見出し画像

第2回「本を売る」ことに魅せられて

年が明けて、1985年(昭和60年)僕は、日大病院に入院中で、正月を病院のベッドの上で迎えました。昨年、手術をした左膝のギブスは、まだ取れていません。いつ取れるのかを心待ちにしていたのです。

できれば1月15日の「成人式」には、出席したい。母が成人式に着ていくスーツを新調してくれたからです。しかし、成人式の前にギブスは、とれたものの、左足を見て驚きました。2ヶ月もの間、ギブスで固められていた足は、痩せて筋肉がない状態。右足と比べると太さは、半分になっていました。このなくなった筋肉をつけなければ、歩くことも座ることもできません。

その日から覚悟を決めて、リハビリをはじめました。しかし、退院は勿論、外出も許可がおりず、残念ながら成人式の式典には、出席できませんでした。可哀想に思ったのでしょう。看護師さんから花をもらい、彼女からは、祝電が届いたので、スーツに袖を通して、僕は花を抱えて、病院で記念撮影をしたのです。

1985年1月15日 日大病院にて

リハビリでは、太腿や脹脛の筋力トレーニングをして、ベッドに戻ると足首に砂のうを巻いて、膝の筋肉をしめる運動をくり返しました。努力の甲斐あってか、およそ半月で、松葉杖からは卒業し、片手で使うロフストランドクラッチ杖 で歩けるようになりました。
彼女は、ほぼ毎日、見舞いに来てくれました。大学は期末のテストシーズン、彼女が交渉して、テストではなく、特別にレポート提出を許してくれる先生もいましたが、あくまでも、テストの結果如何で単位が、取得できるかが決まる必須の教科もありました。
まだ杖をつかなければ歩けませんが、日大病院を退院して、出席できる試験に臨みました。しかし、そもそも授業も受けていなかったので、テストは、惨憺たる結果となりました。進級は、できるようですが、4年で卒業するには、相当頑張らなければならないことになりました。

試験が終わると春休み。そして、僕は紀伊國屋書店渋谷店に復帰しました。とは言え、まだ完治していないので、朝1番に、お茶の水の日大病院に通院し、リハビリが終わったら、渋谷へ通勤する日々でした。杖をつかなければ、歩けませんので、店頭に立つことは、できません。そんな僕のために特別に仕事が用意されていました。その仕事が自分の書店員人生に大きなインパクトを与えてくれました。
僕が事務所内で作業する机は、仕入の課長だった野本晃治さん(のちに新宿本店に異動。ノモ爺と呼ばれていた人です)の隣でした。野本さんは「ほら今日の分だ」と言って、仕入のアルバイトに次々と本を持ってこさせ、僕の机の上を本で埋め尽くしたのです。「新刊の一部抜き」と言って、今日入荷した新刊、例えば同じ本が5冊入荷したら、其の内の一部を抜き取って、入荷数「5」と書いた紙を本に挟み込みます。それらの一部抜きを、『新刊台帳』に書き込んでいくのが、僕の仕事となったのです。

本来なら『新刊台帳』は、ジャンルごとに、例えば、文芸書の新刊なら文芸の担当者が台帳を作成するのですが、デスクワークしかできない僕のために、山上課長が各課と調整して、僕に仕事を回してくれたのです。

そのため僕は多い時で、1日100タイトル以上の本を台帳に記入しました。
台帳に記入する項目は、「発売日」「書名」「出版社名」「著者名」「定価」「判型」「ジャンル」「入荷部数」の8項目。当時は、ISBNの表記は、日本の出版物には、なかった時代。記入する際、問題となるのは、ジャンルでした。
文庫、新書のように判型でわかるものは無問題です。文芸や実用書なども分類しやすい。タイトルだけでは、判断がつかないのは、専門書です。だから、目次を読んだり、著者のプロフィールや今までの著書を確認したり、序文を読んでみたりして、どのジャンルであるかを判断する。こうした難しい専門書を分類していると、知的好奇心が湧きあがるので、とても楽しい時間でした。

今と違って、年間の出版点数は、2万タイトルくらい。さすがに今のように7万もタイトルがでると覚えられませんが、1日100タイトルを直接手書きしていると、しっかり記憶できるのです。なので、この『新刊台帳』を作り始めて、ひと月もたたないうちに、売場から僕のところに問い合わせが入るようになりました。「今日の新刊で◯◯◯◯◯って本が入ってない?」「あっ、それなら心理の棚です」などと受け応えが、できました。今やれと言われたら、できませんが(笑)当時は、岩波書店と聞けば、それは文庫なのか、新書なのか、単行本のどのジャンルなのかが応えることができたのです。不思議ですね。

3月半ばになると、杖も必要なくなり、歩けるようになったので、売場に戻りました。売場では、T先輩をはじめ、大学卒業と同時に退職するアルバイトの先輩も多くいました。僕は、T先輩の後任として、「政治・社会」の棚と「就職・資格」の棚を担当することになったのです。

そして、4月になると紀伊國屋書店渋谷店に新入社員が配属されました。渋谷店に新入社員が配属されるのは、5年ぶりとのこと。しかも4人。1人は総務課に、1人は文芸に、1人は自然科学に、そして、僕らがいる社会・人文科学にも1人、石垣美枝子さんが、加わりました。4人とも短大を卒業しての入社ですので、年齢は僕と一緒でした。とは言え僕も既に半年勤務しているので、(3カ月入院してましたが)少しだけ先輩。後輩に抜かされないように、担当の「政治・社会」「就職・資格」の棚を、しっかり管理しようと奮闘しました。

当時、社会科学書の柱は、「経営書」「経済書」。いわゆるビジネス書でした。そのジャンルを担当していたのは、社員の山崎美紀子さん。僕よりも二つ年上の女性でした。山崎さんは、12時を過ぎると昼休みに直ぐに入らず、仕入に行って、その日の新刊検品を見て、その場で売上スリップを千切り、短冊(スリップ)に50冊、100冊と数字を書き込み、日販の特販担当者に渡し、在庫の有無を確認していました。新刊の追加手配は、入荷後すぐに判断し、1秒でも速く注文しなければ、他の書店に取られてしまうこともあり、山崎さんの素早い動きは、棚担当をもったばかりの僕には、大きな刺激となりました。

僕が「政治・社会」の棚を担当する上で、当時一番重要だと思っていた出版社は、サイマル出版会でした。アメリカのジャーナリストで、ピューリッツァー賞を受賞したデイヴィッド・ハルバースタムの『メディアの権力』(1983年刊 邦訳:筑紫哲也)や『ベスト&ブライテスト』(1972年刊)は、ロングセラーでした。他にもマーシャル・マクルーハンの『マクルーハン理論』(1981年刊)など必備図書がたくさんありました。営業の浴野英生さんには、大変お世話になりました。
残念ながらサイマル出版会は現存しませんが、当時の政治、時事、社会書では、欠かすことのできない存在でした。

「経営書」や「経済書」などと異なり、「社会書」は地味ですが、棚でしっかり回転している商品も多く、中には既刊でありながら、平積みしている本もありました。特に印象に残っているのは、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走 』(東京創元社 現代社会科学叢書1966年刊)ですね。『愛するということ』(1956年刊)『生きるということ』(1977年刊)などフロムの他の著作が、紀伊國屋書店から出版されていましたので、『自由からの逃走』も、外せない本だったのです。現在の東京創元社とは、かなり趣きが違いますね。

このように、長きに亘って生き続けている本がある一方で、1985年、当時に売っていた社会書を検索すると、品切れ(実質的には絶版)の本が多いことは残念ですし、品切れは、出版社だけの責任ではなく、良書でありながらも、売り続けることをしていない書店側にも責任があるようにおもいます。今日では、電子書籍として生き続けている本もありますが、出版社名は変わっても紙の書籍として生き続けている著作もあります。
TBSブリタニカという出版社がありました。元々は、『ブリタニカ百科事典』を日本で販売するためにアメリカのエンサイクロペディア・ブリタニカと日本のTBSが出資して創業した出版社です。その後、阪急電鉄が買収し社名が、阪急コミュニケーションズに変わりました。そして、現在はカルチュア・エンターテイメントの子会社となり、社名がCCCメディアハウスとなっています。
そのTBSブリタニカ時代の1979年に社会学者のエズラ・F・ヴォーゲルが著した『Japan as No.1』を刊行して、ベストセラーとなりました。「ジャパン アズ ナンバー1」は、バブル期の強い日本をあらわす言葉として、今でも耳にされると思いますが、その本が新版となって、CCCメディアハウスから出版されていることは、喜ばしいことです。

「社会書」の中でもテレビ、新聞、広告、出版などマスコミ関連の書籍は、動きも良く、中でも共同通信社の『記者ハンドブック』や宣伝会議の『マスコミ電話帳』は、平台から外せない本でした。就職・資格コーナーで創出版の『マスコミ就職読本』も飛ぶように売れていましたので、マスコミは当時の学生から人気の高い職業でした。ですので、ジャーナリストやルポライターの本もよく売れていました。鎌田慧の『自動車絶望工場』(現代史出版会1973年刊)や本多勝一の『職業としてのジャーナリスト 』(朝日新聞 1984年刊、のち朝日文庫 解説:筑紫哲也)は、根強いファンも多く、コンスタントに売れていました。本多勝一の、1982年に発売された『日本語の作文技術』(朝日文庫)は、今でも売れているロングセラーですね。2015年に「新版」となり、続編も含め累計100万部を突破しています。
その本多勝一と朝日新聞社で同期入社の筑紫哲也は、ウォーターゲート事件を現地で取材した唯一の日本人特派員として有名になりましたが、『筑紫哲也NEWS23』(TBSテレビ)が放送されるのは、1989年。もう少し先の話です。
立花隆は、『ロッキード裁判傍聴記』(朝日新聞社)1〜5巻がこの頃完結。ちなみに『朝日ジャーナル』連載時の担当編集は、筑紫哲也。立花隆で僕のお薦めは、『「知」のソフトウェア』(講談社現代新書1984年刊)です。
また当時は、東大教授の西部邁の『大衆への反逆 』(1983年刊、現在は文春学藝ライブラリー)と、その続編は、話題となっていました。

「政治」関連の書籍についても、ふれておきます。
毎年発行される昭和29年創刊の国会・政界関係者のバイブル『国会便覧』と、国会議員の委員会、政党役員、省庁幹部名簿等を掲載した『国会議員要覧』などの政府刊行物は、平積みで良く売れていました。
この年(1985年)は、自民党の最大派閥であった田中派の中に竹下登を会長とする新たな勉強会(創政会)が結成されたので、政治評論家の増田卓ニは『竹下登・政権への階段』(ビジネス社)を著しました。しかし、経世会(竹下派)として独立したのは、2年後の1987年でした。まだまだ田中角栄の力は強大でしたが、その角栄が脳梗塞で倒れたのも、この年でした。

それと、毎週日曜日の早朝に「時事放談」(TBSテレビ)という番組がありました。政治評論家の細川隆元と同じく評論家の藤原弘達がホスト役となり、政治家をゲストに迎える番組です。この番組で紹介された本は必ず売れたので、商品の手配は慎重になりました。
藤原弘達は、以前『創価学会を斬る!』(日新報道 1969年刊)がベストセラーとなりました。そして、この年、続編の『創価学会・公明党をブッた斬る』(日新報道 1985年)を出版しています。しかし、55年体制が崩れ、自民党は、社会党と連立したり、そして、今日の自公連立を、この時誰が予想できたでしょうか。

少し話題を変えましょうか。

1985年上半期の芥川龍之介賞は、「受賞作なし」でしたが、直木三十五賞は、山口洋子(当時48歳)の『演歌の虫』が受賞しました。山口洋子と言えば、1970年代に、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」や中条きよしの「うそ」石原裕次郎の「ブランデーグラス」などヒット作を書いた作詞家でした。

それと、重大なことを忘れていました。

紀伊國屋書店渋谷店は、改装のため約2ヶ月間、休業となります。
テナントとして入っている東急プラザは、1965年(昭和40年)に開業しました。この年は、20周年のメモリアル・イヤーであり、外装・内装ともにリニューアルとなったのです。(外壁工事は、2月から始まってました。)
紀伊國屋書店渋谷店は、東急プラザのキーテナントとして、3階から5階へ移転するのです。いわゆる「シャワー効果」ですね。この頃、書店は大きな集客装置だったのです。

さて、休業期間中、僕の仕事は、どうなるのでしょう?!
答えは、最後の一行をお読みください。
それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

改装前の営業終了日に、店舗が入居するビルの裏手にある居酒屋に全員集合。注文すると「はい!よろこんで」と店員が応える『やる気茶屋』で決起集会をやりました。
「2次会は、カラオケに行こう」と女子たちが騒いでいる。カラオケと言っても、当時はカラオケボックスは、なかったので、大きなラウンジのステージに立って歌うスタイルでした。
2次会で、僕の隣に座ったのは、児童書を担当している臼杵悦子さん。山崎さんと同期だから2歳年上のお姐さん。
「草彅くん、これ歌って」と言われたのは、杉山清貴&オメガトライブの曲。杉山清貴&オメガトライブは、1983年に『SUMMER SUSPICION』(作詞:康珍化 作曲:林哲司)でデビュー。そして、昨年は『君のハートはマリンブルー』(作詞:康珍化 作曲:林哲司)がヒットしました。僕は臼杵さんに「あ!これ新曲ですね」と言うと、臼杵さんは、サラサラと綺麗な字で曲名を書いたリクエストカードを店員に渡したのです。

「臼杵さんは、閉店の間は、どちらの店舗ですか?」と聞くと、「私は二子玉川園」
そうか。みんな離れ離れになるのか。

すると店内アナウンスで呼び出され、僕はステージの上にあがりました。スポットライトが眩しい。会場を見ると臼杵さんが、こちらを見て、手を振っている。僕は、少しはにかみながら歌った。

流星にみちびかれ
出会いは夜のマリーナ
ルームナンバー砂に
書いて誘いをかけた.....

『ふたりの夏物語』(作詞:康珍化 作曲:林哲司)


1985年8月4日、21歳の夏。
来週から僕は、新宿本店で働きます。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?