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新聞は本質的に虚偽報道を内蔵したメディア

きくま3


 新聞はいつも正確な報道という旗を掲げるが、しかし同時に、新聞は本質的に虚偽報道をなす体質を持つメディアであるという旗も常に打ち振る必要がある。どういうことかというと、たとえば社会面に毎日のように殺人事件が報じられるが、今日もまたこういう事件が報道されたとする。「昨夜午前七時二十分ころ、Bさんが自宅前で、男が手にした煉瓦で殺害された。犯人は被害者宅の前のアパートに住んでいるAという人物で、Aは日ごろからBさん宅で飼っている犬の鳴き声がうるさいと抗議していた」という報道がなされたとする。すでにこの段階で、もうたくさんの虚偽報道の要素がふくまれているのである。

 その記事は、警察情報というただ一つの視点から書かれているからである。たまたま近所に住むCさんと、Dさんと、Eさんという三人が、その惨劇を一部始終目撃していたとする。ひょっとするとその三人は、新聞に書かれていることとは、まったく違ったことを証言するかもしれない。犯行時間も、殺害に使った凶器も煉瓦ではないと語るかもしれない。そしてその惨劇が起こった原因が、犬の鳴き声などではなく、被害者と加害者はもっと複雑な関係であったと語るだろう。

 それが事実というものの正体である。事実とは多様にして複雑な相貌をしているのであって、それぞれが立っている地点から異なって見える。ときには正反対の事実が出現したりする。例えば、アメリカ軍のイラク侵攻作戦があった。アメリカ軍の果敢な攻撃と侵攻を報道する日本のマスコミは、圧倒的にアメリカから流れされてくる情報によって組み立てられていく。戦艦から、爆撃機からも、ミサイルや爆弾がイラクの都市に打ちこまれていく様子が映像で流される。それを報道するキャスターやコメンテーターたちは「私たちはいまリアルタイムで戦争を見ている。いまアメリカ軍は悪の帝国を攻撃している」といったものである。

 なるほどアメリカからみれば、イラクは悪の帝国であり、世界の平和を脅かすテロリズムの温床ということになるのかもしれない。しかしその視点を一転させて、攻撃され破壊されていくイラクの側に立ったとき、このアメリカ軍の侵攻はどう映るのか。その報道は一転するにちがいない。アメリカ側から流される情報とは、百八十度も相反する記事を掲載しなければならないはずだった。私たちはいつも新聞で報道されるものを、なにか絶対的な事実であるとして読んでいくが、しかし新聞記事とはたんなる一つの情報であり、すでにそれが虚偽報道であるという側面を多分に含んでいるのである。したがって新聞とは、虚偽報道をなすシステムを、原理的に内臓しているメディアなのだということを知っておく必要がある。

 しかしこの検証記事は、そんな新聞のもつ本質的問題など持ち出す必要のない、まったくの単純なミスが発生してしまったということである。年間何百本何千本と発生するミスであって、そのとき新聞は、五、六行で「訂正とお詫び」という小さな記事を載せて、そのミスを決着させていく。今度のミスもまたそうやって、あっさりと決着させることができた単純な誤報記事だったのである。

 しかし今回はそういう決着ができなかった。そんな単純なミスではなくなっていた。というのはいま朝日新聞は、NHK の番組改変をめぐる記事をめぐって、NHKと二人の政治家とのトラブルをかかえていたのである。とくに二人の政治家から、その記事は、捏造記事であり虚偽報道であるという告発までなされ、裁判沙汰にまで発展していた。その最中に、その記事の内部資料が、社内から何者かによってもちだされ、他のメディアでその流出資料が使われるという事態までに、トラブルは拡大してしまっていた。そんなトラブルに見舞われている最中に、またしても政治家がらみの虚偽報道が起こってしまったというわけである。


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