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みじかい小説#173『海』

 知子ともこは国道沿いを走っていた。
 
 今朝は6時に起きて夫と子供二人の弁当を作った。
 7時には家族そろって朝食をとり、夫にごみ出しを頼むと、子供二人を送り出し、皿洗いを済ませる。
 それが終わると洗濯機をまわし、洗濯が終わるまでに家じゅうの掃除を終える。
 30分ほど休んだら、10時開店のスーパーへ買い出しに出かける。
 帰宅して食糧を冷蔵庫に詰め込んだら、SNSを巡回して、少し読書をする。
 そうこうしていたら12時になるので、ひとりで昨夜の残りを昼ごはんにする。

 今日の午前中は、そんなふうに過ごしたので、午後はぽっかり暇になった。
 そこで知子は、ひとり車をとばして海へ行こうと思い立ったのだった。

 平日の昼間、車通りは少なく、走っているのは業者の車くらいだ。
 知子は国道沿いを走り、大きな青地に白文字の道路標識どおりに、海岸へ向かう。
 そこは地元では有名な海岸で、内海にあたるため、常時波が穏やかで子連れなどに人気であった。
 
 小一時間ほど車をとばし、知子は海へ到着した。
 風は思ったほど強くない。
 駐車場から海まで伸びる砂浜の上を、靴を脱いで素足で歩く。
 5月の晴れた日、砂浜はじっとりと湿り気を帯びてあたたかい。
 一歩進めるごとに、足の裏でじゃりじゃりと砂の感触がする。
 
 波打ち際に着くと、知子は靴をその辺りに置いて、くるぶしまで水につかった。
 寄せては返す波と、知子はいっときたわむれる。
 少し深いほうの水面に目をやると、さざ波ひとつたっていない。
 ぬめぬめと不規則に動く表面に、無数の白い泡が浮かんでいる。

 近くの埠頭ふとうでは、中年の男性が、こちらも一人で釣りをしていた。
 こんな波の無い日にも釣れるものなのだろうか。
 知子がひとりで水遊びをしている間、男は身動き一つせずにじっと遠くを見ている。
 そのおじさんの背中に、知子は妙な親近感を覚える。
 思わず近くまで行って「釣れていますか」なんて聞きたくなってしまう。

 それから小一時間ほど、知子は何もせずにぼーっと波を見て過ごした。
 ゆらゆらと揺れる米粒ほどのブイを、行き交う漁船を、上空を飛んで行く飛行機を、なんとなく感じていた。

 そうこうしていると、一本の電話がかかってきた。
 夫だった。
「今どこ」と夫。
「海に来てぼーっとしてる」と妻の知子。
「ふーん」
 それだけ言って、夫は電話を切った。

 そうだ、私は海に来てぼーっとしているのだ。
 ふふ、知子はひとりおかしくなった。
 そして先ほどの夫の態度を思い出し、さらにおかしくなったところで、よっこいしょと、いくぶんか重みの増した尻をあげ、家路についた。

 

 

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