらず手厳しいが、かといってその描写にはいつもの辛辣さはなく、むしろ牧師たちの風変わりな性格を、イギリス小説の伝統を思わせるユーモラスな筆致で浮き彫りにすることに、作者の主たる関心があるようである。「どうか皆さんは、私が昔の牧師たちを嫌っているなどと思わないで頂きたい。彼らは当時としては最上等の人間だったに相違なく、こうした町村史の膨大な頁を、各々の伝記で飾るにふさわしい人々だったのだ」と断っているところにも、著者のいつにない思いやりのほどが反映されている。

 ソローの初期の著作にしばしばみられる、説教調と重苦しさにいくらか抵抗を感じる読者も、ここでは彼のもうひとつの持ち味である人物や風景の軽妙かつ的確な描写と、ふんだんな洒落や地口を織り込んだユーモアの才を存分に味わうことができよう。

 コッド岬への旅は、彼の自然体験を大きくふくらませるものであった。内陸の豊かな自然環境の中で暮らしてきた彼は、かつてこれほど荒涼とした風景を目の当たりにしたことがなかった。だが「徹底して侘しい風景は、私の目にある種の美しさをもっている」と言い切るところに彼の真骨頂がある。「私は、あたりの景観が荒涼としてくるにつれて、いよいよ元気が出てきた」。かくして、冷たい風雨に打たれて、襲いかかる大西洋の飛沫を浴び、鋭く尖った砂塵を顔に受けながら、彼は数十マイルもの浜辺や砂丘を歩き通す。人食いザメが出るという海岸で、冷たい海水をものともせず泳ぎまわる。コッド岬において、彼は常よりもさらにその感覚器官をすべて解放し、自然の厳しさも残酷さも優しさも美しさも、すべてを受け入れ、思い切り自然との交感を楽しんでいる。この本ほど彼の自然児ぶりを生き生きと描き出したものはない。

 自然の収奪を否定し、自然との共生を身をもって実践した彼の思想と人生は、これまでとかく近代文明に対する単なるひとつのパラドックスと見られがちであった。だが、文字通り地球環境が危殆に瀕している今日、彼の生き方はひとつの重大な人類的挑戦であり、新たな地平に向けての、有効かつ緊要なモデルであるとみなされるべくであろう。

 私事にわたって恐縮であるが、私はコッド岬を二度訪れたことがある。最初は1968年の秋、ブラウン大学大学院に在学中のことであった。その日の朝、私は急に思い立って、英文学を専攻する同じ下宿住まいの二人の中国人留学生を誘い、昼近くにプロヴィデンスからグレイハウンド・バスに乗車、二時間余りかかってハイアニスに着いた。大西洋岸とはいえ釣り針のような形をしたガモン崎によって荒波から守られている、南に面したこの港町は、当時、故ケネディ大統領の別荘があることで有名だった。日記を繰ってみると、私たちは海岸近くの店で買った昼飯代わりのパンと果物を頬張りながら海辺を散歩したようであるが、全員がいくらかバスに酔っていたのに加えて、近くのモーターボートのから漂ってくる強烈なガソリンのにおいのせいで、せっかくの気分を損なわれたとある。なお不運なことに、ハイアニスから出ているはずのプロヴィンスタウン行きのバスがこの日は運休であった。私たちはしばらく海辺を散歩したあとで再びバスに乗り、すごすごとプロヴィデンスに引き返すしかなかった。

 それからちようど十年目に、ようやくプロヴィンスタウン行きが実現した。このときは家内と一緒だった。ハーヴァード大学でのフルブライト研究員としての暮らしが、そろそろ終わりに近づいた1978年の夏、イェール大学にアメリカ人の友人夫妻を訪ねての帰りに、思い切っておんぼろ車を飛ばして岬を縦断し、夕闇迫るころ、観光客でごったがえす、この町一番の繁華街コマーシャル・ストリートに乗り入れた。道行く人々の服装はいかにも避暑地らしく寛いではなやかであり、通りの両側には、革製品やガラス製品、キャンドルを売る小さな店、装飾品や衣類の専門店などが軒を連ねていた。ようやく民宿風の宿屋を見つけて落ち着いてから、再び海を見に海岸通りに出たところ、前輪が砂地に嵌って車が動かなくなってしまった。仕方なく車から降りて、車体を舗道に押し上げようとしていると、暗闇の中からたちまち数人の男が現れ、手を貸してくれた。

 翌朝はまずプロヴィンスタウン博物館に行き、巡礼始祖たちの事跡を物語るさまざまな展示物を見た。それから、隣接する展望塔の長い螺旋階段を汗だくになって登ると、すぐ目の下に、右手から大きく折れ曲がった岬の先端がかろうじて海面に覗いているのが見え、そのはるか前方には、大陸につながる岬の内側の岸辺がこれまた大きく湾曲しながら遠ざかり、霞のなかに消えていた。どんなに晴れ上がった日でも、ボストンまではとうてい見渡せないだろう。

 マサチューセッツ湾は私の予想をはるかに超える大きさだった。一方、岬の右手には所々に白い砂地の透けて見える低木林が、なだらかな起伏をなして一面に広がり、その間にシャンク・ペインター沼が点々と光っていた。この町の大半は国立海岸に指定されており、シュラブオーク、マツ、ツルコケモモ、湖沼などはすべて注意深く保護されている。緑豊かな砂丘の彼方に目を向けると、この日は波頭ひとつ見えない穏やかな大西洋岸が青く果てしなく広がっていた。今ではこの高い塔のおかげで、湾と大西洋を同時に見渡すことはいとも容易である。

 そのあと、私たちは車でトルーローに向かい、大西洋岸に出てハイランド灯台付近の砂浜を散歩した。思ったよりも風が強く、かなり寒かったにもかかわらず、親子連れなどの観光客が大勢、水着を着て浜辺に出ていたが、さすがに泳いでいる人は見かけなかった。靴を脱いで海水に足を漬けてみると、切れるような冷たさだったのを覚えている。以来、再びコッド岬を訪れる機会のないまま今日に至っているが、こうしたささやかな経験も、翻訳の仕事を進める上で多少は役に立ったと思う。

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 わが国で「コッド岬」が全訳されるのは、これが初めてである。訳文訳注ともに、なお不備な点が少なくないであろう。今後とも大方のご教示を得てより完全なものにしていきたい。翻訳に当たっては、多くの方々のお世話になった。まず、いくつかの不明箇所について手紙で問い合わせたところ、直ちに懇切丁寧な回答を寄せて下さった、著名なソロー学者ウォルター・ハーディング教授と、プリンストン大学版「コッド岬」の編集者ジョーゼフ・D・モルデンハウアー教授に心からお礼を申し上げたい。訳注のいくつかは両教授の博識と見識の恩恵を受けている。

 また今回も数々の貴重なご示唆を頂いた、工作舎の編集者ロビン・ギル氏ならびに脇田耕二氏に深く感謝申し上げたい。編集者のあるべき姿を身をもって示して下さった、お二人の良心的なご協力なしには、本書の翻訳は容易に捗らなかっただろう。最後に、いちいちお名前は挙げないが固有名詞の発音等についてご教示を賜った大学の同僚諸氏、および今回も用語の統一などに意を用いながら訳者の草稿を清書し、校正にも力を貸してくれた妻ひろみに心から感謝したい。

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ヘンリー・D・ソロー特集
森の生活 神原栄一訳  荒竹出版 1983年刊
市民の反抗  飯田実訳  岩波文庫1997年刊
ザ・リバー 真崎義博訳  宝島社 1993年刊
コッド岬  飯田実訳 工作舎 1993年刊
市民としての反抗  富田彬訳 岩波文庫 1949年刊
メインの森──真の野生に向う旅   小野和人訳 講談社学術文 1994年刊
ウォールデン・森の生活 今泉吉晴訳 小学館 2004年刊
市民の反抗 飯田実訳 岩波文庫 1997年刊
森の生活・ウォールデン 神吉三郎訳 岩波文庫 1979年刊
ウォールデン 酒本雅之訳 ちくま学芸文庫 2000年刊
森の生活・ウォールデン 真崎義博訳 宝島社 1980年刊
森の生活・ウォールデン 佐渡谷重信訳 講談社学術文庫 1991年刊


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