僕たちは永遠を生きられない。という事実に


僕たちは永遠を生きられない。それなのに、どうしてだか僕たちは、永遠、というものについて考えてしまう。僕たちには到底、感じることのできない長い長い時の流れを、なぜだか物心ついて、永遠というものを知ってから若ければ若い時ほど考えてしまうのさ。僕たちは一生知る由のないものを、愛しているのかもしれない。憧れているのかもしれない。知りたいのかもしれない。本当のところは、よく分からないけど。
それはきっと「永遠」という言葉が存在しているせいでもある。そして「永遠」という言葉のせいで僕たちが、「永遠」なるものを考える手段を得たせいだ。そしてただ暇なせいだ。
暇というほどでもないけれど僕は、永遠に生きられたらどうだろう?ということについて考えるよ。1日1日をどう感じるだろう?僕たちみたいに寿命がある人間についてどう思うだろう?寿命がある人間の形成している社会についてどう考えるだろう?一向に僕が知り得ないことだ。だって僕は永遠を生きられないのだから。そんなこと考えて意味があるのかって?本当にそうなのかも。意味なんてないかも。永遠という言葉を捕まえた人は、どうしてそんなことをしたんだろう?
言葉って不思議だね。言葉が先にあるのか、事物が先にあるのか。世界にはまだ名付けられていないものが数多ある。名付けることは道を作ることに似ていて、道がないうちは、大抵の人は忙しくてできている道を通って目的地に行こうとするけど、一度道ができると、それはどこかへ行くときに誰かと誰かが共有する場所になる。そして知らないのに、指で示して誰かと確認し合うこともできないのに、それを使って、何かを考えるようになるんだ。
「永遠」という言葉も、きっと考えるために生まれた。多分誰かが、新しい場所に行こうとして、何度も何度も行き来するために、作った道の一つなんだ。そしてその道は、僕みたいに「永遠」という道の向こうに目的地を持たない人間も旅行者として迎えるようになった。永遠に生きられない、永遠と全く関係のない僕たちを。
でも、思うんだよ。永遠に生きられない僕たちは、「永遠」の向こうに目的地を持たないような僕は、それでも「永遠」という道を通って見つけるんだ。些細なことかもしれない何かを。例えばね、もし永遠を生きる存在に出会ったら「永遠を生きられない僕たちの気持ちが分かる?」って言っちゃわないかな、って考える。今日僕が、なんでもない場所に立って沈んだ夕日について僕が考えていることを教えたら、永遠に生きている存在はどんなことを思って同じ夕日を眺めるかって考える。永遠に触れることのできない僕たちは、そうやって永遠でない方から、永遠を見つめているんだと思う。そして、永遠に出逢うんだ。永遠に生きるものに触れるんだと思う。きっとそれは、永遠に生きるものには見つめられない世界なんだ。
永遠に生きるということ、永遠に生きられないということ。
その両方からでようやく見つかるものを見つけるために、僕たちは永遠に生きられない側に生まれて、永遠に存在することができないこの世界を見つめているのさ。

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