見出し画像

オランダ運河のタカシ通り

「お一い、弘さん。弘せんせ一い」
 通りの向こう側から男が叫んでいた。長太だった。
「お茶でも飲まないか」
「いや、いま仕事中なんだがな」
 と弘も叫んだ。
「かまうものか。だれもみてやしないよ」
「いや。それがあちこちでみられているんでね」
 と二人は通りをはさんで大声で叫んでいる。昼下りのゼームス坂を車はせわしく通るが人影は少ない。しかしそれでも人は歩いているのだ。
 車がとぎれると長太が通りを渡ってきた。そして弘の腕をとると強引に、
「ちょっと三十分ぐらいいいだろう」
 その坂の中腹にある〈アシビ〉という喫茶店のドアを押していた。
「どうだった、今年のアラスカは?」
 と弘は訊いた。長太は今年の夏アラスカに蝶の採集にでかけているのだ。
「いつもながら、あそこにいくと帰りたくなくなるんだ。日本には」
「いい所らしいね」
「ぼくのような人間には桃源郷のような世界だね。なんにもないけど」
「また珍蝶でもとってきたの」
「オオタカネヒカゲとメスキツマキチョウね。これはちょっとばかしすごいんだ」
「昨年はオオカバマダラとか言ってたね」
「そう。これで二大目的がほぼ達成されたよ。あそこはぼくの描く蝶前線の最北端に位置するけど、これで面白い仮説を裏付けることができた。ちょっとした論文が書けるかもしれないな。ほんとうはアラスカに長期滞在して書きたかったけど」
 そして長太は、しきりにその壮大な仮説を説明しはじめた。
 その仮説を裏づけるために、長太は南はインドネシアからパプアニューギニア、西は韓国や中国にでかけたりしている。弘ははじめて長太に会ったとき、なんとこの人は壮大な夢のなかを生きているのだろうと思い、そんな壮大な仮説を我れと我が身に課していることがうらやましかった。しかしそのためにずいぶん大きな犠牲を払っていることも知るのだった。
 彼の経営する塾は小さな塾だからけっして豊かではない。だから外国遠征するためには塾が終わってからも家庭に出向いて家庭教師をやったり、ときには朝学習といって朝の六時ごろから受験生の家をまわったりして、その遠征費を稼ぎだしているのだ。そんな自分自身をあざ笑うように、長太は、
「まあ、こんなヤクザなことをしているから妻や子供たちに逃げられるんだね。野暮な仮説をたてるために人生棒にふるってことかな」
 と言ってさびしく笑うのだった。つまり夢を追うということは、また沢山ものを失うことなのだろう。
「君の夏はどうだった?」
「例の、自然教室。どうも今年はぱっとしなかったよ」
 それは弘の児童館で、毎年夏休みに企画する子供のための自然教室だった。夏休みを飛び飛びだが、七日間をつかって、野鳥や植物や昆虫を観察する。今年はその教室の講師に自然観察協会から岸というナチュラリストを招いていた。
「どうもぼくの描いたイメージとはちがってしまったんだよ。昆虫を観察したり、植物を観察したりする姿勢というのが、ちがっていたんだね。なんだか学校のかたい理科学習の延長みたいになってね。例えば、木を観察するとき、木に登ってはだめ、枝を折ってはだめ、葉をむしり取ってはだめ、とだめだめづくしなんだね。ぼくは思うのだけど、木を知るということは、まず木に登ることからはじめるべきだと思うんだよ。その木にだきついて、その木と格闘して。そうしてはじめて木の存在というものを感じていくもんだと思うんだけどね」
「うん。そうだな」
「ところがその岸さんの指導方針というものは、例えばさ、五日市にいって川の生物観察をやったんだけど、水遊びをしてはいけないと言うんだ。その川には生物たちがすでにたくさん生息しているから、それらの生き物の生活を破壊しないように、こっそりと静かに観察しろと言うのだね。大人にたいするならそんな指導もわかるけど、相手はまるで生物なんかに興味のない子供たちなんだ。そういう子供たちにむかって、水遊びをしてはいけないとか、泳いではいけないとか、石をぽちゃんぽちゃん投げこんではいけないとか言ったて、だけど子供たちの一番の楽しみは川で遊ぶことなんだ。泳いだり飛びこんだりもぐったり魚をとったりカニをつかまえたりさ。そんなことができないんだから子供たちはまったく不完全燃焼だったよ」
「そうだろうな。それは講師の選択を間違えたんだよ」
「うん。それは言えてる。しかし活動の途中でもういいですなんて言えないしさ。結局その先生のやり方で通す以外になかったけど。おかげでいろいろとふくらませていた夢がしぼんでしまった夏でもあったね」
「それじゃ海への挑戦もできなかったんだね」
「ぜんぜんだよ。せいぜい干潟で鳥の観察とか砂場でカニをつかまえるといった程度で終わってしまった」
「君の夢はなかなか攻撃的だからね」
「そうかな、攻撃的かな。しかしここはかつて海だったんだ。この地域の子供たちはかつては海の子でもあったんだ。それがいまはまったく海と断絶したところで生きている。海がコンクリートでかためられて、ものすごい遠い存在になってしまった。次第に海はきれいになっているし、もうそろそろ海に子供たちの目をむけていくような活動が生れてもいいんだよ」
「今年、アラスカに一緒にでかけた仲間だけど、堀尾という男がいるんだ。彼のグループが埼玉にトンボの池というのを作ったらしいんだよ。まず地面を幅五メートル、縦二十メートルぐらい掘ってね。その深さは、まあ一メートル程度でいいらしいんだが、その人工池のまわりにはもちろん草や木立を繁らせるわけだがね」
「二十メートルか」
「トンボというのは、言ってみれば水中動物でもあるからね。その大半を水のなかで過ごすわけだから、ヤゴが生きる環境というものを作りだしてやればいいわけだよ」
「それは成功したのかな」
「成功したらしい。彼の話によると、いまあちこちでそんなトンボの池が作られているようだよ」
「いいね。そんなものを作りたいね。この品川の地にも」
「大井埠頭だったらわけなくできると思うね。公園の一角に作ればいいんだから。あたりはまさにトンボがもどってくる環境だし」
「そうだね。それはできるね。いいな。その話のったよ。やろうよ、長さん」
 と弘はちょっと興奮して言った。
 自然の世界に目を開かれ、大井埠頭に目をむけるようになったのも長太の影響だった。都会から吐き出される巨大なゴミで埋め立てられた地に、見事なばかりの自然がもどっていたのだ。数百種類の草が繁茂し木立も根をつけていた。鳥が帰ってきた。さまざまな昆虫も生息していた。そこはいまや自然の宝庫となりつつある。そのことを知った弘は、夏休みになると自然観察の講座を組んで子供たちをこの埠頭に連れ出すのだった。
 その広大な地に、緑道公園だとか、第三埠頭公園だとか、中央海浜公園だとかいった味もそっけもない名前がついていた。これでは少しも愛情がわいてこない。かえって殺伐としたイメージが広がるばかりだった。そこで弘は児童館にくる子供たちや長太の塾の子供たちと、もっと人の心をとらえるような名前をつけようという活動をしたことがあった。
 それはあきらかに宮沢賢治の影響だった。イギリス海岸とか、ポラーノの広場とか、イーハトーボとか、種山ケ原とか、狼森とか、きらきらとした想像力とメルヘンにあふれた名前を賢治はつけた。弘は熱烈な賢治のファンであったのだ。
 この日も弘たちが命名したその地名がでてきた。
「話はちがうけど、オランダ運河のウンドリ橋を渡って、左に五百メートルぐらいいったところに、いつも花束が置かれていること知っていた?」
 と長太が言ったのだ。
「いいや。最近ぼくはあのへんは通っていないんだ」
「それがちょっと不思議なんだね。ガードレールにペットポトルとか缶からとかが五、六個くくりつけられてあって、いつ通ってもそこに花が挿しこまれているんだよ」
「そこで、だれか交通事故で亡くなったんだろうな」
「そうだと思うけど。いつもそこを通るたびに花をみるんだ。この四か月ずうっとだよ」
「交通事故にあった子の母親が、毎日やってきて花を捧げているのかもしれないね」
「いやね、それがその花がチューリッブだとか、バラだとか、なんだかいつもガキっぼい花なんだ。あれはぜったいに大人のしていることではないように思えるんだよ」
「ふうむ」
「そこにペンキでね、タカシ命って書いてあるんだ」
 弘はぎょっとなってたずねた。
「そのタカシって、どういう字だった?」
「高いの高に、こころざしの志で、タカシって呼ぶだんだろうな」
 弘は一瞬息をのんだ。弘の知っている高志もまた大井坤頭で命を落としている。パトカーの追跡をふりきろうと猛スピードで逃走中に、ガードレールに激突して、わずか十七の命を散らせてしまったのだ。長太の言うタカシとはあの高志なのだろうか。
 それは七年も前のことだった。
 新しい子供が転校してきたという噂が児童館にも流れてきた。なんでもその子の母親は夜逃げしてしまい、いまヤクザをしている父親と二人で小さなアパートに住んでいるとか、その子はまだ四年生だけどすごく喧嘩が強くて六年生を泣かしてしまったとか、いつも学校を休んで深夜までぷらぷらしているものだからしょっちゅうパトカーで警察に連れていかれるとか。そんな噂を聞くたびに悪い環境にいる子だな、と弘はさむざむとした気持ちになるのだった。
 ところがそれから間もなくして、その噂の主が児童館にあらわれたのだ。弘は子供たちの噂から、体の大きなふてぶてしいあのドラエモンにでてくるゴンちやんのようなイメージをいだいていたのだが、実際のその子は四年生にしても背が低く、おまけにひょろりとやせていて、どこにも喧嘩の強そうなイメージはなかった。むしろさびしげな表情をたたえた弱々しそうな子供だった。
 それから高志は毎日のように児童館にやってきたが、子供たちには人気があり、次第に遊びの中心になっていった。しかし弘の印象はけっしてよくなかった。弘が高志に声をかけると、じろりと鋭い視線を放ってぷいと離れていく。弘にはいつも敵意のこもった表情をむけるのだった。
 しかし同僚の久保田信子は、弘とまったくちがった見方をしていた。
「あの子はすごくやさしい子ですよ」
「そうかな。ぼくには敵意のこもった目をするけど」
「そんなことありません。あの子はとってもやさしいのよ」
 と言った。
 信子はそう言って高志のことを擁護したが、それから間もなくして弘の予感するようなことが起こった。和彦という子が弘のところにやってきて、高志に三千円とられたと漏らした。そんな噂を弘は前から耳にしていた。高志に百円おごったとか、二百円貸したとかいった話を。しかしそれは別に高志という子に、カツアゲされたとかだましとられたという話ではなかったから、そのまま聞き流していたのだ。しかし和彦の話はそれとはまったくちがったものだった。和彦ははっきりと二千円とられたと言ったのだ。
 その日、高志が姿をみせると、弘は彼を児童館の屋上に連れていった。午後の太陽がふり注いでまぶしい。弘はどっかとコンクリートの上に尻をおろして、高志にも同じことをすすめた。しかし彼はただならぬ弘の気配を警戒してか立ったままだった。
「すわりたくない?」
「べつに」
「じゃあ、すわってくれよ」
 彼はやっとすわった。高志をまじまじと目の前でみると、まだあとけなさとかわいさをたっぷりと残しているし、その目はとても澄んでいるのだ。
「あのね。ちょっと高志にきくけどさ、君はいくらぐらいお小遣いもらうわけ」
「もらうときも、もらわないときもあるよ」
「もらったときは、なにに使うわけ」
「いろいろと」
 と小さな声でぼそっとこたえる。鋭い嗅覚ですでに弘がなにを言おうとしているのかわかっているようだった。高志は緊張で体をこわばらせていた。それは無理もなかった。弘の口調がまるで尋問しているかのようなのだ。ちょっと興奮している弘は思い切って言ってしまった。
「君はカツアゲしているんだってな」
 一方的にきめつけるように言うと、それはわかっているんだ、ちやんと調べてあるからね、嘘をついてもだめだよ、それはよくないことだ、そんなことをしたら犯罪なんだ、犯罪ということはおまわりさんにつかまることだ、こわいところに連れていかれるんだぞ、とまったく子供をおどかす古い常套句をつかって叱ってしまった。
 その翌朝だった。弘が児童館に出勤すると電話が入ってきた。
「あの、中川和彦の母親ですが、いつもお世話になっています」
 いつも弘は母親たちから電話があるたびにひやりとする。このときも和彦の母親だときいて、ああ、あの三千円の問題だなと思い、ちょっと構えて受話器を握りなおした。
「児童館の帰りなんでしょうかね、唇のところがばさっと切れて、顔もものすごくはらして帰ってきたんですよ。痛いって言うもんだから、すぐ医者につれていったんですけど。だれかにそれは強く殴られたようなんですね。今朝も頭が痛いって言うもんですから、学校を休ませたんですけど。児童館でなにかあったのでしょうか?」
 あいつだ、あの子だ、と弘はすぐにひらめいた。弘にちくった和彦を待ちぶせて鉄拳を見舞ったのだ。弘はそのあたりの事情をもっと詳しく知ろうと自転車にとびのって和彦の家にむかった。
 和彦の家はあきれるばかりに大きな家だった。部屋に入るとその広さその豪華さがさらに目につく。広々とした玄関のホール、そこからのびているゆったりとした廊下。招かれた居間はぶかぶかとした絨毯がしかれ、皮ばりのソファーがL字型に鎮坐して、その奥にグランドピアノがあった。よくテレビドラマにでてくる上流階級の家庭さながらの室内風景だった。
 弘は母親よりも和彦と話しがしたくて、二階の和彦の部屋にいった。そこも十二畳はたっぷりあるのだろうか、子供部屋とは思えない豪華さだ。テレビがあり、電話まではいっている。公団アパートで一家四人つましく暮らしている弘には、ためいきがでるばかりの部屋だった。
 和彦はベッドにあわてて飛びこんだという風だった。
「やあ、どうだい。調子は」
 と言って彼の額に手をやってみた。熱もない。顔のむくみもない。昨日殴られたあとはあとかたもなく消えていた。どうして母親というのはあんなにオーバーに言うのだろうかと弘は思うのだった。
「だれかと喧嘩したんだ?」
 彼は首をふった。そのはげしいふり方は、もう口が裂けても言うまいと決意しているかのようだった。
「あのね、もう一度きくけどさ、それは高志じゃないの」
 と弘は言った。和彦はまた首をはげしくふった。そのはげしいふり方はまぎれもなく高志なのだと言っているのだった。
 その日の午後、高志は児童館にあらわれなかった。それはそうだった。昨日あんな言い方をした以上、もう二度とこないのかもしれなかった。
 どうしても高志と会いたかった弘は、児童館の門を開じてから彼の家にいくことにした。彼が住んでいる高橋荘を知っている子供たちから、だいたいの場所をきいていたのだが、なかなかその建物がみつからなかった。裏通りからまた裏通りへとぐるぐるまわって、やっと路地のつきあたりの奥に、まるで隠れるようにひっそりと立っている貧相な高橋荘に出たのだ。
 山川という紙きれが、そのドアに貼ってあった。そこが高志一家の住居なのだろう。ドアを叩いても、なかから応答がなかった。鍵もかかったままだった。もうすっかりあたりは暗くなっている。ぼんやりとしたさびしくわびしい裸の電球が、そのアパートの二階に上がる鉄の階段についていた。弘はその階段にすわって本を開き、そのあかりで活字を追いながら高志の帰りを待っていた。
 高志の姿が角からあらわれたのは七時を過ぎていた。
「お一い、たかし!」
 と弘が声をかけたとたんに、高志はものすごい勢いで逃げ出したのだ。弘もまた猛然とかけだした。高志は路地から路地へとねずみのようにかけこんでいく。しかし弘も負けてはいなかった。必死で追いつめて、やっと彼の手をつかんだ。
「高志、そうじゃないんだ。君にあやまろうと思ってきたんだ」
 と弘は荒い息をはあはあさせながら言った。しかし弘の手にがっちりとおさえられている高志は、反抗の姿勢を全身であらわしたままだった。
「きのうはゴメン。ぼくが悪かったんだ。あんな言い方ってないよな。許してほしいんだよ」
 弘のそんな言い方に、高志も少し警戒をゆるめたようだった。
 そこは六畳一間の部屋だった。家具が壁を埋めて、狭い空間の真中に折りたたみ式のテーブルがおいてあった。そのかたわらに汚れた衣類が山とつまれてある。わびしく殺伐とした部屋だった。
「お父さんは、いつも何時ごろ帰ってくるの?」
「一時ごろ。おそいときは二時ごろ」
「夕食なんてどうするわけ」
「パンを買ったりしているよ」
「そうか、一時か二時なのか、お父さんが帰ってくるのは」
 子供たちが高志のさまざまな噂をしていたが、その噂の謎といったものがとけていくように思えた。いったいこんなことがあるのだろうか。これでは学校にいけないのも当然だった。これでは夜遅くまで外をうろつくのも仕方がなかった。謎がとけていくと、弘は胸がしめつけられるほど悲しくなった。こんなことが現実にあるのだろうか。こんな豊かな社会にこんな貧しい状況におかれた子供がいるなんて。いままでの弘には想像することもできないことだった。
 弘は高志を、ゼームス坂の坂道を下りきった所にあるラーメン屋に連れていった。
「さあ、なんでもいいよ。なんでも君の食べたいもの食べていいから」
 しかし高志は遠慮するのだった。あとで知ることなのだが、高志は誇りの高い子供だった。どんなに空腹でもどんなにつらくても、なにか彼の守るべき掟みたいなものがあって、それをけっして破ることをしないのだ。
「ここのラーメン、うまいんだよ。ダシがきまっているからね。なんといったってラーメンはダシだからね。このダシがなんだかわかる?」
「いや」
「あのさ、この辺の猫が消えるんだよ。毎日毎日一匹づつ。こっそりと君だけに教えるけど、どうもこのラーメン屋はその猫をダシにつかっているという噂なんだ」
「うそ」
「ほんとうさ。だから猫たちは、ぜったいにこのラーメン屋の近くには近づかない。猫たちはね、このラーメン屋に対抗してね、猫同盟というのを作っているんだよ」
 それは弘が最近作った〈猫同盟>という童話だった。彼は童話を作ると子供たちに話して、そのできぐあいをみる。子供たちがその話にのってくると大成功というわけだった。その〈猫同盟>のあらすじといったものをひそひそと高志に話してみたが、高志にはさっぱりうけなかった。それで、
「あのさ、もしお金がほしくなったら、ぼくのところにきてくれよ。ぼくも貧しいけど、高志に貸すお金ぐらいあるからさ。もちろんそのお金は君が大きくなって働くようになったら返してもらうけど」
 高志はもう弘にたいする警戒も敵意もといていた。そして彼の心をすべて開くかのように言ったのだ。
「和彦ってお金をもっているんだ。あいつのお小遣って一万円だって」
「そうだろうな。あいつの家は金持ちだからね」
 昼間いったあの和彦の家がよぎってきた。あの豪華な家と高志のアパートのはげしい落差。この落差のなかで子供たちは生きているのか。
「ぼくは金持ちの子からしか借りないから」
 と高志は言ったのだ。
 それから高志はまたしばしば児童館にやってきた。もう高志の目には敵意の視線はなかった。二人の間には深い友情の絆というものが生れていたのだ。
 その頃、児童館に真奈美という小児マヒにかかった子が通ってきていた。車椅子だから学校や児童館への行き帰りは、いつも母親の手をかりなければならなかったのだが、この母親は仕事をもっていた。だから朝、娘を学校に送るとすぐに職場にいき、学校が終わるころにはまた職場をぬけて学校に。そして学校から真奈美を児童館に連れてくると、また職場にもどるというあわただしさだった。そんな母親の労を少なくしようと、弘は児童館にくる子供たちに真奈美を学校から児童館ヘ、児童館から自宅への送り届けるという活動に取り組ませていた。
 その役を高志にも担わせようとしたのだ。
「いいか。真奈美をちゃんと迎えにいくんだよ」
「いいよ」
「雨の日も、風の日も、嵐の日も、だよ」
「いいよ」
「そして学校が終わったら、真奈美をこの児童館に連れてくるんだ」
「それで、家に送っていくんだね」
「それはさ、別の子にさせるから」
「わかった。いいよ」
 そうは言ったものの弘は半分も期待していなかった。だから弘は真奈美の母親に、
「子供ですからね。気のむいたときにしか迎えにいかないと思いますけど、でもそんなことから真奈美を送り迎えする仲間が、一人また一人とふえていくといいと思っているんですよ」
 と言った。
 しかし、驚いたことに高志は、一日も休まずに八時十分になると玄関にあらわれるというのだ。それこそ雨の日も嵐の日も。それをきいて弘はなんてすごい子なんだろうと思うのだった。
 五月の連休があけた日だった。その朝、弘が児童館の建物に入ろうとすると、高志が木立の陰からぬっとあらわれた。
「あれ、今日、学校は休みだっけ」
「あるけど。もうちゃんと真奈美ちゃんは送ってきたから」
「ああ、そうか、いつもがんばってくれてるな。うれしいよ。でも学校にいくんだろう」
 そういう習慣ができたせいか以前のように学校は休まなくなっていたが、ときどき真奈美を送りとどけたあとに、教室に入らないでそのまま家に帰ってしまうことが何度かあったようだ。今日もその手かなと思って、
「今日はどうするわけ。休むの?」
「いや、いくよ」
「そうだね。やっぱりいったほうがいいよ」
 しかし、高志はなにかもじもじしている。
「どうしたの?」
「あのね………」
 寡黙な子だった。相手が大人となるとさらに寡黙になる。なにかあるなと思った弘は、高志の肩をだいて、
「なんだよ。はっきり言ってくれよ。ぼくたちは友達だろう」
 すると彼はお金を貸してほしいと言った。彼がそんなことをたのんだのははじめてのことだった。
「いいよ、いくらほしいの」
「二百円ぐらいでいいから」
「いいよ。なにに使うわけ」
「パンを買うんだけど」
 そしてそれを食べたら学校にいくと言った。それはずいぶん奇妙な話だった。
 高志は誇り高い子だった。真奈美の朝の送迎を毎日休むことなく続けてくれる高志に、真奈美の母親はなんども夕食に誘ったらしい。しかし彼はそんなことをされるのをひどくいやがった。たまに弘もラーメン屋に誘うのだが、彼はいつも首をふるのだ。しかし彼が空腹だということを知っている弘は、ちょっと強引に連れていく。そしてラーメンにチャーハン、それともギョウザがいいとたずねると、彼は小さな声でラーメンだけでいいとこたえるのだった。ほかの子供だったら、チャーハンもギョウザもということになるに。
 そんな子が二百円を貸してくれという。どうも要領をえない話なので、お父さんはどうしたのとたずねた。高志のきれぎれにもらす言葉をつなぐとこういうことらしい。五日間の連休がはじまるその最初の日に、父親は二日ほどもどってこないからと言って、二千円を高志に渡した。その二千円でパンでも買って食ってろと。高志は言われたとおりその二千円を二日で使った。父親は二日後にもどってくると言ったのだ。ところが彼はまだ帰ってきていないのだ。
「それじゃ君は、あとの三日はなにも食べてないの」
「うん」
 弘に怒りが噴き上げてきた。なんという親なのだろうか。こんな親に子供を育てる資格があるのだろうか。弘はそれまで何度か高志の父親には会っていたが、それはただ挨拶をするという程度のものだった。というのも父親とは深くかかわりたくないという思いがあったのだ。彼の父親と深くかかわりをもつということは、高志の問題をどうするかということだった。もしそこまで踏みこんでいったら、大変な時間とエネルギーをとられるだろう。いまの自分にはそこまではできないと一線をひいていたのだった。
 しかしその話をきいたとき弘は決意をかためた。その一線をこえなければならないと思ったのだ。高志のためではなく、自分のために。自分がこの地上に立つために。弘は今夜父親に会おうと思った。
 その日、弘は高志のアパートで父親の帰りを待つことにした。こわいばかりに貧しさと孤独とがただよっている部屋だった。こんな荒涼とした部屋で父と子が生活しているのだと思うと弘の胸ははげしく痛むのだった。高志とトランプなどして待っていた。靴音が聞こえ、ドアが乱暴にひらいて、父親の芳男がもどってきたのは深夜の一時だった。
「おお、なんだい?」
 彼は部屋にいる弘をみて、一瞬ギョッとなって逃げ腰になった。
「ちょっとお父さんと話そうと思って」
「なんだい、話って?」
「ちょっと外で話したいんですよ」
 高志はもうそのとき毛布にくるまって寝ていた。芳男と怒鳴りあいになって、高志が目を覚ますかもしれなかった。高志にはきかせたくない話だった。
 二人は外に出た。肩をいからせ、よたって歩く芳男は、ヤーサンの姿そのままだった。それもチンピラヤーサンの。どこにも凄味がない。なんだか滑稽だった。ちょっと歩くと駐車場があった。そこに二人は入った。
「なんだい、話しって?」
 芳男はふところに手をいれた。一瞬弘はやばいなと思った。こいつは刃傷ざたになるのかなという思いがちらりと走ったのだ。しかし芳男が取り出したのは煙草だった。きざな手つきでライターをならして火をつけた。
「高志をどうするかですよ。こんな状態で高志は育てられるんですか」
「育てられるかって?」
「なんだかぼくには無理なように思えるんですよ。いえ、ぼくはあなたを責めているのではなくて、ぼくがあなたの立場だったら、やっぱりこうなるのかなって思ったりするんですがね。しかし高志の立場に立って考えると、こんな状態は決してよくありませんよ」
「よけいなお世話だよ」
「よけいなことじゃありませんよ」
 弘はちょっと激高して言った。
「あなたはこの五日間、どこにいってたんですか。高志一人おきざりにして。彼はこの三日間なにも食べていなかったんですよ」
 芳男もまたすごんできた。
「そんなことてめえに関係あんのかよ。おれのうちには、おれのうちのやり方ってものがあるんだよ。あいつは一人で食えるんだ。一人で食えるようにしこんできたからな。それがおれのうちのやり方なんだ」
「おれのうちのやり方って、高志に二千円おいていっただけでしょう。二千円で、いったい何日もつと思うんですか。一日三食ですよ。二千円なんて、ちょっとまともなもの食べたら一日でなくなってしまいますよ。高志はあなたが二日で戻ってくると言ったから、その二千円を二日に分けて使ったんですよ。あとの三日はどうするんですか。高志はね、この三日間なにも食べていないんですよ」
「そんなこと、てめえのしったことかよ」
 と言って、弘のむなぐらをつかんで締め付けてきた。むしろ幸いだった。この男を叩きつけてやろうという怒りがおし寄せていた弘は、逆に彼の腕をねじって逆襲にでた。ちょっとした争いになったが、たちまち芳男は弘に組み伏せられてしまった。なんだかまるで力のない男なのだ。
 芳男の上に馬乗りになった弘は、なにか悲しみを吐き出すように言った。
「ぼくは責めているんじゃありません。あなたはあなたなりに一生懸命なんだ。高志はけっしてあなたを非難などしませんよ。高志はあなたが一生懸命だということをよく知っていますよ。彼はあなたが好きなんです。あなたを尊敬していますよ。彼には母親がいない、だからあなたはその役もしなければならない。あなたの悲しみとか悔しさというものが痛いほどわかるんです。しかしどんなにがんばってもやっぱりできないことがある。そのできないことを行政の力で捕ってもらうべきだと言いたいのですよ。そのために国家というものがあるんだし、政治というものがあるんだし、福祉というものがあるんですよ。いまあなたがすべきことは見栄をはることではなくて、高志のためにその力を借りて立ち直っていくべきだと患うんです。高志のためですよ。このままでは高志があまりにもかわいそうじゃありませんか」
 組み伏せられて、もう抵抗することを観念していた芳男が、しくしくと泣きはじめていた。その泣き声は、なにか堰を切ったようにはげしくなっていく。弘は驚いて彼の上から離れた。芳男はよろよろと半身を起こすと、地面にすわりこんで、掌で何度何度も地面をたたきながら、
「あんたに言われなくたってわかっているんだ。おれがどんなに馬鹿ものかが。女房に逃げられて、おれはどのようにして生きていいかわからなくなったんだ。どうしていいかわからないんだ。いまでもそうなんだ。どうやって生きていけばいいのか。おれは何度もあいつと死のうと思ったことがある。こんなことをどこまでつづけていってもだめだってわかるからよ。まったく能なしなんだ。おれは子供なんかつくってはいけなかったんだ。てめえ一人のことも面倒みきれねえのに、どうして子供の面倒をみれるんだって」
 弘はその夜、一人の男の魂の叫びみたいなものをきいて、もっと深く高志と交流しなければならないと思った。その交流を深めるために新しい活動に踏み出さなければならないのだと。そのことを次の日にあらわれた高志に言った。
「あのさ、高志。君とすごく面白いことをしたいんだ」
「なあに、それ」
「すごく面白いんだよ。仲間を集めていろんな遊びをするんだ。いまの子供ってほんとうに遊びきっていないじゃないか。家にとじこもってファミコンとかさ。親は勉強勉強ってうるさいし。だんだん子供が小さくなっていく。だからだんだん日本人はけちくさくなっていくんだ」
 弘は、興味の視線をむける高志の目のなかに、言葉の炎を投げこむように、
「夏になればキャンプだね。学校でするキャンプなんかとちがうんだ。自分たちで計画して、自分たちがしたいことをしていく。冬はソリすべりだね。雪の山からソリですべりおりていくんだ。クリスマスパーティとかさ、子供だけのパーティとかさ。とにかく面白いんだよ。それを全部子供たちでやっていくんだ」
「ふううん」
「子供会というものなんだけどね」
「子供会?」
「そう。子供がつくりだす愛と理想の国なんだ。そこにいけばいつも仲間がいて。なにかぞくぞくするような面白いことがはじまるんだ」
 それは前から弘はやらなければならないと思っていたことだった。このままでは自滅していくのだ。このあいまいな仕事、あいまいな日常のなかに次第に滅んでいく自分にときどき慄然とするのだった。子供たちのなかに深く入っていくためにも、そして自分が蘇っていくためにも、それをはじめなければならなかった。
 弘は児童館にやってくる子供たちのなかから、これはと思う子を誘って子供会づくりをはじめた。何度もその子たちを集めては、その雰囲気をつくりだし、子供会の土台をつくるためにハイキングも企画した。
 二十人近い子供たちが、そのハイキングにいくと言った。そこで弘は、手を上げた子供たちの父母に、そのハイキングを行うことの説明会をもった。ところがその説明会には、父母は一人としてやってこなかったのだ。
 ハイキングにいくその日曜日がきてしまった。集合場所に集まったのは、高志一人だった。
「だれもこないね」
「そうだね。だれもこないね」
 二人だけの会話だった。さびしい会話だった。
 あとでわかったことだが、子供たちの親は、ひそかに集まって、その活動から子供たちを遠ざけることで一致していたのだ。ヤクザの親を持った、学校にもいかず、夜中までぷらぷらしている子供を中心にした活動に加わるなどとんでもないことだったのだ。
 結局その活動はそれだけのものだった。その半年後に、高志もまた高橋荘から忽然と消えていった。
 長太の話をきいて、弘のなかに電流のように走っていったのは、その高志のことだった。もう半年も前になる。友人を後ろにのせて走っていた高志のバイクは、パトカーに追跡され、それをふりきろうと逃走中、ガードレールに激突して死亡したということを、風の便りで聞いたのだ。まさかその高志のことではあるまいか。
 弘は、その日に、自転車でオランダ運河のウンドリ橋を渡り、東西に真直ぐに伸びる道路を、左に析れてみた。なるほど長太が言うように、ガードレールに針金でしばりつけられた、缶やペットポトルの中に、バラの花が挿されていた。そのガードレールにも、地面にも、高志命とか、高志ここに眠るとかいった文字が、スプレーで書きつけられていた。
 その夜、毎週発行している児童館の子供新聞に、弘は高志の思い出を書きはじめていた。高志との出会い、夜中にぶらついていた高志、何度もパトカーにのせられた高志、真奈美を雨の日も風の日も送りつづけた高志、三日間なにも食べなかった高志、高志のあのアパート、高志の父親のこと、そして高志と企んだ子供会のこと。そんなことが弘の指から、こぼれるようにしたたり落ちていった。弘の人生に、鮮烈によぎっていった高志のことをを書きながら、弘はしきりに、高志は風の又三郎のような子供だったのだなと思うのだった。
 週があけて、また水曜日がやってきた。その日の午後、また長太が児童館に飛びこんできた。
「いたよ。いたんだ。とうとうつかまえたよ」
「なにがいたんだい? まあ、コーヒーでもいれるから」
 なんだか、長太のあわてぶりが、おかしかった。
「いや、あのオランダ運河のウンドリ橋のところで、花束をもってぷらぷらしているやつらに会ってね」
「えっ。ほんとうか」
「ほんとうさ。あそこのペットボトルに新しい花が挿しこまれるのはいつもきまって水曜日なんだ。だから朝から、あそこで釣りをしながら張り込んでいたんだ」
「長さんが」
「そうなんだ。君の新聞を読んで、ぼくも興味をひかれたよ。だいたい悲しみなんて、一か月もすれば、あとかたもなく消えてしまうものじゃないか。ところがいまだに、あそこから花束が消えない。いったいどんな人間が花を挿しにくるのだろうかって、すごく興味をひかれたんだよ」
「それで張り込んでいたわけなのか」
「それと君の新聞、高志という子が実によく描けているからね。あれはなかなかよかったよ」
「まあ、ぼくの新聞はいいとして、それで?」
「二時ごろだったよ。四人連れなんだ。バイクに乗ってね。そいつらがバラの花をそこに挿しているわけだな」
 そこで長太は、その四人の若者に話を訊いたらしい。
 事故は、その夜の十一時頃おこった。張り込んでいたパトカーの追跡され、中田という友達を後ろにのせていた高志は、その追跡を振り切れきれると思ったのか、猛然と逃走した。ウンドリ橋からのびた交差点をまがって、走り抜けようとしたとき、ふらふらとハンドルをとられ、ガードレールに激突した。高志は首の骨を折って、即死状態だったが、うしろに乗っていた中田という友達は、ガードレールをとびこえて草の上に投げ出され、ほとんど無傷だった。 
 その四人は、口々に、そのことを高志らしいと言った。あいつは、自分のことよりも、まず仲間のことを考える男だったと。
「不思議な子だったんだね。水曜日にそこにきて花を挿すのも、だれがやるときめているわけじゃないらしいんだ。いつもだれかが水曜日になると花を挿していく。それはすごいことだぜ」
「そうなのか」
「彼はずいぶんん顔が広かったらしいね。あちこちで喧嘩をして、しかし喧嘩をするたびにその相手と友達になったらしい。昼間はガソリンスタンドで働いて、夜は定時制高校にいってたらしいんだが、その四人連れは、あいつは定時制高校の星だったと言っていたね。例えばだれかが学校を休むと、彼はバイクを飛ばして休んだ子の家に迎えにいったと言うんだ。その休んだ子をバイクに乗せてもどってくる。校庭に走りこんでくると、ププププとホーンを鳴らしてね。すると教室の窓が開いて、わあっと喚声があがったらしいよ。そんなわけで、彼のクラスでは学校をやめる子がほとんどいなかったと言っていたね」
 あのときの高志の姿が、目に浮かぶ。真奈美を毎朝、学校に連れていったあの高志の姿が。
「みんなに愛されていたんだな。実に不思議な子だね」
「そうなんだ。ぼくにとって彼は風の又三郎だったと思うんだ」
「どうやらあの通りを、タカシ通りと命名しなければならないかもしれないな」
 と長太が言った。
 次の週の水曜日、今度は弘が、その場で朝から待っていた。ちょっと夏の活動の取材にでかけると告げて、児童館を出ると、ウンドリ橋を渡って、そのガードレールがよくみえる位置の堤防の上に座って、本を開いた。そうやって、あたりをうかがいながら本を読んでいると、一時間もしないうちに、バタバタと赤いへルメットをかぶった女の子がバイクでやってきた。バイクをとめると、彼女はシートをもちあげ、なかから花束をとりだした。
 弘は本をたたんで、彼女のもとに飛んでいった。突然あらわれた弘に、その子はびっくりしたようだった。
「ごめん。驚かして。ちょっと君に聞きたいことがあるんだけど」
「はい、なんですか」
 ヘルメットを脱いだ女の子は、なかなかかわいい子なのだ。
「その花は、高志のためなんだよね」
「ええ、そうですが」
「その高志のことを、ちょっと聞きたいんだけど」
 弘は児童館で出会ったころの高志のことを話し、その後の高志のことを知りたいのだと言った。
「高志ってえ、もっているものをみんなに与えて風のように去っていった子でえ……」
 こうして、彼女は話しはじめた。
「あたしはD女子学院にいってたんだけどお、だけどいろんないやなことがいっぱいあってえ、学校にいかなくなっちやってえ、いろんなことがあったけど一番いやだったことは家庭がめちゃめちゃになったことでえ、父は愛人をつくって家にたまにしか帰ってこないし、母まで愛人なんかつくりだしちゃってえ、もう家のなかめちゃめちやでえ、そんなわけであたしまで狂ったというか、なんだろうって、家庭ってなんだろうって考えたりしてえ、とにかくめちやくちゃになったというか、自分がなんだか狂っていくなって思ったりしてえ……」
 その子は、とぎれること言葉を吐きだしていく。弘とはもう何年も前からの、知り合いであるかのように、話していくのだ。
「それでもう、これはグレる以外にないなって思ってえ、もう一生懸命グレようって男の子とつきあったりしてえ、その一人の男が高志と喧嘩になってえ、それで彼と高志とが友達になってえ、それであたしは高志とつきあうようになっていったんだけど、だんだん高志と会うことが多くなってえ、それでいやなこととか、いろんな夢とか家庭のこととかを話していてえ、親のことになってえ、あたしがあんな親なんて死んじまえばいいんだって言ったら、高志があした面白いところにいこうというから、いいよって言ってえ、高志にその日に会いにいったらそこに彼のおじさんという人がいてえ、それで三人であそこは拘置所って言うんですか、刑務所みたいな所に連れていかれてえ、小さくてすっごく陰気な部屋に入っていくと、そこに金網みたいなものがあってえ、そのむこう側に人が入ってきて、その人がこの人だれって言ったら、高志が、おれのダチって言ったら、その人はそうかと言ってなんだかさびしく笑うとしくしくと泣きだしてえ、それでえ、その泣くのがなかなかとまらなくてえ、高志はおやじ泣くなよって言ってえ、あたしはなんだかすごく胸がつまってきてえ、どっと涙があふれてきてえ、自分のこととか父のこととかが思い浮かんできてえ、あたしの家族って壁のようなものだと思ってえ、そのあとで高志はその人のことを話してくれてえ、おやじはちんぴらのくせに、喧嘩もできねえ弱い男だと言ってえ、足を洗おう洗おうと思いながらいつまで足が洗えなくて、でもおれはおやじが好きでえ、おれはおやじの面倒をみてやろうなんて話してくれてえ、そんな話しきいて、やっぱり親子ってどんなに悲惨であっても、心がつながっていなければいけないんだと思ってえ……」
 いまとても奇妙な子供がいる。話しはじめたら、止まらないという子が。えんえんと二十分でも、三十分でも、話し続ける。終止符というものがなく、それでえとか、思ってえとかといった、現代の接続詞とでもいうべきものでつないでいくのだ。
「それでえ、高志がおれの学校にこないかっていうから、いやだあ、定時制ってくずのたまりばでしょうと言ってえ、あ、いけない、こんなこと言ってえと思ったら、高志は怒らないでえ、まあおれたちはくずだけど、だからとっても仲間を大事にしているって言うから、あたし一度定時制に遊びにいったんだけどお、すっごくよくてえ、みんなやさしくてえ、先生なんかも面白くてえ、みんなが仲間だっていう雰囲気で、ああ、いいないいなって思ってえ、だから高志のお葬式のときはもうすごい数でえ、その定時制の子たちもいっぱいきて、みんなわんわん泣いて、高志をのせた霊枢車が走りはじめると、みんなが高志って叫びながら一緒に走り出したりしちゃってえ、高志って走っていって、なんだかもっているものをみんなにばらまいていったという感じでえ、いつもここにくると心がすっごく落着いて、不思議なほど心が静かになって、ああ、あたしは高志に見守られているんだなっていう気分になってえ……」
 弘は、その子の切れ目なく続く話をききながら、そうだ、この子たちと一緒に、高志の追悼集というものを作ろうと思うのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?