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桜の園 第四幕 アントン・チェーホフ 


第四幕

装置は第一幕と同じ窓のカーテンも、絵もない。わずかに残った家具は、まるで売りにでも出すように、片隅に積みあげられている。空っぽの感じ。出口のドアのそばと舞台奥に、トランクや旅行用の包みなどが積まれている、左手のドアは開け放され、そこからワーリャとアーニャの声がきこえてくる。ロパーヒン、立って待っている。ヤーシャ、シャンパンのグラスを並べた盆を持っている。玄関ホールではエピホードフが箱に縄をかけている。舞台裏、深いところで、がやがやいう人声。百姓たちがお別れに来たのである。ガーエフの声、「ありがとう、みんな、ありがとうよ」

ヤーシャ  百姓たちがお別れに来たんですよ。わたしはこういう意見でしてね、エルモライ・アレクセーイチ。百姓ってのは善良だけれど、ものわかりがわるいですよ。
(人声がしずまる。玄関ホールを抜けてラネーフスカヤとガーエフ、登場。彼女は泣いてはいないが、蒼ざめて顔がふるえ、口がきけない)
ガーエフ  あの連中に財布ごとやっちまったりして、リューパ、あれはいかんよ! あれじゃいけない!
ラネーフスカヤ  やらずにはいられなかったのよ! やらずには! (二人とも退場)
ロパーヒン  (戸口から、二人のうしろ姿に)こちらへいらしてください、お願いします! お別れに一杯ずつやりましょう。町から持ってくることに思いいたらなかったので、駅でやっと一本だけ見つけましてね、どうぞ! (間〕どうしました、みなさん! お厭ですか? (戸口から離れる)そうと知ってりゃ、買わなかったのに、じゃ、わたしも飲むのはやめた。(ヤーシャ、用心深く盆をテーブに置く)飲めよ、ヤーシャ、お前だけでも。
ヤーシャ  出発を祝って! 残られる方もお幸せに! (飲む)このシャンパンはまがいものですね、請け合いますよ。
ロパーヒン  八ルーブルもしたんだぜ、(間)ここはおそろしく寒いな。
ヤーシャ  今日は煖炉を焚きませんでしたからね、どうせ行っちまうんですし。(笑う)
ロパーヒン  なんだい?
ヤーシャ  嬉しさのあまりですよ。
ロパーヒン  外は十月だってのに、日が照って静かで、夏みたいだな。建築にはもってこいだ。(時計をのぞいて、戸口に)みなさん、注意してください、発車まであと四十七分しかありませんからね! つまり、あと二十分後には駅へ出発ですよ。お急ぎになってください。
(外套姿のトロフィ-モフ、庭から入ってくる)
トロフィーモフ  もう出かける時間のように思うけどな、馬車の支度もできてるし。畜生、僕のオーバーシューズはどこに行っちまったんだろう。なくなっちゃった。(戸口に)アーニャ、僕のオーバーシューズがないんですよ! 見つからないんです!
ロパーヒン  わたしはハリコフへ行く用があってね。君たちと同じ列車で行くよ。冬いっぱいハリコフで過ごすつもりだ。君たちに付きあってすっかり時間つぶしをしちまったし、仕事ができないでまいったよ。仕事なしにはいられない性分でね、この両手をもてあましちまうんだ。なんだかおかしな具合にぶらんぶらんして、他人の腕みたいだ。
トロフィーモフ  今すぐわれわれは出かけるから、あなたはまた自分の有益な仕事にとりかかれますよ。
ロパーヒン 一杯やらない。
トロフィーモフ  やめときましょう。
ロパーヒン  つまり、これからモスクワってわけ?
トロフィーモフ  ええ、みんなを町まで送って、明日モスクワヘね。
ロパーヒン  そう……なに、教授たちは講義をせずに、君がくるのをみんなして待っててくれるさ!
トロフィーモフ  あんたに関係ないですよ。
ロパーヒン いったい何年、大学で勉強してるんだい?
トロフィーモフ  何か、もうちょっと新しいことを考えだしたらどうです? そんなのは旧式で、月並みだもの。(オーバーシューズを探す)あのね、僕たちはたぶん二度と会わないだろうから、別れに際して一つだけ忠告させてください、両手を振りまわさないことですね! 手を振りまわすその癖を、やめるんだな。それから、別荘を建てるのにしても、別荘人種がゆくゆくは独立した農場主になるだろうなんて計算をする……そんな計算をすることも、つまり、腕を振りまわすのと同じことなんだ……それはともかく、僕はやっぱりあんたが好きですよ。あんたは役者みたいに、きゃしゃなやさしい指をしてるし、心もきゃしゃでやさしいんだ……
ロパーヒン  (彼を抱く)さよなら、君。いろいろありかとう。もし必要だったら、旅行の金を持って行けよ。
トロフィーモフ  どうして僕に? 要りませんよ。
ロパーヒン  だって、ないんでしょうが!
トロフィーモフ  ありますよ。ありがとう。翻訳料が入ったんでね。ほら、ここのポケットにね。(心配そうに)オーバーシューズがないんだな!
ワーリヤ  (隣の部屋から)持ってってよ、こんな汚いもの! (ゴムのオーバーシューズを一足、舞台に放りだす)
トロフィーモフ  何を怒ってるのさ、ワーリャ? ふむ……でも、これは僕のじゃないや!
ロパーヒン  この春、千ヘクタールほどケシを播いたらね、それが今や四万ルーブルの純益をあげたんだよ。ケシの花が咲いた時は、実にみごとな眺めだったよ! というわけで、四万ルーブルも稼いだんでね、つまり、余裕があるから、貸してあげようと言うのさ、なにもそう肩肘いからせることはないじゃないか? わたしは百姓だから……ざっくばらんなんだよ。
トロフィーモフ  あんたのお父さんが百姓で、僕の父が薬屋だからといって、そこからはまるきり何の結論も出やしないさ。(ロパーヒン、財布をとりだす)やめなよ、やめ なって……たとえ二十万ルーブルくれたって、受けとらないから。僕は自由な人間なんですよ。だから、あんたたちが、金持も乞食もみんな、高く評価してありがたがっているものなんぞ、僕に対してはこれっぽっちの力もありゃしないんです。空中に漂っている羽毛みたいなもんさ。僕はあなた方なしでやっていけるし、あなたたちの横を素通りできる。僕は強い人間だし、プライドがありますからね。人類は、この地上で可能なかぎりの、最高の真実をめざして、最高の幸福をめざして進んでいるし、僕はその最前列に立っているんですよ!
ロパーヒン  行きつけるかな!
トロフィーモフ  行きつけますとも。(間)自分が行きつくか、でなけりや、行きつく方法をほかの人たちに教えてやりますよ。
(遠くで、木を斧で打つ音がきこえる)
ロパーヒン  じゃ、さよなら、君。もう出かけなけりゃね。われわれはお互いに肩肘いからせているけど、人生は知らん顔してどんどん過ぎ去って行くんだよ。わたしは疲 れも知らずに、永いことぶっつづけに働いていると、考えがすっきりしてきて、自分が何のために存在しているのかが、わたしだってわかるような気になるんだ。それにしても、君、何のためともわからずに存在している人間が、ロシアには実に大勢いるもんだね。まあ、どうせ、問題の循環はそんなことにはないんだ、なんでも、レオニード・アッドレーイチは就職したって話だね。銀行に出て、年六千ルーブルだとかって……ただ、あの人には勤まるまいな, ひどく怠け者だから……
アーニャ  (戸口で)ママの頼みですけど、出かけるまで、庭の木を伐らないで欲しいの。
トロフィーモフ  本当にさ、思いやりが足りないよ……(玄関ホールから退場)
ロパーヒン  すぐに、今すぐそう言います……なんてやつらだ、まったく。(彼につづいて退場)
アーニャ  フィールスを病院へ送ったの?
ヤーシャ  今朝そう言っておきましたから、送ったと考えていいでしょうね、
アーニャ  (広間を通りかかったエピホードフドに)セミョーン・バッテレーイチ、フィールスを病院へ送ったかどうか、確かめてちょうだいな。
ヤーシャ  (気をわるくして)今朝わたしがエゴールに言っときましたよ。なんだって十遍ずつもきかなけりゃならないんです?
エピホードフ  わたしの最終的な意見では、長生きのフィールスももう修繕がききませんね。ご先祖さまのところへ行かにゃなりますまい。わたしとしては、ただ羨ましいかぎりですが。(帽子のボール箱の上にトランクをおいて、つぶしてしまう)ほらね、もちろん、こうなるんだ。ちゃんとわかってましたよ。〔退場〕
ヤーシャ  (嘲笑的に)二十二の不幸もの……
ワーリャ  (ドアの向こうで)フィールスは病院へ送ったの?
アーニャ  送ったんですって。
ワーリヤ  どうして先生あての紹介状を持っていかなかったのかしら?
アーニャ それじゃ、迫いかけて届けなけりゃ……(退場)
ワーリヤ (隣の部屋から)ヤーシャはどこなの? 母さんが来てるって言ってちょうだい。お別れが言いたいんですって。
ヤーシャ  (片手を振る)我慢にも限度かあるぜ、まったく。
(ドゥニャーシャ、終始、荷物のまわりで立ち働いている。今、ヤーシャが一人きりになると、そばに行く)
ドゥニャーシャ  せめて一度くらい、見てくれてもいいじゃないの、ヤーシャ、あなたは行ってしまうんですもの……あたしを棄てて……(泣いて、彼の首に抱きつく)
ヤーシャ  なにも泣くことはないだろう? (シャンパンを飲む)六日後にはまたパリか。明日は特急に乗って、あっという間に一飛びだ。なんだか信じられないくらいだ な。ヴィーヴ・ラ・フランス、さ! ここは性に合わんから、とても暮らせないよ……仕方ないじゃないか。これだけ無知蒙昧を拝まされりゃ、もうたくさんだよ。(シャンパンを飲む)なにも泣くことはないだろ? 身持をよくしていりゃ、今後は泣かずにすむだろうよ。
ドゥニャーシャ  (手鏡をのぞいて、白粉をはたく)パリから手紙をちょうだいね。だって、あたし、あなたを愛してたのよ、ヤーシャ、あんなに愛していたのに! あたし、 気持のやさしい女なのよ、ヤーシャ!
ヤーシャ  人が来るよ。(トランクのわきで忙しそうにし、小声で歌を口ずさむ)
(ラネーフスカヤ、ガーエフ、アーニャ、シャルロッタ登場)
ガーエフ  出かける方がいいね。もう時間もあまりないし。(ヤーシャを見ながら)だれだい、鰊の臭いをさせるのは?
ラネーフスカヤ  十分ほどしたら、馬車に乗りましょう……(部屋を眺めまわす)さよなら、なつかしいお家。年寄りのお影さん。冬が過ぎて、春がやってくると、お前はもういなくなってしまうのね、取りこわされてしまうんだわ、この壁はいろんなことを見てきたのね! (娘に熱烈に接吻する)わたしの大事な子、晴ればれした顔をしているのね、目が二つのダイヤみたいにきらきらしているわ。嬉しいの? とっても?
アーニャ  とっても! 新しい生活がはじまるんですもの、ママ。
ガーエフ  (快活に)ほんとに、こうなってみるとすべて結構だね。桜の園が売られるまでは、わたしたちはみんな気をもんだり、悩んだりしていたものだけど、その後、問題が最終的に決定して、あと戻りできないとわかったら、みんな気持が落ちついて、明るくなったくらいだもの……わたしは銀行の勤め人で、今やいっぱしの金融家だ……黄玉を真ん中にところだよ、それにお前だって、リューパ、なにはともあれ、顔色がよくないよ、それはたしかだ……
ラネーフスカヤ  ええ、神経は楽になったわ、それは本当よ。(帽子と外套を渡される)よく眠れるかい、ヤーシャ、わたしの荷物を運びだしてちょうだい、時間だわ。(アーニャに)アーニャ、じきにまた会えるわね……わたしはパリに行って、ヤロスラーヴリのおばあさまが領地を買い戻すのに送ってくださった例のお金で暮らすわ、おばあさま、万巌ってとこね! そのお金だって永くはもたないでしょうけど。
アーニャ  ママはすぐ帰ってくるんでしょう、じきに……そうよね? あたし、これから準備して、女学校の試験にパスしてみせるわ、そのあとは働いて、ママを助けるの。ねえ、ママ、いっしょにいろんな本を読みましょうね……そうでしょ? (毋の両手に接吻する)秋の夜長に読みましょうよ。たくさん本を読破するのよ、そうすればあたしたちの前に新しい、すばらしい世界が開けてくるわ。…‥(空想する)ママ、帰ってきてね……
ラネーフスカ  帰って来るわ、可愛い子ね。(娘を抱く)
(ロパーヒン登場、シャルロッタ、小声で歌い出す)
ガーエフ  シャルロッタは幸せだね。歌なんぞうたって!
シャルロッタ  (おくろみに包んだ赤ん坊そっくりの包みをかかえて)おう、よし、よし、坊や……(赤ん坊の泣き声がきこえる、オギャア、オギャア!)いい子だから、泣かないのよ、可愛い坊や、(オギャア、オギャア!)可哀そうにね! (包をもとの場所へ放りだす)それじゃ、わたしの勤め口を見つけてくださいな。このままじゃやって行けませんから。
ロパーヒン  見つけますよ、シャルロッタ・イワーノヴナ、ご心配なく。
ガーエフ  みんな、わたしらを棄てて行くんだね、ワーリャも行ってしまうし……わたしたちは急に用なしになっちまったんだ。
シャルロッタ  町に行っても、わたし、住むところもないし。出て行かなければならないし……(歌を口ずさむ)どうだっていいわ……
 (ピーシチン登場)
ロパーヒン  やあ、これは珍しい!
ピーシチク  (息を切らせて)ああ、一息つかせてください……くたくただ……今日は、みなさん……お水をくださいませんか……
ガーエフ  金を借りにきたんだな、きっと。冗談じゃないよ、災難は逃げるにしかずだ……(退場)
ピーシチク  すっかりご無沙汰してしまって……奥さん……(口パーヒンに)君も来てたのか……あえて嬉しいよ……知恵の塊のような人物にね……さ、これ……取ってくれたまえ……(ロパーヒンに金を渡す)四百ルーブルだ……あと八百四十ルーブル借りてるよ……
ロパーヒン  (狐につままれたように肩をすくめる)まるで夢みたいな話だ……どこで手に入れたね?
ピーシチク  まあ待ってくれ……暑くって……めったにないような出来事なんだ。わたしのところにイギリス人が来て、土地に何か白粘土とやらを見つけたんだよ……(ラネーフスカヤに)奥さんにも四百ルーブル……すばらしい、美しい奥さん……(金を渡す)残りはあとでまた。(水を飲む)今、汽車の中で若い男が話してたんだけど、なんでもどこかの……偉い哲学者が、屋根からとびおりることをすすめてるそうだね……「とびおりろ!」……万事はその一言につきるそうだ。(ふしぎそうに)まさかね、そんな! 水をください!
ロパーヒン  なんだい、そのイギリス人とやらは?
ピーシチク  その連中に粘土の出る一画を向う二十四年間貸したんだよ、わるいけど今は時間がないんだ……これから馬車でとびまわらにゃならないんでね……ズノイコフのとこや……カルグーモノフのところへ行くんだよ……みんなに借金してるもんだから……(水を飲む)お達者でどうぞ……木曜日に寄らせていただきます……
ラネーフスカヤ  わたしたち、今から町に移って、わたしは明日外国へ行くんですの……
ピーシチク  なんですって? (心配そうに)なぜ町へなんか? それで、家具だの……トランクだのが……なに、大丈夫ですよ……(涙声で)大丈夫ですとも……たいした賢い連中ですな……あのイギリス人てのは……なに、大丈夫ですよ……どうかお幸せで……神さまがお助けくださいますとも……大丈夫ですよ……この世のものにはすべて終りがあるもんです……(ラネーフスカヤの手に接吻する)もし、このわたしに終りが訪れたという噂でもお耳に達したら、どうか、この馬めを思いだして、「そう言えば、シメオーノフ・ビーシチクとか何とかいう男が、この世にいたっけ……安らかに眠りたまえと、おっしゃってください……実にすばらしい天気ですね……ええ……(ひどく動転して退場しかけるが、すぐに戻ってきて、戸口で言う)ダーシェニカがよろしくとのことでした! (退場)
ラネーフスカヤ  これでもう出かけられるわね。出かけるにあたって、わたし、二つ、気がかりなことがあるのよ。一つは病気のフィールスのこと。(時計をのぞいて)あと五分くらい大丈夫ね……
アーニャ  フィ‐ルスはもう病院へ送ったわ、ママ。ヤーシャが朝のうちに送ってくれたの。
ラネーフスカヤ  もう一つ、気の重いのは、ワーリヤのことだわ。あの子は早起きして働くのに慣れてしまっているから、これから仕事がないと、水をはなれた魚みたいになってしまうわ。痩せて、顔色もわるくなったし、泣いているもの、可哀そうに……(間)あなただって、それはよくわかってらっしゃるでしょう、エルモライ・アレクセーイチ。わたし……あの子をあなたに上げるのが夢だったのよ、それに、あらゆる点からみて、あなたももらってくれそうでしたもの。(アーニャに耳打ちする。アーニヤはシャルロッタにうなずき、二人とも退場)あの子はあなたを愛してますし、あなただってあの子を気に入ってるというのに、わからないわ、いったいどうして、まるでお互いに避け合うみたいにしているのか、わたしにはわからない。わからないわ!
ロパーヒン  わたし自身にもわからないんですよ、正直のところ。なにか、すべてがおかしな具合になっちまって……まだ時間があるようでしたら、わたしの方は今すぐにだっていいくらいです……ひと思いに決着をつけて、めでたし、めでたしといきましょうか。奥さまがおられなくなると、わたしはプロポーズしそうもない感じですから。
ラネーフスカヤ  それなら結構だわ。だってたった一分あればいいことですもの。今すぐあの子を呼ぶわ……
ロパーヒン  ちょうどシャンパンもあることですしね。(グラスを眺めて)空っぽだ、だれかがもう飲んじまった。(ヤーシャ、咳払いする)こういうのをラッパ飲みっていうんだ。
ラネーフスカヤ   (生きいきして)よかった。わたしたち、席をはずすわね……ヤーシャ、お行き! あの子を呼ぶわ……・‥(戸口から)ワーリヤ、そこは放つといて、こっちへいらっしゃい。早く! (ヤーシャと退場〕
ロパーヒン  (時計をちらと見て)そうだな……〔間〕
 (ドアの向うで押し殺した笑い声やささやきがきこえ、やがてワーリャが入ってくる)
ワーリヤ  (永いこと荷物を点検している)おかしいわ、どうしても見つからない……
ロパーヒン  何を探してらっしゃるんです?
ワーリヤ  自分でしまったのに、思いだせないなんて。(問)……
ロパーヒン  あなたはこれからどこへ行かれます、ワルワーラ・ミハイロヴナ?
ワーリヤ  あたし? ラグーリンさんのお家に……あちらの家政を見ることに話がきまりましたの……家政婦というのかしら。
ロパーヒン  それじゃ、ヤーシニェヴォ村に? 七十キロくらいありますね。(間)これでこの家の生活も終わりましたね……
ワーリヤ  (荷物を見まわしながら)どこだろう……でなけりゃ、ひょっとして、長持にしまったのかしら……そうですわね、この家の生活も終わりましたわ……もう二度とないんですわね……
ロパーヒン わたしは今からハリコフへ行きます……同じ汽車で。仕事が山ほどあるんですよ。この家にはエピホードフを残しておきます……あの男をやとったもんで。
ワーリヤ  そうですの!
ロパーヒン  去年の今頃は、おぼえておいでですか、もう雪が降ってましたけど、今日は日が照っていて、静かですね。ただ、寒いけど……零下三度くらいでしょうかね。
ワーリヤ  あたし、見ませんでしたわ。(間)それに、うちの寒暖計、こわれてますし………(間)
ドアごしに庭からの声  エルモライ・アレクセーイチ! 
ロパーヒン  (まるでずっと以前からこの声を待っていたかのように)今行くよ! (足早に退場)
(ワーリャ、床に坐ったまま、服の包みに顏を伏せて、低い声で泣きじゃくる。ドアが開いて、ラネーフスカヤ、そっと入ってくる)
ラネーフスカヤ  どうなの? (間)出かけなけりゃ。
ワーリヤ  (もう泣いていない。涙をぬぐう)そうね、時間だわ、お毋さま。あたし、今日のうちにラグーリンさんのとこに着くようにします。ただ、汽車に遅れないようにしないと……
ラネーフスカヤ  (戸口に)アーニャ、支度なさい!
(アーニャ、そのあとからガーエフとシャルロッタ登場。ガーエフは防寒頭巾のついた暖かい外套を着ている。召使たちが集まってくる。荷物のわきでエピホードフが忙しけに立ち働く)
ネーフスカヤ  これでいよいよ出発できるわ。
アーニャ  (嬉しそうに)出発ね!
ガーエフ  諸君、親愛なる、なつかしい友人諸君! この家と永遠に別れるにあたって、沈黙しておられましょうか。現在わたしの全身全霊をみたしているこの感情を、別れにあたって吐露せずにおられましょうか……
アーニャ  (哀願するように)伯父さん!
ワーリヤ  伯父さん、やめてよ!
ガーエフ  (しょげて)ワン・クッションで黄玉を真ん中へ、か……黙りますよ……
(トロフィーモフ、さらにロパーヒン登場)
トロフィーモフ  どうしました、みなさん、もう出かけなけりゃ!
ロパーヒン  エピホードフ、俺の外套!
ラネーフスカヤ  あと一分だけ坐るわね。まるで、この家の壁や天井がどんなだったか、今まで一度も見たことがなかったみたいに、今頃になってわたし、やさしい愛情をこめて、夢中になって眺めるのよ……
ガーエフ  思いだすよな。わたしが六つの時、聖霊降臨祭の日に、この出窓に坐って、お父さんが教会に行くのを眺めたもんだっけ……
ラネーフスカヤ  荷物は全部運んだの?
ロバーヒン  全部のようですね。(外套を着ながら、エピホードフに)いいな、エピホードフ、万事遺漏はないように気をつけろよ。
エピホードフ  (しゃがれ声で)ご安心くださいまし、エルモライ・アレクセーイチ!
ロパーヒン  なんでそんな声をしてるんだ?
エピホードフ  今、水を飲んだら、何か呑みこんでしまったんで。
ヤーシャ  (軽蔑をこめて)無知蒙昧……
ラネーフスカヤ  わたしたちが行ってしまうと、ここには一人もいなくなってしまうのね……
ロパーヒン  春までずっとね。
ワーリャ  (包みから日傘を引きぬく、まるで傘を振りあげるような恰好になる。ロパーヒン、おびえたふりをする)あら、そんな、なにも……あたし、そんなつもりじゃ。
トロフィ-モフ  さ、行って馬車に乗りましょう、みなさん……もう時間です、もうすぐ汽車が着きますよ!
ワーリャ  ペーチャ、あったわ、あなたのオーバージューズ、トラックのわきに、(涙をうかべて)ずいぶん古ぼけて、汚いのね……
トロフィ―モフ  (オーバーシューズをはきながら)行きましょう、みなさん!
ガーエフ  (ひどく心乱れて、泣きだすのを恐れている)汽車……駅か……ひねって真ん中へ、ワン・クッションで白玉をコーナーへか……
ラネーフスカヤ  行きましょう!
ロパーヒン  みんな、ここですね? 向こうにはだれもいませんね? (左手わきのドアに錠をおろす)ここには荷物がまとめてあるから、鍵をかけときませんとね。行きましょう!
アーニャ  さようなら、あたしたちのお家! 古い生活よ、さようなら!
トロフィーモフ 今日は、新しい生活!………(アーニャと退場)
(ワーリャ、部屋をひとわたり見まわして、ゆっくり退場、ヤーシャと、小犬を連れたシャルロッタ退場)
ロパーヒン  それじゃ、春まで。出てください、みなさん……さようなら!(退場)
(ラネーフスカヤとガーエフ、二人だけ残る。二人はまるでそれを待っていたかのように、互いに相手の首に抱きつき、人にきかれはせぬかと案じながら、抑えて、低い声でむせび泣く)
ガーエフ  (絶望しきって)妹、わたしの妹……
ラネーフスカヤ  ああ、なつかしい、やさしい、美しいわたしの桜の園、わたしの生活も、わたしの青春も、わたしの幸福も、さようなら! さようなら!
アーニヤの声  (明るく、よびかけるように)ママ!
トロフィーモフの声  (明るく、はりきって)ヤッホー!
ラネーフスカヤ  見おさめにもう一度、壁や窓を眺めとくわ……亡くなったお毋さまは、この部屋を歩くのがお好きだったわね……
ガーエフ  ああ、妹、わたしの妹!
アーニャの声  ママ!
トロフィーモフの声  ヤッホー!
ラネーフスカヤ  今行くわ!………(二人選場)
(舞台は空っぽ。すべてのドアに鍵をおろす音がして、やがて数台の馬車が出て行くのがきこえる。静けさの中に、木を切り倒す斧のにぶい音が、単調に、もの悲しくひびきわたる)
(足音がきこえる。右手の戸口からフィールスが現われる。いつものように、背広に白いチョッキ姿。上靴をはいている。見るからに病人)
フィールス  (ドアのところに行き、ノブにさわってみて)鍵がかかってら。行ってしまった……(ソファに腰をおろす) わたしのことなんぞ忘れて……なに、いいさ……しばらく坐っていよう……レオニード・アンドレーイチは、きっと、毛皮外套を召さずに、ただの外套でいらしっただろうな……(気がかりそうに溜息をつく)わたしが見てさしあげなかったから……いつまでもお若いつもりで! (何やら呟くが、わからない)まるでこの世に生きていなかったみたいに、一生が過ぎちまった……(横になる)ちょっと横になろう……まるで力がなくなって、もぬけの殻だ。何もありゃしない……この……ドジ! (身じろぎせず横たわる)
(まるで空からひびくような、遠くはなれた物音がする。弦の切れた、悲しげな音で、しだいに消えてゆく。静けさが訪れる。遠く庭の奧で、木を斧で伐り倒す音だけがきこえてくる)

 


原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。
 
原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

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