見出し画像

農民詩人、有機農業の先駆者、星寛治さん死去

    7日に88歳で亡くなった山形県高畠町の星寛治さんは、有機農業の先駆者として知られ、詩人や教育者として活躍した。生まれ故郷の東北の地を耕しながら、農業の未来を考え、人間の生き方や社会のあり方を発信し続けた。
 有機農業の草分け的な存在だった。1935年、奥羽山脈の山すそにある高畠町で農家の長男として生まれ、米沢西高(現・米沢興譲館高)卒業後、大学には進学せず家業を継いだ。
 化学肥料で育てたリンゴの木が病気で全滅してしまったことが農法の転換を考えるきっかけとなった。73年に地元の若手農家らとともに「高畠町有機農業研究会」を立ち上げ、農薬や化学肥料に頼らない農法に地域ぐるみで取り組んだ。生産者が消費者に直接、野菜や果物を販売する「産直連携」という流通形態にも早くから取り組んだ。(毎日新聞)

「まほろばの里農学校」開校のスピーチ

 農がつくる風景  星寛治

 テーマを「農がつくる風景」とさせていただきました。みなさん、初めて高畠においでになって、高畠の土を踏まれて、とりわけ自然の風景、言わば、農村景観の中に立たれてどういう印象をお持ちでしょうか。私たちが自然風景とか景観と言う場合に、いわゆる手つかずの自然と言いますか、純自然あるいはスケールの大きい大自然、そういうものと、それからここの我々が今暮らしている農村の人手をかけた自然、農的な自然と言いましょうか、それは人為と自然の結合によってつくられ整えられた風景ですが、そういうものに区別されるのではないかなと思います。もう一つあえて付け加えさせていただければ、そこで暮らしている人々の暮らしの型、いわゆる生活風景のようなものが絡み合って、ここの地域の顔を作り出しているのではないかと思っています。
 
 1 自然風土と景観

 五月の中旬に白神山地に初めて参りました。ちょうどブナ原生林の新緑の盛り、あふれるような緑と光の中で、しばらくの時間を過ごしたわけです。一時間以上も原生林の中、急な斜面を落ち葉を踏んで登ったのですが、疲れるどころか、何か身体の底から元気がわいてくるような、そういう思いにかられました。おそらくは古木が吐き出すエネルギーが、目に見えない形で我々の身体に響き合って、人間のエネルギーを引き出すのだと思います。言わば、植物と人間の命の共鳴みたいなものでね。私のうちの前にも三百年ぐらいのブナの巨木が一本あります。そのそばにヒバの木が並んで立っている。この辺の植生からいって、何百年か前に先祖が植えたものだと思います。それが営々として命を保って、言わばうちの守り神のような存在で、今でも旺盛に枝葉を繁らせています。

 でも、うちのブナを見慣れた目でもって、白神のまったくの手つかずの原生林の中に入ると、全然雰囲気が違うのです。樹齢が四百年とか五百年とか言われる巨木だけが一定の間隔で立っているのかと思いましたら、そうではなくて、もう完全に生涯を終えて立ったまま枯れているのもありましたし、あるいは巨木のそばには、人間で言えば、壮年の七、八十年とか百年という樹齢の木も生えていて、さらには若い青年とか子どもの木も見事に共生している、非常に多世代が同居している原生林なのです。ブナの実がこぼれて、芽を出して、実生がだんだん大きくなっていく、その過程が同じ所にちゃんと見ることができる、そういう世界でした。

 四百年も経った巨木の上の方を見上げて見ると、かなり太い枝の木の肌がものすごく若いので、驚きました。まさに青年の肌を持っている枝だなと感動しました。それがついに生涯を終えるときには、自分が生存中に全部蓄えた遺産のようなもの、身体のエキス、命のエキスみたいなものをサルノコシカケというキノコの中に全部凝縮して、倒れていくという、そういう繰り返しなのです。

 尾瀬に行ったときも同じような感動を味わいました。不思議に尾瀬の原生林はいろいろな樹種が混在している原生林であります。特に針葉樹のヒバとかアスナロあたりがちゃんとブナの林の中に所々に自生して、大木になっているのです。ところが、白神においてはまったくブナだけの原生林であります。そのへんのところが微妙に違っているのかなと思いました。是非、世界遺産の白神においでになってみてください。いろんなヒントを得られるのではないかと思います。

 2 田園景観の意味

 そういう大自然と農的な自然とは、自然ということにおいては同じなのでしょうが、農業がつくり出す景観は人の手で丁寧にていねいに、長い歳月にわたってつくり上げてきた自然なのです。ですから、その表情というものは柔らかく整えられたものだと思います。とりわけ、田園景観と言われるものの意義をもう一度考えてみたいのですが、それは人と自然の共生する空間であるわけです。そこには生活、自然と融合するような形で営まれている人々の暮らしがあるのです。そういう日本の農村の原風景みたいなもの、昔私たちが少年少女であった頃の童謡・唱歌に歌われていたような風景、ふるさとの風景というものが、ずいぶん今は壊れて失われておりますけれども、守っていきたいものだなという気持ちがこの頃年々強まっております。そういう問題意識は私だけでなく、日本人の多くの人々の胸に今高鳴っているのではないかと思います。

 日本列島は南北に長いですから、その気象風土に彩られた固有の風景が存在します。それが連なって日本という国の風土を形成しているのだと思います。そして、よその国の風景と決定的に違うのは、日本の場合は水田に象徴される稲作文化の系譜を受け継いでいるということだと思います。昨日、東京農大学長の進士五十八先生から一冊の本を頂戴いたしました。「市民のための風景読本」というサブタイトルが付いている『風景考』という、写真入りの、風景を考える論文というよりもエッセーを綴ったものです。その中に日本の水田はGartenだ、庭園だと言ったドイツのある教授の話が出てまいります。

 実に丁寧にていねいに田んぼそのものを造営し、そこにまた手塩にかけて稲を育てる。その前提として水をためて、用水路で田んぼに引いてくる。水の管理がしっかり行われているのです。しかも個人の力だけではなくて、その地域とか集落の共同の力によって、それが営まれているところに大変大きな特徴があるのではなかろうかと思われます。日本以外のアジア諸国の水田風景とわが国の風景はずいぶん違うと思います。わが国は東アジアモンスーン地帯の東のはずれに位置して、しかも四季折々の変化が非常に鮮やかな、メリハリのある気象風土が広がっているわけです。

 ジョニー・ハイマスさんというイギリス人の有名な写真家はひたすら日本の農村、とりわけ田んぼの写真を三十年以上撮り続けておられる方です。今回の受講生の監物さんは『栄養と料理』の編集スタッフで、そのカラーエッセイにジョニー・ハイマスさんの写真を使っておられます。そして、一月から十二月までジョニー・ハイマスさんの見事な写真に合わせて、私が下手な文章を書かせてもらっています。稲作の情景などは、日本の農村景観の典型的な部分だと言えると思いますが、監物さんからお伺いしますと、全然農村を訪れたことのない都会の読者の方々が、このシリーズに非常に強い興味と関心を示しておられて、手応えがあるのだそうです。それは私の文章のせいではなくて、ジョニー・ハイマスさんの写真の力だと思っております。

 米沢市から川西町、そこから飯豊町、やや西方の出羽丘陵の麓に近づいた所、あるいは飯豊連峰の清流を田んぼに灌漑して稲作をやっている所には広々とした美田地帯に屋敷林が点在しています。いろいろな木が家の周りに植えられていて、それが百年、二百年と経って鬱蒼と繁っている。場合によっては、柿の木とか栗とか山葡萄とか胡桃とか、いろいろな実のなる木をたくさん植え込んでいる。そういう農村の風景というものが広がっている。例えば富山県の最も美しい散居村の典型と言われている砺波平野。置賜の美田地帯、平野部の散居村も決してそれに劣らない見事な風景だと思います。

 しかし、これは一朝一夕にできあがったのではなくて、今から二百五十年ほど前に、上杉藩の中興の祖と言われた上杉鷹山が、新しい村づくりのなかで、田んぼの水利を確保するための土木工事とか地場整理をしっかりやって、生産を豊かにする手立てをしたというあたりから、今の形が徐々にでき上がってきたのではなかろうかと思います。優れたリーダーの考え方に共鳴し、数え切れない多くの常民、つまり無名の百姓の力、汗と労働力と技がそこに注ぎ込まれて、今のような見事な農村景観をつくりあげてきたのだと思われます。

 3 たかはたの風土性

 私たちの高畠町はどうかと言いますと、そういう典型的な散居村はそんなに見当たりませんが、集落を形成し、その集落には様々な木も草花も植えられて、非常に豊かな表情を見せています。ここはちょうど北緯三十八度線、韓国と北朝鮮を分けている緯度の所に位置しております。地球儀を回してご覧になるとわかりますが、北緯三十八度線というのは世界的にも名だたる果物の宝庫が帯のように点在する緯度だと言われております。中国の西域地方、つまりシルクロードの西の方だとか、あるいはヨーロッパの同じ緯度の所、アメリカ西海岸のカリフォルニアの果物王国とか、そういうのはほぼ三十八度線の帯の上に形成されていると言われています。そして、その最大の特徴は、実にフレーバーの豊かな果実がとれるということなのです。

 先ほど農業委員会の会長が究極のラ・フランスという話をされましたが、ラ・フランスとか、リンゴでもデリシャス系の香りを本命とするような品種は、高畠のしかるべき所でつくった物と、そこからずれた所でつくった物とでは同じ山形県内でも全然違うのです。しかも高畠町でも究極のラ・フランスのつくれる所は限定されています。塾生の中川信行さんが住んでいる飯森、泉岡、相森、三条目、一本柳という高畠の心臓部にあたる土地です。もともと美田地帯で米を作れば十二俵もとれる、粘土質の非常に地味の肥えた所である上に、その土地だけの微妙な気象条件にも恵まれて、しかも昼と夜の温度格差が大きいという好条件の中で生まれてくる果物なのです。

 四季のメリハリが鮮明であると同時に、昼と夜の温度差が大きいというのが大事な条件であります。この置賜盆地は、日本の夏の最高気温を記録している所です。その記録はまだぬりかえられていないそうです。しかし、夕方になると、さっと涼しくなって凌きやすくなるという気象条件なのです。つまり、日中ギラギラした太陽光線を受けて光合成が盛んに行われて、デンプン、糖分が大いに蓄積されますが、関東以西のように夜も熱帯夜のように暑い状態が続きますと、せっかく蓄積されたデンプンが夜消耗されてしまうのです。

 ところが、夜涼しくなると、その消耗がある程度セーブされて糖分が十分に蓄えられたままになるという理屈なのです。ですから、お米にしてもその美田地帯では十二、三俵もとれるような多収穫地帯でありますし、同時にフレーバーの高い、おいしい果物の産地として名を成している、そういう天恵の風土に恵まれていると言ってもいいでしょう。ところが、そこからちょっと離れた亀岡とか中山間地帯の和田にまいりますと、サクランボもあまりうまく作れませんし、ラ・フランスも実はなるのですが、もともとの本場で作るような高い品質の物はどんなに苦労してもできません。つまり、風土の適応性みたいなものに、ものすごく敏感に左右される作物なのです。

 高畠の自然風土というのは、非常に豊かな多様な植生により、長い時間かかって形成されてきたのだと思います。非常に暑い所とか寒い所とか乾燥地帯とかと違って、温順で水分も十分あり、寒暖の差もあるという中で形成される生態系であるわけです。横浜国立大学の生態学の権威者、宮脇昭先生がかつて高畠の植生を丹念に調査されたことがあり、その豊かさに驚かれたようです。そんな条件でありますから、多種類の作物を同じ所で組み合わせてつくるという多品目少量生産、あるいは多種類の複合農業に適する条件をもともと高畠町はもっておったというわけです。それらがもともとあった自然風土に対応した形でつくられた「農的な」自然風土ということになるでしょうか、あるいは農の営みという一つの形を成しているわけです。

 しかし、それだけではなくて、地域風土を考える場合にもう一つ大変大事なのは精神風土なのです。そこに住んでいる人たちがどういう感性と理性をもって、どういう価値観をもって生きているかということです。住民気質(かたぎ)のようなものが大変重要だと思います。上杉藩の城下町である隣の米沢市と比べますと、昔、歴代郷と言われていた、この高畠町の住民の気質というものはかなり違うと私たちは思っています。どちらかと言うと、米沢はかつての武士の気風みたいなものを受け継いで城下町として発展した所でありますから、閉鎖的なところがあるのです。米沢の旧市内の住民だけが町衆、城下衆で、そこから外れた者はみんな田舎者だと考えてきたようなところがあります。今は交流が進んできましたから、それは徐々に和らいできているとは思いますが。

 ところが、高畠町は徳川三百年の時代を通して、多くは徳川幕府の直轄の領地だったのです。七十年ぐらいの間、上杉藩の預かり領になることもあるのですが、ほとんど三分の二ぐらいは幕府のご領地でした。それゆえ江戸との交流が頻繁に行われて、江戸の文化がだいぶ歴代郷(高畠)に入ってきたのです。と同時に、京都とか上方の文化が北回り船で入ってきました。船は日本海を北上して酒田という最上川の河口からさらに最上川をずっと遡って、ついに上流域の高畠町の糠野目という所まで上ってきたのです。帰りには米とか紅花と地域の産物を満載して、また日本海を南下していくという交易の文化がありました。糠野目には港がありました。その時から伝わっている港太鼓というものを、今でも子供たちが受け継いで、時々催しがあるときなど叩いてくれるのです。つまり、開かれた精神風土が歴史の中でつくられてきたということが基盤としてあるわけです。

 一方、米沢藩というのは上杉百二十万石から三十万石ぐらいに減らされて、寒冷地帯の米沢に移って来たのです。百二十万石の大大名の一族郎党を全部引き連れて来た上に、さらに世継ぎの問題で十五万石に減らされる。百二十万石の家臣を十五万石の領地で賄うのですから、藩財政は極度に窮迫する。ですから、上杉鷹山の改革の最大のポイントは徹底した自給自足。武士も半農半士の生活をします。城内の池には鯉を放って冬場の動物蛋白を補うとか、あるいは空き地には至る所に桑の木を植えて蚕を飼い、やがて米沢織という全国的に有名になった織物の産地を形成するという、殖産振興などにも精を出すわけです。住民の暮らしは徹底的に簡素で、しかし、自ら自立するという方向を示したわけなのです。

 そういう上杉藩の預かり領になった場合に、今までの歴代郷に比べたらかなりの重税が課せられたわけです。飢餓が何回も襲ってきますから、来年の種籾もないというときに、歴代郷三十五か村の総百姓のリーダーが集まって共同謀議を重ねました。そして平和的な直訴という手段で、江戸の大見付に窮状を訴えて待遇改善を迫っていくわけです。二井宿村の高梨利右衛門が全責任をもって直訴状を届けて、それは達成されるわけですが、しかし、当時直訴は絶対罷りならぬというご法度でしたから、ご法度を犯した罪人として二井宿村の一の坂という所で一族郎党、乳飲み子に至るまですべて打ち首断罪になりました。その刑場跡が今も残っております。それから二百年以上も経つのに二井宿地区の住民は地域の大恩人として今でもその命日には法要を営んでおりますし、小学生に最も尊敬する人物を挙げなさいと言いますと、半数以上の子どもたちは高梨利右衛門と答えるそうです。ですから、開かれた風土をもちながら、今お話ししたような反骨の気風ももっておったということです。

 4 有機農業が織り成す風景

 開かれた風土の気風はその後も引き継がれました。明治維新後の農業の近代化において、ヨーロッパからホルスタインを導入し酪農を発展させるとか、あるいはブドウとかリンゴとかラ・フランスという果物を、次々と取り寄せて地域に定着させるという、日本でも珍しい先駆けとしての産地を形成してきました。今でもその流れは地域複合の形として脈々として引き継がれております。二井宿や和田を中心に乳牛は今でも二千頭ぐらい飼育されています。

 ブドウは四百ヘクタールぐらい作られていて、デラウェアでは日本一の産地であります。先ほど申し上げたラ・フランス、リンゴ、そしてサクランボ、これは村山や東根、寒河江が県内の主産地ですが、一定の面積で作られています。野菜も二百七十ヘクタールぐらいです。それに広大な山林原野というのが地域の構成です。

 そういう開かれた風土がその後、有機農業の火の手をあげていくという次の時代を見据えた行動に、若い農民たちをかきたてていくということにつながるわけです。戦後、地域民主主義の中核の担い手としての青年団活動、あるいは女性の活動などが盛んに行われていました。その学習と実践の中で新たな価値観を身に帯びた若者たちが、近代化まだ覚めやらぬオイルショック直前の昭和四十七年に、全国で最も早く高畠町有機農業研究会を結成するということにつながっていくわけです。

「おもいでぽろぽろ」のアニメをつくるために、スタジオジブリの高畑勲監督とプロデューサーが取材においでになったことがあります。風景を写真に収められたり、イメージとしてとらえて、それから若者たちと夜を徹して議論をしたり、地酒をくみかわしたりしながら、浮かんできたのが有機農業青年「トシオ」君の物語なのです。そのアニメが一つのブームを呼んだ時代に、残念ながらこの和田にまだホタルは戻って来ていませんでした。

 しかし、上和田有機米生産組合という活動が、今から十七年前に地域ぐるみで展開されるようになって、つまり点から面へと拡がっていって、広いスペースにおいて減農薬の有機栽培が定着するにおよんで、人も何年も何年も年季を積む中でようやくホタルが戻って来たのです。今から数年前から夏の夜空を彩るようになってきました。赤トンボとかクモとかタニシとかドジョウとか、一回絶滅した昆虫類、水生動物はかなり早い段階から蘇ってきておりました。ゲンゴロウとかアメンボとかもそうです。しかし、肝心のホタルが戻って来ないというので、淋しい思いをしておりましたが、ついに上和田の清流からゲンジボタルが戻って来て、やがて下和田辺りにもヘイケボタルが乱舞するという自然が戻って来ました。本当に豊かな生き物の世界が戻って来たというのは、それだけ地域全体の環境のレベルが高まってきたという証なのではないかと思っています。

 考えてみますと、若い農民たちがもう一つの農業を求めて立ち上がってきてから、もう三十年の歳月が流れました。その間、変わり者と言われながら、地べたに足をつけて、這いずるようにしながら、戦い続けてきた十年という創設期があって、それから市民権を得て、二十年、三十年とさらに拡がりをもってきたわけです。最初はわずか三十八名から始まった運動が、上和田有機米が百三十戸ぐらいに一気に構成されて、さらにその他に十ぐらいの様々な環境保全型農業の取り組み集団が誕生しまして、つまり発祥から十年から二十年の間に、数えますと一千戸近い農家が多かれ少なかれ、有機農業あるいは環境保全型農業に取り組むというような姿にまで広まってまいりました。ですから、町は総合計画の中に有機農業を核とした環境保全型農業という太い柱を打ちたてて、町づくりの目標に据えたわけです。「参加・創造・共生」をキャッチフレーズにした第四次高畠町総合計画というのは、二十一世紀を先取りする地域づくりのビジョンとして住民の英知を結集して生まれたものだと思っています。

 有機農業を三十年積み上げて、そういう拡がりを示していく中で、地域の風景がどのように変わったかと言いますと、いろいろな生き物が蘇ってきたことを目に見える形でとらえることができます。小さな生き物たちの楽園のような形に徐々につくられてきたということです。人為的な自然といいながら、本当に人と自然にやさしい農業を地道に続けていくと、そういうところまで到達できるのだなと実践の中から初めて理解しました。

 私たちが目指してきた農業というのは、決して大規模な広大な機械を駆使して展開するモノカルチャーの形ではありません。先ほど申しました地域特性をうまく活かしていろいろな作物を組み合わせや、一定の面積の中に様々な生き物が共存共栄するという、言わば生物の共生の世界を描き出すことだと思っています。ですから、比較的規模は小さくても、手づくりの作品を生み出すクラフトの世界なのです。近代農業、とりわけアメリカやヨーロッパで展開されていく大規模農業が今の工業化した大量生産のスタイルだとするならば、我々が三十年積み上げてきたものは、まさに手工業的なクラフトの営みであると言えるかもしれません。

 大量生産の中で生み出されるものが製品だとするならば、私たちが手塩にかけて育てる物は作品だと思っています。作品にはそれぞれ固有の命みたいなものがあります。例えば米一粒でも自立して自己主張するような、リンゴー個であっても固有の表情をしているような。一つの木になるリンゴはみんな違うのです。五百個あれば五百個ともみんな違う形や色をしている、それが自然の姿なのであって、工業製品のように同じ規格にびしっとはめこまれるものではありません。私たちは作物の元々もっている生命力、それを育む土のもっている生命力に依存しながら育てようとしているわけですから、かなり自然体で成長します。ですから、整った表情には必ずしもなりません。でも、これが本来の姿であると思っています。

 できあがって私たちに恵みを与えてくれる作物が、本当に食べ物としてふさわしい条件をもっているかどうかということが、何より肝心なことだと思います。近代栄養学のモノサシだけでは、推し量れない様々な要素があると思いますが、私は本物の食べ物の条件はかねがね四つあると思っていました。一つは何より安全であること。二つ目は食べておいしいということ。三つ目は栄養価がたっぷり含まれていること。そしてもう一つは新鮮であること。しかし、ここ二、三年これだけでは何か欠けているな、物足りないなと思ってきました。そのもう一つの条件というのが食べ物としての機能性ということだと思い当たりました。その食べ物を食べて体内に取り込むことによって、私たちの命と健康を増進していっている、そういう力です。それがどうしても欠くことのできない条件としてあると思います。三十年も土を培い、そこで育つ作物、あるいはそこからとれる収穫物というのは明らかにこの五つの条件を満たしているものだと私たちは考えています。

 例えば、経済のグローバル化、即ち自由化の中でどんどん外国の物が輸入され、オーガニック食品なども大量に日本の市場をターゲットに入ってきます。しかしちゃんと国際的な認証を受けた、安全生を保証された食べ物であっても、それを取り込んでどうなのかと言いますと、長年食養生の運動に携わっているリーダーの方のお話を伺いますと、もう一つの条件である機能性が非常に弱い、あるいはまったくないということが明らかだと言うのです。ですから、ただ安全でおいしい、栄養価があるというだけでは、本当の食べ物としてまだ足りないということなのではないでしようか。できるだけ「身上不二」と言われるような、その住んでいる地域でとれた物を食材として食卓をつくっていくということが最も望ましいということになるのでしよう。

 もう一つ有機農業の風景として見逃すことができないのが、暮らしのあり方です。自給菜園などがなくなってしまって、非常に淋しい単調な風景に変わった時代があったのですが、今はそれが見事に復活し、何十種類の野菜がどこの畑にも育っている、あるいは完全にすたれてしまった雑穀などもまた蘇ってきている。そういう光景の中から暮らしが質的に豊かになってきたと思います。経済的にはむしろ乏しくなったのかもしれませんが、しかし、中味については大変豊かに高まってきたと思います。手作りの暮らしをみんな楽しむようになってきたということなのではないでしょうか。

 そんなことをやっているうちに、いろいろな方々がこの高畠にやって来られるようになりました。最初は有機生産物という食べ物を通した消費者、提携する消費者の援農とか現地交流とか研修というのが主だったのですが、今から数十年前からは必ずしも物を介在しなくても、例えば大学のゼミのフィールドワークとか、小中高校生の修学旅行とか、本日のまほろばの里農学校のように多くの市民の皆様に参加していただける機会とか、行政関係の方々の現地研修とか、村おこし・町おこしグループとの交流とか、学会とか研究会とかシンポジウムとか、様々な催しなどが年間を通して行われるようになりまして、私たちの村が交流の舞台として生き返ってきたと見えるわけです。農村というのはかつては開ざされた閉鎖的な空間だと思いがちでしたが、開かれた風土をむしろ意図的に活用したことによって頻繁に交流が行われ、こういう純農村、辺鄙な所にいても人と人との温かいつながりとか絆ができあがっていくというところが、最大の成果として挙げられるのでしょう。

 5 現代の桃源郷をイメージする

 私たちは現代の桃源郷のようなものをイメージしてきたわけなのですが、そのルーツとしては今から千五百年前の大詩人、陶淵明の詩に「桃花源の木」という有名な詩があります。あの時代のこの世の桃源郷のようなものを、陶淵明はごく普通の静かで安らぎに満ちた農村の中に求めたのです。もちろん挑とかいろいろな草花が咲き乱れたり、鶏や犬がのんびりと鳴き声を交わしたり、人々もゆったりと落ち着いた暮らし、道で会ってもみんないい顔の人ばかりで、みんな丁寧な挨拶を交わすという情景を描いて、まさに当時の桃源郷とし謳いあげたのです。

 それから明治の初め頃、イギリスの女流の旅行家イザベラ・バードが四十代で単身日本に渡って来て、横浜から入って日光街道を北上し、越後から小国を越えて、この山形県の置賜に入って来ました。そして、先ほど申し上げた散居村の農村風景を目の当たりに眺めて感嘆の声を上げるのです。これは農村の風景というよりも絵に描いたように美しいと。絵のように美しい光景として「東洋のアルカディア」であると絶賛するのです。その中で営まれるかたちというのは、柔らかい生業のかたちなのです。人と人が助け合って、足りないところを補い合って、いいところは伸ばしあっていくという、そういう小さな共生社会のようなものだったと思います。それをイメージにおいて、これから我々何年生きられるかわかりませんが、その次の世代、その次の世代とじっくりと時間をかけながら、我々のイメージする現代の桃源郷のようなものを形作っていきたいものだと思います。

 6 景観は品格を表す

 景観というのは私はその地域の品格、グレードを表すものだとかねがね考えてまいりました。それはその自然風土、農村の自然そのものが、もちろん地方都市の町並も含めての話でありますが、大変に品のいい雰囲気を漂わせているということです。そこに住んでいる人々の生き方そのものがその品格を示している。それが見事に景観に表れると思います。残念ながら、我が「まほろばの里」にも便利のいいところから都市化が始まって、美田地帯が埋められて、宅地分譲が行われたりしているのですが、しかし、しっかりと守るべきところは守っていかないと、せっかくの品格のある地域の顔が損なわれてしまうのではないかと思います。

 例えば、聖山の自然なども今は大気汚染と酸性雨によって、見るも無惨に松枯れがあっと言う問に広がりつつあります。ですから、マツタケの名産地として続かなくなるのではないかという危機感を抱かせるような、急激な松枯れが始まっています。この内陸部においてはここ一、二年の間です。その前は日本海側を一気に北上してきて、クロマツの砂防林もみんな枯れてしまったりして、中国大陸の砂漠化と急激な工業化がもたらす、季節風によって運ばれてくる黄砂とか酸性雨とか大気汚染物質が日本列島を直撃しているという背景があることは疑いがありません。

 しかし、日本の環境問題というのは日本だけでは打開できないわけですから、国際的な協調関係の中で、それぞれの国、それぞれの地域で自覚的に取り組む、そのあり方でしか、そのトータルの中でしか打開できないのではないかと思います。いずれにせよ自然と共生するライフスタイルを私たち一人ひとりが身に付けること、それから先ほど申し上げました地域の環境レベルを限りなく高めていくことが肝要だと思います。
 途中ではありますが、時間がきてしまいましたので、いったんここで終わらせていただきます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?