みじかい小説 #150『登山』
洋子は今、目の前の岩に注力していた。
額から鼻をつたって落ちてゆく汗が、苔むした岩場ににじむ。
大きく息を吸い、洋子は上空をみあげる。
洋子の倍ほどもある木立が、両脇に連なってアーチのようにして洋子を包む。
重なる木の葉の合間を縫って、五月の太陽が容赦なく洋子を照り付ける。
その中を、初夏の薫風がさわやかに渡ってゆく。
生い茂った木々のこすれる葉音が耳に心地いい。
大台ヶ原に登山に行こうと思い立ったのは、まったくの偶然であった。
会社の昼休憩に、先輩の三宅さんと田村さんが話題にあげており、それを小耳にはさんだのだった。
本格的な夏に入る前に、有休をとって一度汗をかいておきたい。
デスクワークの洋子には、常々そんな欲求があった。
汗がかければ海でも山でもかまわなかったが、偶然耳にした山の名前が、なぜか自分を呼んでいるように聞こえたのだった。
そんなわけで、洋子は5月の中旬、みながゴールデンウイークで一休みした後を狙って、ひとり登山としゃれこんだ。
この日のために「登山 初心者」で検索したサイトに載っていた登山用アイテムを買いそろえたり、ジムへ通って体づくりにつとめたりした。
そうしていよいよ、この日をむかえたわけだ。
いざ、のぞんでみると、予想外に道が舗装されており、道に対してあまりに重装備かとも思われたが、歩みを進めるほどに道はけわしくなっていき、洋子の心配は杞憂に終わった。
1時間も歩いたころ、洋子はもう上着を脱いでいた。
脇にはじっとり汗じみができている。
オフィスにあっては恥ずかしい汗じみも、登山にあっては勲章のようなものである。
携帯の電波はすでに入らないエリアに入っている。
日常のしがらみから解放された気分になった洋子は、道端に腰をおろし、はずむ息を整え、大自然の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
眼前には連なる山々が広がっている。
周りに人はいない。
「やっほー!!」
洋子は思いっきり叫んでみた。
ふふ。
大声を出すのはいつぶりだろう。
目の前には、景色の奥まで連なる一面の山々。
体をぬってゆくのは五月の薫る風。
洋子は今、体中で生きていた。
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