竹籠を編む人 梅沢貞夫さん 生活の中で必要なものは、昔はすべて竹で作っていた
年月を重ねて 使い込まれた職人の手
大きくて立派な手をしている。初めて梅沢さんにお会いした時、自然と目が、その手元に魅きつけられた。この手からいろいろな竹細工が作り出されるのだ。誰もが納得する職人の手をしている。最初は、職人気質で気難しい人ではないかといささか不安に思ったが、とても丁寧にやさしい口調でお話をしてくれた。
「小学校の時からかな。きっかけは、脚の怪我」小学校6年生の時、転落事故で片足を失った。その後、父親の勧めで座り仕事でもできる竹細工を始めたという。今年で84歳。「70年以上にもなるねえ」と、その年月の長さをまるで他人事のようにさらりと答えた。
当時は、1日10時間ほど働いていて、朝、日が出て明るくなると始め、夕方、日が暮れて暗くなると終わり。電気の利用が一般的ではない時代だったから、お日様とともに仕事をしていた、と。
そのころは、どんなものを作っていたのか聞いてみた。「今じゃあ、プラスチック製品ばかり」。昔は生活の中で必要な物すべてが竹で作れた、と淡々と語る梅沢さん。籠やら箕やら需要があったから、よく売れたなあと当時を思い返した。箕は1日に3個。びくなら1日に2個半。それぐらいが標準的な作業時間だという。
広がる口コミ 遠い道のり
今、私たちの生活の中にあふれている日用雑貨は、なんにしてもプラスチック製が多い。籠、ざる、ボウル等々、雑貨が揃う百均ショップに行けば、それは顕著にわかるだろう。
しかし、こんな時代だからこそ、竹細工の良さに魅かれている人も多いようだ。
「口コミで知ってもらえて、教えてほしいとか見せてほしいとか、連絡はよくもらいますね。でも、なかなかここまで上がってくる人は少ない」ちょっと残念そうに梅沢さんはつぶやいた。そう、梅沢さんの自宅は、市境にほど近い春野町川上地区にあり、その地名も”外山(はずれやま)”。春野協働センターから車でおよそ50分。標高は600メートルほどあるそうだ。この冬、ここでは毎日、氷が張っているという。午後に訪れたこの日も、平地より空気が冷たく感じられた。
通院などで浜松の街中へは、定期的に行くそうだが、買わずとも夫婦二人分ぐらいは、自分たちが育てた野菜で、十分、間に合わせられるそうだ。「だからやせ細っちゃうんだ。肉もたまには食べないと」と梅沢さんはおどける。
弟子の存在
そんな中で、弟子の話を始めると梅沢さんは相好を崩した。最近、春野町に移住してきた女性3人が、竹細工を教わりに通ってくるという。一番弟子が作った工房の紹介看板に指を差しながら弟子たちのことを話す梅沢さん。その存在をうれしく思い、また、頼りにしているということがひしひしと伝わってくる。彼女たちがあれをして、これをしてと、口も滑らかだ。
お弟子さんのお子さんたちがもうちょっと大きくなって、一緒に来てくれたらにぎやかになっていいですね、と言うと笑顔でうなずいてくれた。
手品のような早わざ 持ち続ける向上心
三輪バイクに乗る梅沢さんに先導され、工房へ向かう。茶工場兼用だという家屋に入ると、作りかけの竹細工があった。材料となる竹は、春野町内の竹林から、知り合いが切り出して運んでくれるという。自宅近くの竹林はイノシシやシカが荒らしてしまい、今では、使えなくなってしまったそうだ。
「アイデアが浮かぶまでしばらく放っておくんです」と梅沢さん。作りかけのものを見やって何気なく言った言葉だ。知っている編み方や型のものを作るだけでなく、新たな編み方やデザインを本で勉強し採り入れているという。
せっかくなので、編んでいるところを見せてほしいとお願いした。梅沢さんはひょいっと座り込み、パッパッパッと左右の手を動かす。あっという間に編み目が増えていく。わずか十秒ほどのうちに、元あった物が別の物のように変化していく。まるで手品みたいだ。「こんな感じ」何事もなかったかのように、梅沢さんはすっと立ち上がった。
職人の気構え
さて、ひと通り、竹細工についての話は伺った。弟子に限らず、いろいろな人に自分の技術を教えることをいとわない姿勢。いくつになっても新しい技術を取り入れようとする向上心には、頭が下がる。
そして、話は尽きない。飾ってある作品を横目に、在来種を残したいという思いや肥料のやり方。奥さんが作っている地こんにゃくのこと。ヤマビルなんて気にしていたら、山仕事なんてできんということ…。竹細工以外のことにも一家言ある。
「手」が職人だと示すわけではなかったんだ。そう気づかされる。その人の「心」のあり方こそが、職人だということの必要不可欠な要素なのだ。
(浜松市広報誌より)
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