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大震災に見舞われた日本にささげる



 玉城村中学校の体育館には、百五十人ほどの人々が避難していた。広いフロアーを家族数に応じて仕切られている。そこに布団やら紙袋やら衣類を吊るすハンガーやら座卓やら段ボール箱が積み重ねられている。澤田さんのスペースはたった一人だったから畳三畳ほどだった。そのスペースに置かれているのは布団と二つの段ボールだけだった。それが澤田さんの所持品のすべてだった。何もかも失ったのだ。家屋だけではない。やがて金婚式を迎えようとしていた妻も奪われた。そしてそのとき娘が出産するために三才の孫を引き連れてその家に帰ってきていた。この三人を、いや間もなく生誕する子を含めると四人が一瞬にして津波にさらわれてしまったのだ。
 澤田さんは毎朝四時前に起きて、その体育館から出ていく。背ほどもある棒を右手に、山行用のストックを左手にして、体を左右に揺らしながら歩いていく。右足が不自由なのだ。校庭を横切り、校門から出て行った。まだ夜が明けていない。雨が降ろうが、強風が吹き荒れようが、夜明け前に起床していまだ発見されていない妻と娘と孫を探しに出かけていくのだ。毎日海岸を何キロもの遠方まで探索に出向いて、体育館に戻ってくるのはいつも夕刻前だった。すべてを奪われて体育館に避難している人々はいつしか大家族のような親交が生まれ、誰もが澤田さんの身を案じるが、しかし澤田さんはなにかそれらの親交を拒むかのようこう言った。
「おれはどうして生きているんだ、これは間違いだろうが。生きていなきゃならないのは、孫であり、娘であり、娘が生んでくれる子供だろうが、どうしておれが生き残っているんだ。おれは自分が許るせねえんだよ」
 その日、澤田さんは夜になっても体育館に戻ってこなかった。夜明けとともに避難者全員が、さらに警察や消防の人たちとも手分けして捜索にあたったら、村から二十キロも離れた海岸で、すでに絶命していた澤田さんが発見された。だれもがこう思った。澤田さんはいまだ見つからない三人の遺体を探していたのではなく、生き残った自分を裁くために歩いていたのではないか、と。

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