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テーラーメイド

札幌に住んでいた、数年前の話。ある昼下がり、インターフォンが鳴った。モニターに映る白髪の男性に、見覚えはない。

「はい」
「T洋装店です。お世話になってます。未払い金のことで伺いました」

聞いたこともないお店だ。

「…うちじゃないと思いますが」
「そうですか。すみません」

男性はあっさりと引き返していった。白シャツが少しだぶついた、前かがみの老人だ。単純に、訪問先を間違えたのだろうと気にも留めずにいたら、翌日、またその男性がやって来た。

「はい」
「T洋装店です。未払い金のことで伺いました」
「うちは、仕立てをお願いしたことがありませんが」
「そうですか。すみません」

去っていく後ろ姿は、足もとが少しふらついているように見えた。次の日も、その次の日も、男性はやって来た。私は少々気味が悪くなり、モニターに映る姿を確認しながら、居留守を使った。すると男性は、ポケットから紙を取り出し、何かメモして郵便受けに入れていく。

それは、角に汚れのついた古い名刺だった。「T洋装店」の住所と電話番号が書かれた裏に、ふるえる字で「連絡をくださるようお願します(原文ママ)」とある。その場所は、ストリートビューですぐ確かめられた。相当古い建物に、名刺通りの看板がついている。どう見ても営業している様子ではない。少し迷ったが、電話してみることにした。

「はい、T洋装店です」

あの男性の声だ。

「玄関に名刺が入っていたんですが」
「あ、支払いの方をよろしくお願いします」
「うちと違うと思うんですが、何というお宅をお探しですか?」
「いやあ、名前はちょっと覚えていないんです」
「スーツの代金とかでしょうか?」
「スーツ…いや、それもちょっと…」

ようやく、様子がつかめてきた。
男性は既に仕立て業を引退しているが、恐らくその道ひと筋数十年の職人だったのだろう。わが家のあたりに、代金を踏み倒したお客がいたのかもしれない。店をたたんだ後もそれが気になり、督促に来ている可能性が考えられた。会話の内容はともかく、言葉も物腰も丁寧なので、家族は変わった様子に気づいていないかもしれない。

翌日、再び訪ねてきて帰る後ろ姿を見ながら、今なら家族が出るかもと思い、名刺の番号に再び電話してみた。しかし、呼び出し音が鳴るのみ。一人暮らしのようだ。やむを得ず、地域の包括支援センターに連絡し、一連の出来事を伝えた。担当の職員は、「T洋装店」への訪問と合わせて家族に連絡し、その結果を伝えると言った。

翌日からぱったりと、男性は来なくなった。センターの職員からの連絡もない。家族と暮らすことになったか、それともどこかの施設に入ったか、お元気なのだろうかと、時々思い出す。記憶があいまいになった中でもなお、白シャツで仕事を続けていた職人OBに、みな敬意をもって接してくれただろうかと、そればかりが気になっている。

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