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みじかい小説#180『弁護士』

「いつかまた、お話を聞かせてください」
 そう言ってクライアントと分かれたのは、午後2時を過ぎてからだった。

「またお客さんのがしちゃいましたよ」
 たかしは喫茶店に入り、さっそく上司の小林に報告する。
「そっか、じゃあ、まあ、仕方ないよね」
 他人を𠮟れないタイプの小林は、崇にそう言うと、てみじかに電話を切った。
 それが崇には、ひどく残酷なことのように思われる。
 小林の言う通り、「仕方ない」のかもしれなかった。
 けれど最近、崇はクライアントを逃すことが増えていた。

 崇の仕事は弁護士である。
 小林法律事務所という事務所で、もう10年働いている。
 小太りに太った上司の小林は、温和な性格で、崇のことを実の息子のようにかわいがってくれている。温和すぎる性格が玉にキズだが、そこは小林の奥さんが穴を埋めるように厳しく立ち回ることで事務所は成り立っていた。

「あなたも、崇君も、優しすぎるんです」
 とは、奥さんの言葉だった。

 小林事務所は、主に離婚調停を取り扱っている。
 昨今の婚姻事情で、離婚する夫婦の件数は右肩上がりである。
 おかげで小林事務所のような個人経営の零細企業も、このご時世でなんとかやっていけている。
 ほかでもない離婚という、男女ともに感情的になりやすい問題を扱うだけに、小林も崇も、働いているあいだに嫌でも他人の感情に対して寛容になっていった。
 それを奥さんは、「優しすぎる」と言うのだ。

 そうかもしれない。
 元来、弁護士は、法律で簡単にきったりはったり出来ない人の感情を扱う仕事である。
 問題を抱える両者の間に立って、どちらの言い分も聞き、法律と照らし合わせ、落としどころをさぐる仕事である。
 社会的正義と相対する強さと、事務仕事に耐えられる忍耐力と、人の感情を扱う際の慎重さが求められる。
 なにより、日々向上心を持ってのぞむ姿勢が必要不可欠である。
 そんなことを、崇は小林の背中から学んだ。

「崇君、いつまでも無料相談で時間を潰してちゃダメだからね」
 事務所に帰ってくるなり、奥さんが言う。
 事務所経営も慈善事業ではない。
 無料相談ばかりはしていられない。
 それは分かっている。
 しかし、話を聞いているとついつい感情移入をしてしまうのだった。

 それは最近離婚した崇側の問題でもあった。

「まあ、割り切るのは、あとでもできるから。今はゆっくり傷を癒すんだよ」
 優しい小林の言葉に、崇はいまはいっとき、甘えたいと思った。 

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