最弱の人
弱者とは誰か
絶対弱者とも言うべきか、こういうような人々が少なからずいる。
少数者というのは分かりやすいが、多数に与しながらも位置的には底辺に属する。
日本は共産主義国家ではないので優劣がどうしてもついてしまうのは仕方ないこと。
物事は相対的になるが、分かり易い弱者がいなければ強者も存在しない。
強者も弱者も無くしてみんな手を繋いで平等になりましょうと言ったところで足を引っ張り合う人間は出て来る。
ルサンチマンを抱えた弱者が支配者たる強者を打倒して弱者のセカイを作ろうとしたのが社会主義革命だった。
尤も、その当時の体制が弱り切っていて裸の王様だったのは言うまでもなかったが。
弱者に体制を引っ繰り返されないようにする為に強者は弱者に「施し」をするようになる。
これが福祉の始まりだった。
完全な弱肉強食の時代だったならば今のような文明は存在しないのである。
弱者にも手伝って貰って社会を運営してきたのがこの世界の歴史だった。
それは国家なくして出来ないもので、国家が意図的に分配と調整を繰り返して国家の、引いては人類の文明を継続して来たと言える。
ただ、国家にも限界はあり万能でもないのでどうしても取り零れてしまうような人々が出て来てしまう。
まだここでは最弱の人は出て来ない。
生産性と弱者
畢竟どうしても生産性に与し得ない人々までも見殺しにしてしまえば何れか「選別」は行われ尻窄みになることは確実になる。
生産性に与することのない人とは障碍者のことである。
無論、障碍にも種類や程度はあり、障碍を補助すれば多数者と変わらない生産性を持つことだって可能である。
障碍者から見れば多数者は強者である。そこは留意すべきである。
しかし、最初に戻るが障碍者でもなければ健常者という多数に与しながらもどうしても生産性になかなか与する事の出来ない人がこの世がこの世である限り出て来てしまう。
そう言った人は最弱の人である。
やはり前にも戻るが最弱の人が自分の生き甲斐を求める為にルサンチマンを抱えて生きてしまうのが世の常である。
弱者男性とは何か
SNS(旧ツイッター、現X)ではほぼ毎日弱者男性がトレンド入りをする。
はて、弱者男性ってなんだろうって思ってしまう。
ホームレスのことか?と思ったらどうもそうでもなさそう。
路上生活者も見た目で分かり易い程の弱者ではないか。
ホームレスは知的にも障碍を抱えたり、また当たり前だが身体にも障碍を抱えたりする。
保護を受けずにセルフネグレクトを行ってしまうために弱者へと転落してしまう。
ホームレスに男が多かったりするのも結局ケアをするという当たり前のことを教わって来なかった成れの果てである。
ホームレスは弱者ではないらしい
弱者とは誰かと問われてホームレスと答えれば話は直ぐに終わるだろう。
でもそんなことで納得するような人はいなさそう。
ホームレスは福祉の対象なので弱者男性(まだ最弱の人ではない)にしてみれば弱者カテゴリーから外れているとそう考えるのだろう。
福祉、掩護、補助があれば忽ち弱者から外れる。
と、彼らはそう考える。
但し、その弱者男性も先のホームレスのように最近になって実は障碍を抱えていたということも発見されてきたのである。
所謂発達障碍である。
男(弱者を労わる存在としての性別)であるが故に生き辛さを打ち明けられなくて最下層へと転落してしまうことがあった。
虐め、不登校、学習障碍、仕事が出来ない、相手に分かって貰えない、鬱等々、弱音を吐ける時代になれたのは昭和に比べれば随分と幸福になったのではなかろうか。
それこそ昔だったら戸塚ヨットスクールみたいなスパルタ養成所へぶち込まれて死んでしまうような運命に遭っていたことだろう。
こうしてホームレスや発達障碍の発見で段々と弱者男性の範囲が狭まって来た。
ホームレスも発達障碍も別に男が大多数という訳でもなく女にも存在するので「弱者」としてここでは捉えてもよい。
サポートを受ければ一般的な弱者じゃなくなるからギリギリのところにいるような人は弱者とは捉えられない。
順序がちぐはぐになるが世間一般的な弱者ではないもののここでの文脈でいうところの弱者、即ち「最弱の人」となる。
弱者と最弱の人
弱者=世間一般的にいうところのサポートを必要とする人
最弱の人=多数派に位置するも弱者に組み入れられない低評価の人
前置きが長くなったが、このように考える。
所詮ではあるがピラミッドの構造体として考えると底辺が多ければ最弱の人だらけであるが、現実的には最弱の人だらけの社会と言うのは存在しない。
非正規雇用者が増えても依然として労働者は保護されておりまだまだ正規雇用者の方が多数派である。
非正規にも社会は支えられているとは言え、正規で繋げなければ社会は回せないのである。
正規も非正規も一緒くたの底辺と言われてしまえばそれまでだが。
今まで言って来たことだが、正規でも底辺の負け組は存在する。
そうした中でも最弱の人もいることだろう。
最弱の人は常に劣等感を抱きつつ現状に甘んじる。
文字通りのルサンチマンである。
そして自分達で勝手に正義や道徳を思い描き頭の中で優位に立とうと常に考える。
最近の事件で勝手に結論を思い描き自分達の世界の中で完結してしまうようなことが見受けられる。
弱者の道徳
札幌のススキノのホテルで行われた惨殺事件のことであるが、一部被害者に落ち度があるかのような妄想を思い描き加害者(とは言っても現時点でまだ裁判も始まってもいないので容疑者段階ではあるが)を庇う人々が観測された。
報道の内容(警察発表)が明るみになる度に加害者(とされる)の異常性が明らかとなるのだが、それでも自分の思い描いたものが改められることはない。
この場合の落ち度を論うのはなんでだろうと思う。
こういう場合は、きっと理不尽な男社会に苛まれた最弱の人が復讐心を込めて庇い立てをするのだろうと思われる。
加害者とか被害者とか関係なく、理不尽な社会への復讐を加害者に投影させているだけのことである。
無敵の人への憧れなのだろうか。
昔からなのだが、犯罪者に対する英雄視がどんな時代にも存在すると考えられる。
弱者の英雄
安土桃山時代の石川五右衛門もそうなのだろう。秀吉によって一族諸共釜茹での刑にされたのは酷いが、盗賊団だったのは間違いなさそうである。江戸時代には英雄視されたが実際のところ悪逆非道のことをやり尽くしたのだろう。単なる野盗ではなく、組織だった盗賊団、今で言う所の反社会組織を組んでいたのかも知れない。それで政権も動かざるを得ず、京都所司代の前田玄以らによって捕らえられたということのようである。
奇しくも五右衛門が江戸時代に英雄視されたのは秀吉に仇を成したからで敵の敵は味方という単純な史観だったからであろう。
関係ないが五右衛門が政権すら動かすような存在だったのは五右衛門の盗みのスキルが単なる盗賊のものじゃなく、出自が忍者だったからではないかと思われる(この辺りは司馬遼太郎の『梟の城』の五右衛門が織田信長に滅ぼされた伊賀忍者の生き残り説)。
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