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少女の夢 5  酒井倫子


 合唱とは、決して心をひとつにすることではない。昨年、文化功労者になった合唱指揮者、田中信昭はそう言い切る。プロ、アマチュアと縦横に広がる日本の合唱文化の礎となり、今なお現役で駆け回る。「肉体が波動を起こすやり方は人それぞれ。他者との違いを確かめ、自分だけの人生を生きる力を得ること。それが、歌というものが存在する理由にほかならない」
 89歳。岩城宏之、山本直純、林光、三善晃ら、西洋の借り物ではない自分たちの音楽文化を戦後日本の焦土に築こうと奔走し、先だった盟友たちとともに受けた栄誉と感じている。
 大阪の中学校で音楽の教師をしていたが、本格的に歌を学ぶ夢を諦めず、東京芸術大学声楽科へ。言葉こそが音楽の母、とドイツ歌曲の名匠ネトケ・レーヴェに学び、日本独自の歌の文化を育てるべく、卒業式のその日、声楽仲間と東京混声合唱団を創設する。
 初演した曲は約450曲。楽譜を受け取り「おお、変な曲。よし、やってみるか」。この繰り返し。「とんでもない曲が届くほどうれしい。今でもね」
 一番「とんでもない」と思ったのは、柴田南雄の「追分節考」(73年)だ。「日本の民謡の素材だけで書いて」という田中の難題に対し、柴田の答えはシステム化されたクラシック音楽のやり方、つまり楽譜と指揮による奏者への束縛を放棄することだった。
 指揮者が手にするのは指揮棒ではなく、複数のうちわ。奇声や追分のユニゾンなどを意味する様々な指示が書かれている。積み上がってゆく音響空間のなか、指揮者は即興的に次の指示を出してゆく。すべてが混沌(こんとん)、筋書きのない即興芝居さながら。「奏者ひとりひとりが己を解き放ち、音で空間をつくる『遊び』に主体的に加わってゆく」。合唱そのものの本質を射抜いた野心作は、今や合唱界の主要レパートリーだ。
 最も嫌いな言葉は「予定調和」。「わざわざホールに足を運び、いわゆる名曲をいままでと同じような演奏で聴かされて何が楽しいのか。破綻(はたん)のない『芸術』ほどつまらないものはない。生きている以上、新しいものに驚き続けたい」(編集委員・吉田純子)

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 稲妻が走った日   酒井倫子


  それから母は障子を閉めて、二つ並べてさっぱりした夏布団の床を敷いてくれた。毋とこうして枕をならべて寝るのは久しぶりで、何だか気はずかしいような心持ちであった。
 その時母が「そうそう、倫子にあげるものがあるんだよ」と風呂敷包みから出してくれたものがある。それは、その当時流行の木口のついた手さげ袋であった。黒ビロードの袋の大きさは、三十センチ×三十センチ、いやもう少し小さかったかもしれない。当時の私にとっては大きな袋であった。それに目のさめるような草花が刺繍してあったのだ。見たこともない淡紫とピンクの草花たちが、まるで風にそよぐように天に向かって咲いているのだ。何も言えずにあっけにとられている私に母は、「倫子がよろこぶ顔がみたくて、母ちゃん一生懸命刺したんだよ。この淡紫の花はマツムシ草、このピンクはヤナギラン。母ちゃんたち、去年のお盆に崖の湯で女学校の時の同級会をやったよね。ほれ写真をみせたでしょう。あの時にみんなで奥鉢伏までは遠くて遠くてほんとうに大変だったけどね。峰に近づくにつれてきれいな秋草がいっぱいでね、母ちゃんたちはそれにつられて、知らず知らずのうちに頂上まで行ってしまったの。皆んな女学校の頃に戻ったようにはしゃいでね。その時に見た景色を母ちゃんは一生忘れないよ。奥鉢伏の登り口の谷すじには、ヤナギランがいっぱい。それをざわざわと分けるように登ってゆくと、目の前にせまって来る鉢伏の斜面はまるでうす紫に染まって見えるほどマツムシ草でいっぱい。空の星がみんな降って来てマツムシ草になったかと思うほどだったよ」

 母が女学校のころから袋物の名人であったということは叔母からも聞いたような気がするが、こうして真のあたりに見るのは初めてであった。
 手の中にある黒ビロードの袋をみつめる私は、いつしかまっ青な空のもとに咲ききそうお花ぱたけに遊んでいた。そしていつかきっと母の見たその花を観にゆこうと思った。母の心づくしの贈りものは、少女の心にオレンジ色の灯をともしてくれた。
 母はまた語った。
「すまないね、お前たちにいつもつらい思いばかりさせて、母ちゃんも一日も早くよくなって帰るからね。今の母ちゃんにはお前たちだけが生きがいだよ。皆んながね、マキちゃんの子はみんな何ていい子だかってほめてくれるよ。母ちゃんもそう思うの。貧しくても心の豊かな子どもに育ってほしいから母ちゃんも元気出さなくてはね」

 そして父との出会いについても語った。若い当時の父は大正デモクラシーに身を投じてつちかった進歩的な思想を持ち、やがて昭和の初期になり軍国主義が台頭する時代にも、いつも理想を追い求める素晴らしい青年であったという。田舎育ちではあるが、勉強が好きで、どうしても女学校へ行かせてほしいと反対する父親にさからって女学校に行った母にとっては、父はまばゆいような存在であったという。大学生のころから主権在民の理想主義をかかげて歩み続けた父は、その後も労働組合に身を投じて、特高警察からかぎまわされる、いわゆるブラックリスト者であったという。母には、ぜひ嫁にきてほしいと言ってくれる人もいたというが、二十五歳で、三十六歳にもなった父のところへおしかけるようにして世帯を持ったのだという。変り者の父との結婚には、母の父は賛成しなかったという。その後父との生活がどんなに常識を越えたものであっても、母自ら選んだ道なので親や姉妹たちに泣きごとはいえなかったという。

 昭和十三年、長女の私が誕生したとき、父はまだ自分の考え方に屈伏することなく生きていたので、人の道を歩む子になるようにと「倫子」と名付けたのだという。前年には「支那事変」が勃発し、戦争景気で重工業、化学工業などが盛んとなる反面、国策に反する労働組合員はどんどん弾圧され、父の生活もそのころから母には理解しがたいものとなっていったという。父には死なばもろともの仲間がいて、今夜使う布団でも二組あれば、一組わけてあげる人で、それでも母は、そういう父が誇りであったという。その後、日本の国策はますますファシズムへと向い、労働組合も解散をよぎなくされ、第二次世界大戦中は、エンジニアであった父は軍需産業へとかりたてられていったという。また敗戦を迎えるようになってからも、連合軍の指令のもとにレッドパージの対象となり、まともな職業につくことさえできない中で、父は現在のような生活力のない人となっていってしまったのではないか──とこんな話であった。

 当時の私には毋の話は理解しがたい点もあったが、何よりもうれしかったことは、父と母を愛し合って結婚し、かつて母は父を尊敬していたことを知ったことであった。
 その晩の毋は饒舌であった。私が母のために、小学校の職員室から借りて来た「古典」を、大切そうにめくりながらまた語った。
「清少納言も紫式部も今から何世紀も前の女なのに、何という才能だったのだろう。母ちゃんは特に清少納言の、あのとぎすまされた世界が大好きだけれど、何世紀前も今もひとの能力は少しもちがっていなかったのだね。いえ、むしろ今の私らよりずっとすぐれた感性を持っていたのかもしれない。けれど「枕草子」も「源氏物語」もみんな貴族の世界を描いたものだよね。母ちゃんが一番知りたいのは当時の庶民の女の生き様なの。どんなに生活は苦しくても庶民の女たちは、きっと逞しく生きぬいて来たのだろうからね。母ちゃんはそのうち時間ができたら〈女たちの歴史〉を勉強してみたいのだよ」

 たしかに娘の私に向って話してはいても、母自身の生きてきた証を確かめるためのおしゃべりであったかもしれないと、今になって思うのである。
 部屋の明かりを消した時、月は中空にのぼったのか、障子は昼かと思うほど明るく、木の影が藍色に落ちてかすかにゆれていた。私は満ち足りていつしか眠りに落ちた。

 翌朝はみじめであった。母はすっかり現実の人に戻り、早朝から旅館で立ち働いた。私は知らず知らずのうちに心が沈みがちになるのを必死で外に出すまいとこらえていた。じっと目をみ開いていなけれぱならないような緊張感で目がキョトキョトした。
 とうとう母と別れて帰らなければならない時を迎えた。しばしの別れというのに小学五年の私にとっては本当に悲しいことだったのだ。ちょうど里から登ってきた帰りの牛車にのせてもらうことになった。荷車のうしろに腰かけさせられた私は、どこを見ていたらよいかわからなかった。旅館の玄関前に、母と共におばさんや数人のひとが見送りに出てくれている。牛車がガタゴトと動き出すと、母が少し追いかけて「気をつけるんだよ!」と声をかけた。私はじっと早朝からこらえてきたものが、とうとう切れて、どっと涙があふれた。早く早く荷車が進んでくれればよいと願ったのに、長い長い時間に思えた。気がついたときは、母の姿は涙でかすんでみえななかった。
 こんなふうにして、私はまるで天国から下界に降りるようにして弟たちの待つ家に戻ってきた。

 それから間もない昼下がり、突風と共に空はにわかにかき曇り、東山のすそ野を無数の稲妻が走り、おそろしい雷音をとどろかせた。本当にそれは天地のおしまいかと思うほど激しい情景であった。ピカッ! さらに激しい閃光が走り、ピシャーツとたたきつけられるような音とともに、家から数百メートル先の鉄塔が青い炎をふきあげたのである。家の中に避難していた妹弟は思わず「ウウアーツ」とひれふした。一瞬に電気は消えて外は相変わらず青白い光が走り、まるで空がぬけたかと思うような雨であった。
 その時、突然私の脳裏に電光のようにひらめいたことがあった。
「兎の子が産まれた!」
 私はそのおそろしい雨の中へ夢中で走り出ていた。下駄は小川の丸木の橋にとられ、兎小屋にかけこんだ時ははだしであった。本当に兎の子が生まれていたのである。八ぴきか十ぴきか赤い小さなものたちが、ミーミー、ミーミーと泣きながら母兎の乳房へ乳房へとむらがっているのであった。母兎は、幼ないものたちが乳房をもとめやすいように、ゆうゆうとした姿で横たわり、いつもと少しも変わらぬ赤いやさしい深い目をしているのであった。そして、長いまつげの目をまばたかせる時でさえ、小さいものたちを気づかっているように思えた。

 やっぱり産まれていた。私はあの時どうして産まれたと思ったのだろうなどと不思議な感慨をいだきながら、
「産まれたよ! 産まれたよ!」
 とすさまじい雨足にさえぎられながら、ぼっとしかみえない家に向ってありったけの大声でさけんだ。弟たちが傘もささず、下駄もはかず兎小屋にとびこんできた。そして赤いミーミーした兎の子をみて、パーツと顔をかがやかせた。私たちはしばらくはげしい夕立のことを忘れて兎の母子にみとれていた。
 いろいろな出来事のあった夏休みも終りに近いころだった。私は夢をみた。
──ああ、何てまっ青なピカピカな空だ! 私は暗い台所の片隅にあいている煙突がわりの小さな穴ぼこから空をみあげているのだった。すると、そのうす暗い穴ぼこから光かがやく空に向って、幾百、幾千の蝶々たちが、ハタハタ、ハタハタと羽ばたいてどんどんどんどん高くのぼってゆくのだ。今まで見たこともない透明で美しい蝶たちが。まあ、何てきれい、何てきれい!
 この夢をみたころから私は泣き虫の少女からぐっとたくましくなった気がする。私の思春期は、太陽のスペクトル、天然色の夢で扉があけられた。

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