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僕ら弱者男性は女尊男卑社会令和日本の何に(いつも)苛立っているのか

それは、
①常に男性が加害者であり、女性が被害者であるという前提に基づき、
②しかし現在違法やマナー違反とされることは悉く女性が原因で起こっている

に集約されるのではないかと思う。つまり女性が存在することが男性を犯罪者や違法性、反社会的な存在へ位置づける方向に向かわせているのである。しかし女性は加害者ではなく被害者なのである。この矛盾に常に苛立っているのではなかろうか。男性から見れば女性が男性を「加害者化している」のであるが、女性から見ると男性は加害者に「なった」のである。

(若くて綺麗な)女性の価値は未だ男性にとって核に等しい

例えば、盗撮、痴漢、セクハラ、マタハラ等といった存在は全て女性(ここでは女性のみを扱う)の存在によって犯罪が成立する。性的な部位や付属物は全て価値を持ちそれを侵害することによって犯罪が成立する構造となっている。
価値を規定するのは人権なのだろうが、それは男女非対称の価値となる。
男に対しては、成立するも圧倒的少数で認められにくい男性性の価値は、犯罪が成立しにくいのであるが、女性は容易に犯罪化が成立する非対称の価値が存在している。
つまり女性はその価値に包まれ大手を振って街中を歩きながら、常にその価値を侵害すると男性を犯罪に仕立て上げることができる武器を有している。
価値の暴発に対して一才女性側から歩み寄ることなく、むしろその価値を侵害する場合は犯罪という国家権力を振りかざす権利を有しながらも、自由に生きる。
これは男性にとっては、恐ろしい国に核戦争をチラつかされつつも、過去の事例をもとに柔和な態度を取らざるを得ない超大国の関係に似ている。

性欲の男女差による女性優遇の成立

男女の性欲差(中年期までは男性の方が圧倒的に性欲=性を求める引力が圧倒的に強い)に加えて、男女が性欲を中心的に感じる事物の差異(男性=視覚、女性=関係性)によって、男性が女性に対する実際的な性欲の発散に至る働きかけがなされるものの、女性から男性に視覚的な性欲の発散に至る働きかけがなされ難い。
さらに、男女の圧倒的な恋愛性的市場の力関係(女性優位)によって、女性はいちいち男性に性欲を視覚的に(犯罪として証拠が残りうる方法で)満たす能動性を必要としない。だから常に女性は核を保有しながらも、そして男性は核を求めていながらも、資源の圧倒的非対称性で、男性の本能から生まれ出る圧倒的な性欲差の引力を己の精神力や大脳皮質で受け止めて制御する、我慢する必要が生じているのである。つまり女性は性欲を我慢していない(少なくとも結婚前までは)が、男性は常に我慢を強いられており、その我慢に対しては一才の補償を得ることはできないし有料であるが、女性は我慢せずとも人生チヤホヤイージーモードで自動販売機の前で男を選ぶだけで性愛はとりあえず満たせるという核を保有していることに僕らは苛立っているのである。

じゃあ逆に女性を惹きつける引力を努力せずに持つにはどうすればいいか

股間についているものだけでは女性のように人生チヤホヤイージーになれない。じゃあどうするか。体では無理だし、努力を必要としては女性に並び立つことはできない。
「親ガチャ成功→結論」
これである。親ガチャ成功の定義とは、資産持ち、イケメン、高身長、才能もち、以上である。
これらがあれば非常に限定的であり個人の努力に帰するものはほぼないが、令和日本で女性に並び立つことができる。
だから現世はもう諦めて、来世に期待するええじゃないか運動として、異世界に生まれ変わるなろう小説が流行しているのである。極楽浄土であり聖戦の死後のハーレムである。
「諦念」こそ、令和日本を生きる弱者男性の不都合な真実なのかもしれない。。。

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