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実朝と公暁  七の章

実朝は殺された。しかし彼の詩魂は、自分は自殺したのだと言うかもしれない。 ──小林秀雄 


 源実朝は健保七年(一二一九年)正月二十七日に鶴岡八幡宮の社頭で暗殺された。この事件の謎は深い。フィクションで歴史を描くことを禁じられている歴史家たちにとっても、この事件はいたく想像力をかきたてられるのか、その謎を暴こうと少ない資料を駆使して推論を組み立てる。しかしそれらの論がさらに謎を深めるといったありさまなのだ。それもこれも、実朝を暗殺した公暁がいかなる人物であったかを照射する歴史資料が無きに等しいところからくる。
 しかし鎌倉幕府の公文書とでもいうべき『吾妻鏡』を、なめるようにあるいは穴の開くほど眺めていると、この公暁がほのかに歴史の闇のなかから姿をみせてくるのだ。というのもこの『吾妻鏡』のなかに「頼家の子善哉(公暁の幼名)鶴岡に詣でる」とか「善哉実朝の猶子となる」といったたった一行のそっけない記事が記されていて、それもすべてを並べたって十行余にすぎないが、しかしそれらの一行一行の奥に隠された公暁の生というものに踏み込んでいくとき、そこから公暁はただならぬ人物となって現れてくるのだ。
 それは歴史学者たちが好んで描く、実朝暗殺は幕府の重臣たちの権力闘争であったとか、北条一族が権力を握るために公暁に暗殺させたとか、公暁が狂乱の果てに起こした刃傷沙汰だったといったことではなく、なにやら公暁なる人物が、主体的意志をもって時代を駆け抜けていった事件、公暁が公暁になるために──すなわち鎌倉に新しい国をつくるために画策した事件であったという像が、ほのかに歴史の底から立ち上ってくるのだ。
 したがってこの謎に包まれた事件に近づいていくには、暗殺の首謀者である公暁を、どれだけ歴史のなかから掘り起こしていくかにある。もし公暁に生命を吹き込むことに成功したとき、私たちははじめてこの歴史の闇のなかにかすかであるが、一条の光を射し込ましたということになるのであろう。

 

七の章

 比叡山延暦寺の怪物性は「平家物語」によく語られているが、また園城寺も延暦寺に劣らぬ怪物性をもった大寺院であった。別名を三井寺とも呼ばれるが、これは天智、天武、持統の三代の天皇が誕生したとき、この寺より産湯の水を召されたことからつけられたとも言われている。そんなことからも、延暦寺が反権力の色彩を濃厚に放つの対して、園城寺はむしろ朝廷の権力と直結した貴族的な寺院だった。しかし貴族的というのは延暦寺に比してであって、高倉の宮がこの園城寺にたてこもり蜂起したとき、園城寺は三千の僧兵を擁して官軍に対峙するのをみたって、園城寺もまた政治的、軍事的権力を擁した怪物的な寺院だった。この時代の寺院とは一つの国家のような機能をもっていたのである。
 この高倉の宮の乱は、清盛を怒らせ重衛に園城寺焼き討ちを命じている。冶承四年(一一八○年)の十二月、重衛が一万余騎を引き連れて進発したが、そのあたりを「平家物語」は三井寺炎上という章をもうけて次のよう記している。

「夜いくさになりて、暗さは暗し、官軍寺に攻め入りて、火を放つ。焼くるところ、本覚院、成喜院、真如院、花園院、大宝院、清瀧院、普賢堂、教待和尚の本坊、ならびに本尊等、八間四面の大講堂、鐘楼、経蔵、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御宝殿、すべて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、並びに智証の渡し給へる一切経七千余巻、仏像二千余体、忽に煙となるこそ悲しいけれ」

 しかし園城寺が焼き討ちにあうのはこれが最初ではなく、それ以前に犬猿の関係にある延暦寺の襲撃を四度も受けているのだ。この園城寺が怪物的なのは、このようにたび重なる焼き討ちにあっても、不死鳥のようにそれ以上の規模をもって再建されていくことだった。
 建保二年(一二一四年)の五月に、園城寺はまたも延暦寺の僧徒たちの襲撃を受けた。大津の祭礼の日の騷乱がさらなる騒乱を招き、ついに延暦寺の僧たちが園城寺を襲うのだが、夜闇にまぎれての数百の武装した僧兵たちの襲撃を防ぎようがなく、院や堂などの建物の大半が炎上した。公暁がこの寺に寄宿してから四年目のことだった。
 すでに少年からきりりとした青年になっていた公暁は、僧たちの武器であった薙刀を手にすると、押し寄せる延暦寺の僧たちの群れに躍りかかり、ばさりばさりと打ち倒していく。ただ者ではないその快刀乱打に、延暦寺の僧たちはあたふたと逃げまどい、公暁が立ち塞がった堂には誰も近づくことはできなかった。
 その翌日、いまだにあちこちで炎上した院や堂がくすぶるなか、公暁は僧たちの前で大演説をぶった。
「聞けば園城寺が延暦寺に襲撃を受けること、五度だというではありませんか、これはいかに園城寺が彼らにこけにされているかのあらわれです、これほどの被害、これほどの屈辱的な襲撃をうけながら、やつらに天誅の反撃を加えないとはいったい何事でありましょうか、やられたらやり返せ、やられたら徹底的にやり返す、これです、この精神こそいま園城寺がもっとも必要とするものです、延暦寺を同じように焼き討ちにして、やつらに園城寺の力を思い知らせるべきなのです」
 と激しい檄をとばすと、もうその日のうちに僧たちを組織して報復の部隊をつくりだしていた。しかしそんなことを園城寺の別当長顕が許すわけはなかった。長顕は公暁を呼びつけると、
「そなたを鎌倉から預ったのは、そのような騒乱を起こしてもらうためではない、そなたがここで修行するのは、ただひたすら仏の道に入るためなのだよ」
 と諭した。公暁は長顕を深く尊敬していたが、このときは強い反抗の視線を向ける。そんな公暁に、長顕はさらにきっぱりと言い渡した。
「いま園城寺はざわついている、そなたのはげしい性格をいたずらに荒だてるばかりだ、このままでは大きな過ちを犯す、そなたを誤った道に追い込んでは、鎌倉に申しわけがたたない、そこで、そなたを大学寮に入れることにした、かねてから藤原卿にその手続きを頼んでいたが、身一つで寮に入ればよいことになった、しばし学業なるものと向き合って、歴史の流れに思いをはせ、新しい公暁をつくりだす時間をもたれよ」
 かつての大学寮は、下級貴族の子弟のための官僚養成の学校であったが、最近は大納言や大臣の子息も競って入ってくるようになっていた。政権を鎌倉に奪われた朝廷は、世襲によって降ってくる地位だけにすがって生きることができなくなっていたのである。
 長顕は公暁をこの学寮に入れて、明経道や文章道を学ばせようとしたのだが、公暁の学業生活が続いたのはわずか半年足らずだった。同じ寮に寄宿する公家の子弟たちと派手な立ち回りを演じてしまった。一人の腕を叩き折り、もう一人の鼻を潰し、さらにもう一人を井戸に投げ込むという沙汰だった。
 大学寮はこの事件をどのように決着するかに腐心した。通常ならば退寮処分である。しかし公暁は二代将軍の息子であった。退寮処分など下せば幕府を怒らせかねない。どうしたものかと右往左往する大学寮の姿をみかねた公暁は、それならばと自らを退寮処分にして決着させてしまった。たった半年の学寮生活だった。しかしその体験は公暁にとって小さなものではなかった。後に公暁が創設する修学院はこのときの体験から生まれたものだった。
 半年ぶりに園城寺に戻ってみると、あちこちで建設の槌音が響き、以前にも増して寺院全体に燃え立つものがあり活気にあふれていた。園城寺の怪物性はここにあった。寺院が焼き討ちされると、さらなる勢いで大規模な寺院が建立されていくのだ。それは僧たちが樵になり、工人になり、大工となって普請に立ち向かったからであった。園城寺に寄宿する僧は三千人になんなんとした。その三千にものぼる人間に食を供することができたのは、僧たちが開墾者となって山林を切り開き、農夫となって田畑を開墾し米や麦や菜を生産させたからだった。あるいはまた医療を施したり、浮浪する者たちへの炊き出しをしたりとさまざまな社会活動が展開されている。三千もの僧を擁する園城寺の活力がつねに盛んなのは、その運営組織が高度に機能していたからだった。
 その日、公暁が浮浪する者たちへの炊き出しを指揮しているとき、西の院から使いがきて長顕さまがお呼びですと伝えた。長顕の居室に入り対座すると、長顕は思いもかけぬことを切り出してきた。
「本日、鎌倉から文が届いてな、ほれ、これだが、そなたを鎌倉に戻せということだ、鶴岡宮の定暁どのが最近逝去されたが、その後釜にそなたを就かせたいというのだよ、今月中にも迎えの使者を差し向けると書いてある」
長顕はその巻紙を膝の上で広げてあっさりとそう告げたが、公暁は驚きで一瞬声を失つたが、
「鎌倉で、ございますか」
 と鸚鵡返しに問いただした。
「そうだ、鎌倉に戻れということだよ」
「私に鶴岡宮の別当に就けよということですか」
「そうだ、そう書かれてある、実朝さまじきじきのご書状なのだよ、実朝さまがいかにそなたをたよりにしているかのあらわれではないのか、二年ほど前になるな、園城寺再興のお力ぞえを乞うために鎌倉にまいり、実朝さまとお会いしたが、ご気性の真っ直ぐな、どこにも曇りのないお人柄に深く感銘を受けたものだ、このご文面も実朝さまのお人柄が滲み出ている」
「園城寺に参りましてはや七年近い月日が流れました、仏門に入ることは私の意志ではありませんでしたが、先代の長吏さまのお手をわずらわせ、そして長顕さまに導かれて、私は私なりに仏門に入ろうと決意いたしました。しかし仏とは何か、仏道とは何かが、このところさっぱりわからなくなりました、いまなお深い迷いのなかにいます、こんな人間は鎌倉に帰るべきではないと思うばかりです、私はまだ鎌倉に帰る人間にはなっておりません」
「そなたの行動を遠くから見ておったが、つくづくと敬服するばかりであった、日々の勤行に励むだけではなく、庭を掃き、院や堂や長い回廊を拭き、厠まで洗う、そればかりか諸国から流浪してくる僧たち、あるいは浮浪する者たちの身を一心に案じる、そなたの一つ一つの行いを見て、さすが頼朝どのの血をひいたお方だと感嘆するばかりであった、そなたの人格の高さ、何か高みに立たんとするその姿勢は、どのような世界に入っても抜きんでた働きをしていくものと思うばかりだ、そなたは鎌倉に戻っても立派な仕事をなす人物だと思っているよ」
「鶴岡の別当なる仕事もそれなりにこなせましょう、しかし私が知りたいのは仏門とは何かということでございます、いったい仏に仕えるとはどういうことなのでしょうか、私はいまそのことに苦しんでおります、喩えていうならば、女を抱きたいという思いは、体の底から噴き上げてまいります、それはどんな修行をしても、どんなに激しく読経をしても、追い払うことができないように、私のなかに流れている政事の血を消すことができないのです。
 私は頼家の子です、祖父は鎌倉に幕府を打ち立てた人です、父から、さらに祖父から、私のなかにどくどくと政事の血が流れ込んできます、この血をどのようにしたら消し去ることができるのでしょうか、私は最近ある僧から鎌倉の歴史を学びました、この僧の学識まことに深く、しかも幕府の中枢にいた人物であり、数々の事件を熟知している人物でした、その僧から私ははじめて鎌倉の真の歴史というものを知りました。
 それまでただ漠然とした知識でしか捕らえていなかった鎌倉の歴史が、裏切りと謀略と虐殺の歴史であったということを知りました、私の父は湯殿で義時が繰り出した暗殺部隊に惨殺されました、兄もまた炎上する館で惨殺されました、私の弟もこの都で虐殺されました、血で血を洗うばかりの鎌倉の真実を突きつけられた私は、私のなかに流れているのは仏道ではなく政事の血なのだと思うばかりです、ここで私の指を切り落とせばどくどくと政事の血が流れていくでしょう、政事の血が私のなかでうねり逆巻いています、このような私が鎌倉に戻ってよいのでしょうか、私は鎌倉が怖いのです、いまはとても鎌倉に戻っていく強さを持ってはおりません」
 公暁の頬に涙が走る。長顕がはじめて見る公暁の涙だった。痛ましく苦悩する公暁に長顕はまるでその苦悩を包み込むように問いかける。
「実朝さまとは親しく文の交換があるが、いつもその文面に滲み出ているのは実朝さまの深い孤独、深い苦悩というものなのだ、それが文面からあるいは文字の間から滲みでている、いまそなたは鎌倉の歴史とは、裏切りと謀略と虐殺の歴史であったと言った、そなたはそのことを言葉で知っただけだ、しかし実朝さまはその裏切りと謀略と虐殺を眼の前で見られておられたのだ、その絶望の深さ、その苦悩の深さは、そなたが苦悩する比ではない、そうは思わぬか」
「そうかもしれません」
「そなたは私よりもはるかに年少であるが、教えられることが多々あった、京も深く堕落している、寺院も堕落と腐敗のなかにある、そんななか、そなたのひたむきな姿勢は、何か暗い大地に春を告げるような颯爽とした花の匂いがあって、いつも私は洗われるばかりだった、この寺には沢山の人々が救いを求めてやってくる、そなたはそれらの一人一人と誠実に向き合い、自分にできることはないかと奔走する、それこそ仏の道なのだと私は打たれるのだ、そなたは鎌倉に戻っても、かならずや新しい道を切り開いていくのだろう、実朝さまの孤独はかぎりなく深い、そなたのような人格が傍らにいたら実朝さまはどんなに救われるだろうか」
 あくまでもやさしく問いかける長顕の言葉に公暁はさらに涙を流すのだ。
「迎えの使者たちが当地に到着するまでしばらく時間がある、それまでじっくりと考えるがよい、そしてそれでもいまの気持ちが変わらぬとしたら、私はその使者たちをそのままお帰しすることにする、実朝さまはお嘆きになるだろうがそなたの人生だ、そなたはそなたが選ぶ道を歩めばよいのだ」
 その日から数日後、公暁は観明と呼ばれる僧を北の堂に連れ出した。
「何でございますか、かような所で」
「そこに座って下さい」
 板間にその僧を座らせ、彼の前に公暁も座した。そして懐に呑みこんでいた小刀を取り出すと二人の間に置いた。観明の顔が引きつっていった。
「何をなさるのですか」
「私はこの数日、迷いに迷いました、いまでも迷いのなかにいます、しかし明日にも鎌倉から私を迎えるための使者がこの地にやってまいります、迷いを断ち切らねばならぬときがきました、私はいまその迷いを断ち切るために、一つの決断をしようと思ったのです、あなたを斬るか、斬らないかによって」
「何のことでしょうか」
公暁は小刀を手にしてその鞘をさっと払った。白い刃が血を求めて鈍く光る。
「あなたの本当の仕事は私の監視でしたね、私がどのような生活をしているのか、どのような人間たちと交わり、どのような企みをもって生きているのか、それらのことを子細に書き連ねて義時の手元に送る、それがこの園城寺でのあなたの仕事でありましたね」
「何を言われているのかわかりません」
「抗弁することはありません、私は以前からあなたの正体を見抜いていましたよ、あなたの本名は天野重時であり、北条義時の家臣であり、政所から派遣された諜者であることをね」
 男の唇が色を失っていく。男の眼の奥に恐怖が広がっていくのがわかる。
「しかし、最近一つの奇怪な事件が起きて、あなたがわからなくなりました、そのことを私に教えてくれませんか」
「どのようなことを?」
「裏山にある草思堂で、道忠という僧が額を貫かれ、その傍らにもう一人の僧が首を落されて横たわっていました、それはあなたたちがなした仕業だったのでしょうか」
「知りません、そのようなことを存じません」
 天野は激しく首を振った。その様子は明らかに関知していないことを思わせた。草思堂の惨劇に遭遇したとき公暁はすぐに天野を思い、この天野の筋から繰り出された部隊によって誅殺されたと思ったものだ。しかし冷静に思案してみるとどうも奇妙だった。もし天野が公暁と道忠との密会を探知して、その子細を義時に通報したならば、義時は間違いなく六波羅に公暁もろとも殺戮せよと指令するに違いない。それがいままでの義時のやり方だった。殺されたのは道忠とその仲間と思われる僧だけだった。いったいこれはどういうことなのだ。思案すればするほどそれが謎だったのだ。
「あなたは何も知らないのですか」
 と公暁はもう一度尋ねた。
「知りません、私には存ぜぬことです」
「よくわかった、それで一つの謎が解明された、道忠らを暗殺したのは義時の筋ではなかったことが」
 公暁の言葉づかいが一変した。公暁は年下の人物に対したときも敬語を使ってきた。将軍の子息だということを肉体から消すために、それも修行の一つだと思っていたのである。しかしこのときから言葉づかいを変えた。二代将軍頼家の子息であることを決意したのだ。
「ではあなたに最後の仕事をしてもらおう、悩みに悩んだ公暁の決断を義時に伝える最後の仕事だ、今回は巻紙に文をしたためる必要はない、あなたの霊魂に次のような文を刻み込んで義時のもとに送るのだ、公暁は鎌倉に戻る、公暁は義時の姦計に陥るような男ではない、首を洗って待っていなければならぬのは義時だ、と」
 驚愕で顔を引きつらせた天野は、ずるずると壁際まで引き下がった。その天野の額に公暁は激しく刃を突き立てた。頭部をぶすりと貫いた刃はがっしと音をたてて背後の板壁に突き刺さった。


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