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みじかい小説 #149『雨に桜』

 午後からの雨で、土手の桜並木はしっとりと湿り、その花びらはアスファルトに幾重にもなるまだら模様を作っている。

 まことは、ひとつ身震いすると、春用の薄いコートの襟をぐいと重ね合わせた。

「遅いな」
 スマホに手をやる。
 薄暗いなか、スマホの画面から伸びる光が誠の顔を照らす。
 雨はもう小一時間、降り続いている。
 誠はもう5分も、約束のレストランの前で妻を待っていた。

 誠は口元に手をやる。
 禁煙をして三年、まだ何かしらあると口にものを運びたくなるのだった。
 誠は煙草を口にする代わりに、その場で大きく息を吐いた。
 その時である。
「ごめんごめん、待たせちゃったかな」
 うしろから誠の傘を軽く引っぱる手があった。
 振り返ると、妻の恵子けいこが満面の笑みで立っていた。

「ごめんね、仕事中に。いこ」
 そう言うと恵子は先に立って、レストランの中へ入っていく。
「どうしてそう勝手かな」
 誠は、聞こえないように、そっとつぶやく。

 予約してあった時間には7分遅れだったが、店員はこころよく応対してくれた。
 恵子と二人、向かい合わせに席に着く。
 運ばれてきたお冷に思い思いに口をつけ、どちらから切り出すのかを待たずして、恵子の口が開いた。
「単刀直入に言うけど、私は譲りませんからね」
 突然の宣言にも、誠は動じない。
 もう十何年もつきあってきた相手だ。今さら動じはしない。
「譲らない」というのは、今回の離婚にあたっての一人息子の親権についてである。
「俺だって譲らないよ」
 誠はそう短く返す。
 こうしてもう2週間も平行線をたどっているのだった。

 注文のパスタが二皿、運ばれてきた。
 誠のは明太子パスタで、恵子のはカルボナーラだ。
 昔からひとつも変わらない。
 二人して音もたてずにフォークとスプーンで器用に食べる。
 食べている間は、口を開かない。
 これも暗黙のルールであった。

「じゃあ裁判てことになるけど、いいのね」
 食後のコーヒーに口をつけながら、恵子が切り出した。
「そう、なるかな」
 誠は言葉少なに言う。
 そんな誠の様子を見やって、恵子は大きくため息をつく。
「もう。昔からそうなんだから」
 言われて誠は思わずむっとする。
「なにが」
「その態度よ。なんとかならないの」
 恵子はコーヒーに二口目をつけて言う。
「なんだよ、最後まで口うるさいのは変わらないな」
 誠は大きくコーヒーを飲みくだす。

 しばらくの沈黙が、二人を支配する。
 恵子が大きく、ため息をつく。
 そうしてお勘定に手を伸ばすと、
「支払いはこっちで済ませるから。じゃあね」
 と言って席を立った。
「悪いな、じゃあな」
 誠は目も合わさずに声で見送る。

 外に出ると、雨は相変わらずしとしと降り続いていた。

 雨はいい。
 すべての音がフィルターの外にあるかのようにくぐもって聞こえるから。
 すべての物の輪郭が、ペンキでよごしたようにぼやけてしまうから。

 恵子はひとつ身震いすると、重く垂れこめた雲に一瞥をなげかけ、皆が傘で顔を隠し足早に先を急ぐ、そんな雑踏の中に消えていった。

 約5分後、二杯目のコーヒーでおなかをいっぱいにした誠がレストランから姿を現した。
 外気との気温差にやられ、誠も大きくひとつ、身震いをする。
 まるで3月に逆戻りだな。
 誠は煙草を吸う代わりに、ほうっと長く、息を吐く。
 その息は空中で白く濁って消えた。

 恵子が順調に手続きを済ませれば再来月あたりが裁判である。
 そんな人間同士のごたごたなど知らぬとばかりに、土手の桜並木が雨に打たれ、その花を散らしていた。 

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