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引っ越しには、いなりずしを

結婚して新しい賃貸に引っ越した日、義母がいなりずしを2段のお重にびっしり詰めて届けてくれた。孫たちが大好きだという、噂のいなりずしだ。甘めでしっかり味が染みたお揚げに、酢飯がぎっしり詰まった大ぶりのそれは、力仕事の疲労感を、内側からするする解いてくれた。

実家にお邪魔すると、帰り際には、いつも何かしら手土産を持たせてくれた義母。果物、タオル、お茶などから、パジャマや毛布、冬物コートのときもあった。もともとお買い物好きだったと聞くけれど、それは自身のためではなく、子どもたちや孫たち、親戚や近所の人たちに向けたものがほとんどだったように思う。

義父を見送って一人暮らしになってからも、お買い物は続いていた。朝鮮ニンジンや高級椎茸、何組もの食器やシーツの箱が、訪れるお客さんを待っていた。しかしほどなく、様子がおかしくなってくる。洗濯ものが溜まり、掃除をしなくなり、レトルトカレーがパックのままお鍋に焦げ付いているようになった。

そんなお鍋を洗ったりしているうちに、私がタッチする範囲が、少しずつ広くなっていった。食器を片付けようと開けた収納庫には、お醤油ボトルが数本、すべて口が開いている。カチカチになったお砂糖や、使い差しの粉物の古い袋もたくさんあった。冷蔵庫には変色した3玉のキャベツ、納豆も牛乳もひと月以上前のものだ。代わりに買い物をして、冷蔵庫を時々整理し、おかずを届けたりしているうちに、近くに良い物件を見つけ、私たちは2度目の引っ越しを決めた。

外出がめっきり減った義母だが、それでも家で大好きな洋画を楽しんでいた。地下鉄に乗って映画館に行くことはなくなっても、深夜の名画が見られるのが何よりとほほ笑んだ。近くのコンビニでおでんなどを買い込み、午前3時、4時に映画を観終えて眠るので、私たちが仕事帰りに訪問する夕方は、義母にとっての朝のようだった。

わが家の引っ越し荷物があらかた片付いて、久しぶりに義母宅のキッチン周りを掃除していた時のこと。冷蔵庫のチルドルームから、大量の小揚げが出てきた。メーカーや大きさが不揃いのものが、十数袋。1つに5、6枚入っているから、100枚近い数になる。単なる重ね買いにしては量が多すぎるし、そんなに揚げが好きという話を聞いたこともない。そして、はたと気がついた。

引っ越しをする私たちのために、いなりずしを作ってくれようとしていたのだ。同じ大きさの小揚げが揃わず、かき集めたのに違いない。コンビニにはないだろうから、遠くのスーパーを2、3軒ハシゴしたかもしれない。料理どころか、ご飯も炊かなくなって半年は経っているのに、だ。チルドルームにしまったところで、恐らくその存在を失念したのだろう。

残念ながら、それは全部消費期限を過ぎていて、使うことができなかった。以来、私はいなりずしを作ったことがない。あのとき完成していたはずのいなりずし以上の味を、夫に届けることは出来ないと思うからだ。

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