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開拓っていうやつは人の心も狂わせる 菅原千恵子

 小規模な開拓農民の集団から始まった父たちの組合は、釣り上げられた単価の前ではただ黙るしかない。大手の会社と同じ額を出しましょうとは決して言えないのだ。私が父に連れられ一緒に酪農指導のために行った晩秋の祭日の部落でのことが忘れられない。初めはなごやかな話し合いで始まった集会が、何かの拍子に、若い男性の発言から、大手の会社に移る移らないという話になって、会場が大混乱となったのだ。
「おれ達の暮らしも厳しいんだっちゃ。その辺のところ考えてくれてもいいんでねすか。もう少し単価を上げてくれればいいんだでば。他の野菜の収穫もうまぐねんだおんや。せめて、G乳業ぐらい貰えればどおもってんでがす」

「うちは会社じゃないんだ。みんなでやってゆく組合なんだから、比較はできないと思うのです。確かにG乳業は今は大きな金額でみんなを引きつけているかも知れないけれど、いったんその傘の下に入ってしまえば、いかなる無理難題にでも応えて行かなければならなくなってしまうことも考えて、決断してください。それぞれの生活がかかっていることですから私は、G乳業に移るなとは言いません」
 父の口調はあくまでも穏やかだったが、ものすごく苦しい立場にいることが肌で伝わってくる。足を棒のようにして歩き、説得して組合員になってもらった人達が大手の乳業会社に移ろうとしているのだ。時間と労力をかけたここ数年が、丸ごと消えてゆくような空しさを感じていたに違いない。そのとき部落一番の長老が怒鳴るように立ち上がっていった。深く刻まれた皺が、長年の苦労を物語っている。
「そんたにGさ行きでんだらば、おめんどこ一人で行げちゃや。おれは移つんねぞ。こうして足ば運んでいろいろ話ば聞かせでもらって、やっと俺だじもいっぱしの酪農家になったんでねえのが。そいず、後ろ足で砂かげるようにして、良いどこ取するなんて、俺には出来ねごった」
 
 この老人の発言からまわりにいた人達が口々に賛成だ、反対だといいだして、急に騒がしくなった。父がそこに割り込んで話をすると、騒ぎが少し静まった。
「我々がなぜ組合を組織しているかといえば、それぞれの意見が反映されやすいようにということからです。乳価をもう少し上げたければ、どうすれば増産に結びつけて、利益を上げられるのかとか、すべて自分たちの考えや理想を実現するためなのです。組合長さんだって、皆さんの代表者がなっているでしょう。会社と違う一番の大きな特徴がそれです。会社という利潤追求の組織の言いなりになってやって行くか、それとも自分たちが参加して作り上げてやって行くのかは、大きな分れ道じゃないでしょうか」
 みんなが父の意見にうなづいている。
 
「部落ごとみんな一緒にうつんねごったらば、Gに移っても意味ねえな。おれは、みんなの暮らし向きが少しでもよくなったかと思って悪い役回りで言い出したんだっちゃ。なにも菅原さんに恨みあるわげでねえよ」
 父は、うなづいて笑っている。危機を脱したというような安堵感がにじんでいた。帰りの自動車に乗り込むなり、私はすぐ思っていたことをいった。
「お父さん、良かったねえ、どうなることかと思ってドキドキしたよ。お父さんもそうだったでしょう」
「ああ、びっくりしたよ。今日は何とか免れたけれど、これからも厳しいぞ。大体冬が近くなると、みんな乳価の高いところに心が動かされやすいんだ。酪農家は、出稼ぎに行くわけには行かないんでね。毎日毎日牛の世話をしなければならないんで、出稼ぎ農家のように農閑期に大きな現金収入が見込めないんだよ」
 
 確かに、東北の農民は、売手市場といわれ、東京オリンピックが四年後に迫ってきており、東京ではどれだけでも人手が必要だった。しかも都会に出れば仕事にあぶれるということがない。どんな仕事をしても大きな現金を手にすることができる。自分の家には老いた父母と奥さんと子供を残して、春の農作業ができる頃まで働いて帰るのが、当たり前になりつつあった。同じ部落の中でも酪農をしている者と、農業だけでいる者とがいて、大きなまとまった現金を手にして故郷に錦を飾るような風潮の中で、身動き取れない酪農家が心動かされないわけはないのだった。
 
 父はそうしたことを私に説明しながらも、それでもなんとか引き抜きを阻止しなければならないのだと繰り返し聞かせてくれた。すり減った父の靴を磨くのは私の役目だったが、それを見る度に、山路やぬかるんだ道を歩いて父が働いているのを私は想像した。舗装さえまだ完全にできていない道は、自動車に乗っていても激しく揺れて乗っているだけでつかれることを私は知っていたし、暑い夏も、暑い暑いと言おうものなら、母が 「暑くてもお父さんは仕事にいってるんだから、何もしていないあんたがそんなこという権利はないからね」と、私をぴしっと叱る。その度に、私は二回だけしかついて行ったことのない父の仕事を思い返して、後ろめたくなるのだった。あえぐようにして登って行く山路や、どんな人も父の理解者とはいえない中で、誠心誠意納得してもらうように説明していた父の横顔が浮かんできたりする。私のように年端のいかぬ娘にまで、自分の心のうちを語ることがあって、多分そんなとき、父は苦しかったに違いない。

 
「まったく、開拓という奴は、人間の心も狂わせることがあるんだ。人間は、環境を選んで生きて行かなくちゃならないよ。東大を卒業して、何かをやってやろうと情熱を持ってやってきた若者でも、農民たちの閉鎖的で、長い物に巻かれろしきの環境の中にいると、いつのまにか、周りの農民とまったく変わらなくなっていることがあるんだ。そんな時ほどがっかりさせられることはないな。べ河かをやってくれそうに思えた人がだよ、ただの農家のおつあんになってしまっていくんだよ。もちろん、どんな環境の中にあっても、それを糧として大きく伸びて行く人もたまにはいるが、大方はつぶれるね。それほど環境とは恐いものなのだよ。ちいちゃんも、より良い環境を選んで生きていくようにしないとつまらない人生を送ることになるんだからね」
 
 父のこのことばは、強烈に私の心に残っている。父の理想や考えをその通りだと賛成し、みんなにも伝えてくれる人がいると思い、父自身も惚れこみ信じた人が、十年ほどたって行ってみると、農村特有の保守性に全身どっぷりと染まって改革どころか狭い小さな世界に安住して、どっかりと居座っている姿を、父はこれまで何例も見てきたのだ。そのたびに、裏切られたような気持ちにさせられ、何度失望の底にたたき落とされたことだろう。だから、これは父自身の骨身にしみた体験から出たことばなのだと、私には容易に想像がついたのだ。
 
 父の必死の努力の甲斐もなく、こうした牛乳が、他の正常な牛乳に交じって供出されることなんて、決して無くならないばかりか集荷が増えるのと比例するようにむしろ多くなってきていた。ほんの少しなら分からないだろうというような考えで出してしまう不心得者は必ずいるのだ。その度に父は、出かけていって原因を作った牛はどこの牛かを捜し、この牛の病気はなになのかをつきとめ、対策を考え指示を出さなければならなかった。
 
 こうした事件が重なると早まって民間に転職したことを父は嘆き、飲めもしないお酒などを飲んでいる父を私たち家族は何度か目にしている。父は、自分一人が家族を背負わなければならないものと思い込み、孤軍奮闘をしていたとしか思われない。その陰には、母を働かせないということが男の甲斐性と信じる時代があり、その教育を受けて育ってきた男たちの悲哀があったとおもう。父の口癖は「俺が病気でもしようものなら一家を路頭に迷わせることになる」というものだった。まじめであればあるほどその責任を果たさねばという強い重圧が父の肩にかかっていたのだ。私たちはまだ仕事に就いていたわけでもなく父の収入の配下にあり、家事をとどこうりなくやる以外何もできそうもない母を見ていては、確かに父が病気にでもなったりしようものなら、どうして生きて行けばよいか見当もっかず、経済状態というものに関しては父と同様大きな不安を抱えていたといってもあながち嘘ではない。
 
 私が高校生になって、「月と六ペンス」という、サマセットモームの小説を読んだとき、忘れられないカ所があって、私はそこを何度も読み返したことがある。それは、男が銀行を辞めて絵を描きたいと思いながら、自分がいなくなったら家族は、どうしたらよいか分からなくなり困るだろうと思って、なかなか言い出せずにいたが、止むに止まれず家を飛び出してみると、妻も家族もそれなりに、何とかやっていたというところである。窮地に立たされれば、人はそこから脱出する術を生まれながらに身に付けているのかも知れない。
 それは自分が必要とされていたいという願望なのか、あるいは家族の本当の力を低く評価していてのことなのか、大黒柱と自称思い込んでいる父親たちは、その辺の認識が不足していて甘いように思う。人はもっと柔軟で、生きて行くことにしたたかなものだと思う。
 
「月と六ペンス」は、私にそんなことを考えさせてくれた本だった。しかしそう思ったのは高校に入った後のことであり、まだ小学生だったこの頃は、父が嘆くと家族中で心が沈み未来が暗く感じられたものである。父は死ぬまで母を自分がいなければ何もできないと思い込み、私たちにくれぐれも頼むと言って亡くなったが、父が亡くなって五年を過ぎると、母は見事に自分の足で歩き出した。父は母を強い愛情で縛っていた。それは、父にとっては母を心配するのは当たり前のことであり、自分が手取り足とりして教えてやらなければならない存在として母があったからだ。

 娘のお産扱いに行くからというので一人で旅行しなければならなかったとき、とても心配なため父は、すべて亊細かに駅と乗り換える電車の時刻、電車の名前、ホームを書いた紙を渡し、何一つ母が考えたり迷ったりすることが無いように取り揃えないではいられなかった。母は、その通りに動きさえすればいいのだった。また、デパートで何か買い物をして届けてもらおうとするときにも、簡単な地図を描いてくださいと言われたときのためにと、コピーなど無い時代に複写機で作った紫色の地図を何枚も作り母に渡していた。母は、それを店員さんに渡すだけで良かったのだ。
 
 父が亡くなったとき、こんなふうな姿しか知らない私たち姉妹は、これから母が一人で暮らして行けるものかとどれほど心配したことだろう。五年間は、一人になった寂しさから泣いて暮らしていたようだが、一人になれば何もかも自分が決定し、自分でやるしかない。私たち娘は、三人とも遠く離れた場所、それも最低でも電車で五、六時間はかかる遠方で暮らしているのだから、電話をしても明日来てくれるというわけには行かないことを母が一番よく知っている。母は、多分この時を境に生まれて初めて自立したのだと思う。これまでやりたくてもできなかった趣味を習い始め、ぐんぐん自分の思い通りの生活をスタートさせた。
 
 母がこんなにもアクティブな人だとは、娘たち三人ともまったく知らなかったことである。毎日一緒に暮らしていたときには、その片鱗さえ見せなかったものが、家族がそれぞれ独立して行き、一人になったときを境に、今まで見えなかった母自身の本来持っていた能力が発揮されたということは、皮肉というより他にない。いや、皮肉というより、家族が(父が)逆に、愛情という名のもとに彼女の能力を阻んでいたといえるのかも知れない。母が何もできないのではなくて、何もする必要が無かっただけなのだということに、私たちが気づいた頃、母もまた父のいる遠い世界へと旅立っていったのだ。
 こうした体験をしてしまうと、「月と六ペンス」がいよいよ鮮やかに胸に迫ってくる。誰でも、人はたった一人になっても何とか生きて行けるものなのだ。誰かがいなければ生きて行けないということはおそらく有り得ないだろう。いかなる環境の変化にあっても、しなやかに、したたかに、豪快に生きて行く。それが人というものなのだと私は思っている。



 
 

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