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みじかい小説#179『海の声』

 ナギサは今日、港にいた。

 彼女の耳に、海の音は、どこか残酷に響く。
 寄せては返すリズミカルな波の音を、聞くともなく聞いていると、遠くにいる父がすぐそばにいる気がしてくる。
 母なる海は、まるですべてを飲み込んでしまうかのように、なにものにも動じずに、ただたゆとうている。

 ナギサがもうひとくち、缶コーヒーに口をつけようとしたときだった。
 近くのスピーカーから、乗船を促すアナウンスが流れた。
 ナギサはスマホを確認する。
 もう時間ぎりぎりだ。
 急いで残りのコーヒーを飲み干すと、自販機よこのゴミ箱に空き缶を捨て、小走りにタラップをかけあがる。

 遊覧船「あおぞら」号とは、ナギサが乗り込む船の名前である。
 20人ほど乗れる中型の船で、船体は真っ白に塗られている。
 午後の太陽の光を受け、船体と水面みなもが交互に反射して、デッキに出ると目を開けていられないくらい眩しい。
 ナギサはサングラスをかけて、手すりに寄りかかる。
 白黒の世界で、景色がゆらゆら揺れている。

 もう10年になるのか。

 ナギサの父は海上自衛官であった。
 10年前、中東のどこか、海賊が出るという海域に向かって船出をしたきり、父は戻っていない。
 妻子を連れて行くという選択肢もあったらしいが、母はそれを嫌がって陸に残った。
 10年前、ナギサはまだ小学生だったから、父の面影をおぼろげにしか覚えていない。
 今では定期的にくる便りだけが、家族をつなぐ絆であった。

 だから、ナギサはこうして時折、海に出る。
 遠い東の海につながっている目の前の海に、船出する。
 船に乗って波に揺られていると、遠く離れた父とつながっている気がするのだ。

 母は、そんなナギサのことを女々しいという。
 すっかり陸上生物になってしまった母にとって、父はもう過去の人なのかもしれない。
 そう思うと、ナギサは少し寂しい。

 ナギサは今、高校3年生である。
 進学校に進み、毎週のように行われるテストで忙しい。
 本当は海に出ている暇なんてないのだけれど、進路を突き付けられた時、どうしても父に相談したくなる。

 ナギサは進路で揺れていた。
 父の背中を追って、海上自衛官になりたいという夢が、ナギサにはあった。
 一方で、それはやめなさいと、母は言う。

 どうしたらいいかな、お父さん。
 ナギサはそうたずねるために、今日、海に出ていた。
 360度の海に囲まれて、大海原のなか、ナギサは父の声を聞いていた。

 

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