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よみびとしらず #04 光 第六章 僧兵と兼家

 午後となり、晴れていた空に雲が出はじめた。
「こりゃあ降るかもしれんなあ」
 恵敬えけいは興福寺に戻るとそう言い、寺男に雨戸の準備をさせていた。
 村から入り乱れつつ寺に戻った僧兵たちは、まず昼飯をかっ喰らった。
 それから予定通り午後の修行が始まるのであったが、その場に良俊りょうしゅんの姿はなかった。
 恵敬と良俊の修行が違うことはままあるため、二人が離れても、いつの間にかどちらかが隣に戻っているのが常であったため、恵敬はそうならないことを不思議に感じ始めていた。
「誰ぞ、良俊の姿を見なかったか」
 修行がはじまるとなって、恵敬はいぶかしがって周囲の者に尋ねまわっていた。
 しかし良俊の姿を見た者はなく、恵敬は腑に落ちぬまま修行を始めたのであった。
 そうして修行が終わったのがちょうどひつじの刻を告げる鐘の根が寺中に鳴り響いた時であった。
 修行が終わって、どこからか良俊が現れていつもの笑顔を見せるものとふんでいた恵敬は、いよいよいぶかしがった。
「おい、本当に良俊の姿を見なかったか」
 恵敬は、いつもたむろしている仲間に、ひとりひとり熱心に聞いて回った。
 しかし誰の返事もみな同じ、否であった。
 恵敬は師匠である願寧がんねいに相談をこころみた。
「わしも見てはおらぬが、どれ、次の修行の際に一同に聞いてみるか」
 願寧はそれだけ言うと、あとは任せるようにと恵敬に言い渡した。
 果たして、修行が始まるまえの僧侶がずらりと集うなか、願寧は皆の前に立ち良俊の行方が問うた。
 しかし誰一人としてそれらしい回答は得られなかった。
「これはおかしなことじゃわい」
 自室に戻り恵敬を前にし、願寧はそうひとりごちた。
「願寧様、良俊はまだあの村におるということはありませんでしょうか」
「なに」
「あの村、なにやら怪しうございました」
「そうか。じゃがのう、それより先に確かめたいことがある。一緒に来るんじゃ」
 願寧はそう言うと恵敬を連れて、寺の東の端に設けてある「祈念塔きねんとう」へと移動した。

 くずれはじめていた雲行きが、いよいよ怪しくなりだした。
 昼間とはいえ辺りは薄暗い。
 祈念塔は五重塔であった。
 その祈念塔へと続く石畳の道の上に、ぽつりぽつりと雨だれの跡が目立ちはじめる。
 道の両脇を彩る椿の花は、そんな景色の中にあっていやに明るい。

 願寧と良俊は祈念塔の門前にあった。
「あけませい」
 願寧が野太い声でそう声高に叫ぶと、門はきしむ音を立てながら大きく内側へと開いた。
 内部は空洞になており、塔の中央はすり鉢状にくぼんでいる。そこへ輪を描くように、何やら古い大和言葉で多角形に縁取りがされていた。
 願寧と恵敬は、建物内に響く雨音と足元から上がってくる冷気にはさまれながら、ゆっくりと中央に歩を進めた。
 場には二人の訪れを待たずして、全身を黒い服で覆った黒子が六名そろっていた。
「降霊術を行いたい。みなさま、よろしいか」
 願寧は地面に描かれた多角形の縁に立ち叫んだ。
 すると願寧の言葉を受け、黒子六名は心得たとばかりに各々、立ち位置を定めた。
 願寧はそれを見て塔の中央に移動した。
 そうして両手で印を結び、不思議の呪を唱え、最後にこう付け加えた。
「呼び起こすはこれ、興福寺の良俊なり」
 願寧と六名の口から溢れ出る呪が重なり、読経のようにあたりに轟く。
 地面の模様の中央から、薄い紫色を帯びた煙が吹いて出た。
 塔の屋根をうちつけているであろう雨音は聞こえない。
 かわりに、たちこめる煙にはじかれるようにして、小さな雷がそこここで鳴った。
「願寧さまっ」
 あまりの物々しさに、恵敬は目を開けていられずその場にひれ伏した。
 しかし恵敬の声は雷鳴にかきけされて誰の耳にも届かない。
 そうしていくらか経ったときであった。
「……かまる……」
 どこかから声がした。
 聞き覚えのあるその声に、恵敬は目を見開き上空を見つめた。
「……わかまるとやら……」
 今度ははっきりと聞こえた。
「その声、良俊か」
 恵敬は煙と雷鳴を手でふさぎながら、大声で叫んだ。
 目に映ったのは、煙と雷鳴の中雄たけびをあげる良俊の苦し気な姿であった。
「良俊っ」
 恵敬は叫んだ。
 しかしその声は誰にも届かない。
「わかまる……ゆるさぬぞ」
 再びはっきりと聞こえた。
「『わかまる』だと。誰だそいつは」
 恵敬は叫ぶ。
「……わかまるじゃ……わかまるがにくい……」
 その後、恵敬は懸命に叫び続けたが、良俊の姿をした煙は同じことを繰り返すばかりで恵敬に目もくれず、ただその目から涙を流し訴えるのであった。

 四半時ほど経ったろうか、当初の予定通りであるのか、降霊術は終わった。
 願寧と黒子六名がその場に崩れ落ちる。
 あたりが静まるのを待って、恵敬は願寧にじり寄った。
「願寧様、あれは、あの煙は、確かに良俊でございました。良俊が『わかまるがにくい、わかまるをゆるさぬ』と叫んで涙を流しておりました。あれはいったい……」
 恵敬は一息にまくしたてた。
「落ち着くのじゃ。恵敬、落ち着け」
 願寧の息はいまだ完全には整わず、そればかりか願寧は目から一筋の涙をながしていた。
 恵敬はそれを疲労からくる、もしくは老齢からくるものと判断し、あえては触れなかった。
 しかし願寧の涙は、間違いなく悲しみの涙であった。
「恵敬、よく聞くのじゃ。良俊はもう、この世にはおらぬ」
 それだけ言うと、願寧は静かに目を伏せ、片手を持ち上げ両目を覆うようにして涙を流し続けた。
「そんな、なぜ」
 恵敬の声は震えている。
「わからぬ。しかし、ああして霊となって現れた以上、間違いなく良俊は命を落しておる。それだけは確かじゃ」
 恵敬はなおもすがるように言葉を繰る。
「あの『わかまるがにくい、わかまるをゆるさぬ』というのは何なのです。『わかまる』とはいったい――」
「それも分からぬ。いま言えることは、良俊が死霊となり『わかまる』とやらに憑りついておるかもしれぬといことじゃ。儂らにできることは、おぬしも怪しいとふんだあの村にとって戻し、まずは良俊の遺体を弔うことじゃ。それから『わかまる』とやらを探す。今はそれだけ考えよ」
 願寧の言葉は鋭かった。
 もうその目に涙は見えない。
 代わりにある種の炎がその目に宿っていることを、恵敬は悟った。
 願寧の言葉に恵敬は短く返事をし、二人は雨の降りしきるなか表に出た。
 空はいよいよ暗くなり、道端には椿の花がぼつぼつといくらか落ちていた。
 二人の肩をうつ雨は、いよいよ勢いを増すのであった。

 願寧と恵敬は本堂へ戻った。
 そしてことの経緯を方々へ知らせると頭数を揃え、時を置かずして村へとって返した。
 雨の降りしきる中、総勢二十の僧兵の精鋭が馬と徒歩に別れ、興福寺の西方に位置する小さな村へと向かう。
 見送る寺では、さるの刻を告げる鐘が、号と打ち鳴らされた。



 雨脚は勢いを増している。
 僧兵の向かう村にも、同じ雨が降っていた。
 雨は地面をうがち、晴れているあいだに形作られていた跡を、片端から打ち消してゆく。
 先日の僧兵の到来時には、村の東にあってその到来を察知した侍も、今はその姿がない。
 僧兵は降りしきる雨の中、突然あらわれたのである。

「なにっ僧兵どもがまた現れただと」
 突如あらわれた僧兵に、侍たちはなすすべもなかった。
「ええい、こそこそ逃げ隠れするのは男ではない」
「見たところ数は同程度。おそれることはない、迎え撃ってくれよう」
 急ぎ連絡をとりあった侍たちは手に武器を携え、雨の中を我先にと出て行った。



 山の中に朔の姿があった。
 畑にあった芋の葉を引っこ抜き、それを傘にして雨をしのいでいた。
 さきほどまで社のひさしの下で雨宿りをし、頭の中にめぐる考えと格闘していたのである。
 雨のやむ気配もないことから、それに飽きてこうして山を下っているのである。
「ふう」
 何度目かのため息である。
 いくら頭をはたらかせても、あの選択肢は消えてくれない。
 自分でもおそろしい考えをしていると思う。
 けれども若丸を殺すという選択、それが最良に思えてならなかった。
 とくに光のためを思えば――。
 再び暗い影が朔を包みかける。
 その時であった。
 母の小屋の屋根がもう見えてきだしたところで、視界の端に、小さく動くものがあった。
 はじめは虫かと思った。
 虫がぶんぶんと視界の端で、雨の中を飛んでいるのかと思った。
 けれど、ちがった。
 視界の端、小屋の前を走る小道の先、村の中央ちかくの畑の上で、侍が刀をふるっていた。
 雨の中、見間違いかとも思った。
 しかし確かに一人の侍が、刀をふるっているのである。
 なんのために――。
 朔は目を凝らした。
 雨脚が強くて、あたりが煙ったように見える。
 すると、朔の耳に金属のかち合う鋭い音が聞こえた。
 それに加え、侍の向こうに馬とそれに乗った僧兵が見えた。
 僧兵は、手に長い槍を持っていた。
 それが侍に向かって振り下ろされる――。
 朔にはそれが信じられなかった。
「あっ」
 侍ははじかれたように後ろへ飛んだ。
 その軌跡に、赤い筋がひろがって見えた。
 朔は目を見開いた。
 僧兵と侍が、戦っている。
 母の小屋は山をくだりきった先、もう目の前である。
「光、母さん――」
 兼家は、逃げたか――。
 朔はかけだしていた。

 その時、兼家は寺にいた。
 寺の広間に寝転がる病人たちのなか、縁側の柱に背をもたれかけさせて開け放たれた雨戸から、なんとはなく外を眺めていた。
 兼家には珍しく、よこしまなことを一切考えることなく、ただ雨音に耳をかたむけていた。
 そうしていると、玄関口から騒々しい声が聞こえてきたのである。
「なんじゃあ、表が騒がしいのう」
 一転、不機嫌そうな顔をして兼家が顔だけうかがわせる。
 すると次の瞬間、その場を動く間もなく、僧兵が数名、あらわれた。
 病人たちのほとんどは何が起こったのか分からない顔をして彼等を見た。
 兼家だけはすぐさま反応し、影に身を隠した。
 僧兵が叫ぶように言う。
「みな、きけい。われらは敵ではない。われらは『りょうしゅん』という僧と、『わかまる』という者を探しておる。知っている者がおれば申し出よ」
 僧兵が皆をねめつけるように見渡す。
 病人たちは、突然のことに皆なにも出来ずにいる。
「おぬし、知らぬか」
「おぬしはどうか」
 僧兵たちは手分けをして、病人ひとりひとりを小突き回していく。
 その手には小刀が握られている。
「ひいっ」
 被っていた着物をはぎとられて、そんな声をあげる者もいる。
 兼家は物陰からその様子をうかがっていた。
 幸い、誰もが己の身を案じるので手一杯らしい。
 一同のあいだに、徐々に冷たい空気が張り詰めていったときであった。
 手をあげる者がいた。
 寺女の安子であった。
「なんじゃ、おぬしは」
 皆の視線が安子に集まる。
 安子が口をひらく。
「私、見ました。あの人なら知っていると思う」
 安子の指さす先、そこには、いままさに逃げようとする兼家の姿があった。
 一同がざわめく。
「待てい、そこの者、怪しいやつ」
 すかさず僧兵がやってきて、兼家の首根っこを掴みその身を起こした。
 兼家は僧兵に引き立てられ部屋の中央に乱暴に座らされた。
「おぬし、見たところ侍じゃな。なぜ逃げようとした。何か知っておるな」
 僧兵は兼家の顔に小刀を近づけ震わせた。
 兼家の額に脂汗が浮き出る。
「へっ。見つかっちまっちゃあ仕方がない。ああ、知ってる。俺は『りょうしゅん』を知ってる。ついでに『わかまる』だって知ってるよ」
 兼家は臆面もなく言ってのけた。
 それまでざわついていた場が、一息に水を打ったようになった。



 雨はなおも降り続いている。
 小さな一粒の雨だれにうがたれた地面が、そこここで波打っていた。
 寺の角から数名の影が姿をあらわす。
 そのうちの一人が先に立って、地面を指さした。
「ここだ」
 兼家は臆面もなく言ってのける。
 それを受けて後に続いていた僧兵たちは、手に持ったくわで地面を掘り起こす。
 僧兵たちは雨の中、ただただ一心に地面を掘った。
 するとかちんと音が鳴った。
「なんじゃ」
 僧兵たちの手が止まる。
 うち一人が進み出て、両手で丁寧に音がした部分の土をなでてよけた。
「これは――」
 僧兵たちが目を見張る。
 それは確かに人間であった。
 ところどころ虫に食われていたが、それは確かに人間であった。
 そして、鍬が音を鳴らした先を見ると、そこには大きな法螺が横たわっているのであった。
「この法螺は――」
 僧兵のなかにいた恵敬が思わず声をあげる。
 それを受け、僧兵たちは我先にと道具を素手にかえて盛り上がった土をどけにかかった。
 そうしてしばらく経ったころ、一人の人間の亡骸が、穴のなかに姿を現した。
 それは間違いようもない、朽ち果てようとしていた良俊の亡骸であった。
「良俊――」
 恵敬が進み出て顔の上の土を丁寧にどけてやろうと手を伸ばした。
 そのときである。
「やや、これは」
 手を伸ばした恵敬が見つけたのは、良俊が命を落とした原因である、首元の傷であった。
「良俊は首を切られて死んでおる。この傷跡は、誰かに後ろから切られたものじゃ。間違いない」
 僧兵たちは互いに顔を見合わせた。
「誰がこんなむごいことを」
 動揺する僧兵たちに向かって、兼家が言った。
「『わかまる』という奴じゃ」
 恵敬の視線が兼家をとらえる。
「なるほど、それで『わかまるがにくい』か。あい分かった」
 兼家はなおも続ける。
「俺は『わかまる』の居所を知っておる」
 恵敬が兼家に迫る。
「よし、案内せよ」
 兼家の顔にゆがんだ笑みが浮かんだ。
「仰せのままに」
 そこを通り過ぎる猫が一匹。
 尾は二股に分かれている。
 男たちが立ち去るのを見やって、その目が怪しく光った。
 誰もいない寺の裏、掘り起こされた穴の中、亡骸が運び出されたあとの新しい土の上にも、雨は容赦なく降りしきる。



 朔は勢いよく小屋の戸を開けた。
「母さん、光っ」
 もうもうと立ち上る白い煙の中に、朔は身をおどらせる。
「その声、朔か」
 煙の中から声がする。
 その方向には寝屋がある。
 聖子はいまだ若丸の枕元で、勢いを増した若丸の霊と相対していた。
「朔、何をしておる」
 土間の隅に陣取っている光がのんきな問いを投げかけた。
「村で戦がはじまっておる。ここは危ない。どこかに身を隠さねば。母さん、光、急いで――」
「待て待て、順を追って話すんじゃ」
 まくしたてようとする朔を、光が押しとどめた。
「ほれ、湯じゃ」
 光はかまどにかかっていた鍋から湯呑に湯を注ぎ朔に差し出した。
「ありがとう」
 それを朔はひといきに飲み干す。
「それで、何を見たんじゃ」
 空になった湯呑を朔から受け取り、光は顔を覗き込む。
「村で侍と僧兵が戦をはじめよった。村の中ではもう切り合いがはじまっておる。ここも危ない。早く逃げねば」
「なに、僧兵が。良俊とやらを探しに来たんじゃ」
「どうする――」
 朔と光は煙の中、顔を近づけ、互いに目を見合わせた。
 どちらの顔も、蒸気でじっとりと湿っている。
 二人はうなずきあった。
 そして、ここへきては仕方がないと、聖子に事の顛末を話して聞かせたのであった。

「なるほどな、どうりで除霊がうまくいかぬはずじゃ。そんな葬られ方をすれば成仏できるものも出来なくなってしまうものじゃ。いたし方あるまい。おぬしら、僧兵が来ても『知らぬ』とこたえるんじゃ」
 聖子は近くに座った聖子と光にむかい、諭すようにそう言った。
 その時である。
 表の戸が、勢いよく開いた。
「ごめん」
 その声は兼家である。
 室内にこもっていた煙が一気に外へ逃げてゆく。
 その分だけ薄くなった空気に、部屋の中にいる者全員の姿がうっすらと浮かび上がる。
 それを見定めて、兼家は引きつった笑いを浮かべた。
「あの眠っておるのが若丸じゃあ」
 そして後ろを振り向き、そう言い放った。
 その兼家の肩をつかみ後ろから躍り出てきた者があった。
 恵敬であった。
 恵敬は小屋に入ると草履も脱がず、土足のまま畳に上がり若丸の枕元に仁王立ちになった。
「なんじゃあおぬしは」
 勢い、朔と光が腰を抜かし後ろにたおれた。
 誰も止めることの出来ぬほどの速さであった。
「おぬしが『わかまる』か」
 畳の上にどっしりと据えられた大きな槍が存在感を放つ。
 誰に何をも言わせぬその調子に、辺りがしんとなった。
 しかし、その恵敬の目にうつったのは、まだあどけない若丸の姿であった。
 目の前に寝ているのは、苦痛に顔をゆがめているのは、そこで腰を抜かしている少年少女と同じ、年端もゆかぬ十代の子供であった。
 恵敬はひとり、その事実に驚いていた。

「違う、やったのは兼家だ」
 沈黙を破ったのは光であった。
 光の、突然の告白であった。
 再び、あたりを沈黙が支配した。
 すると恵敬が小さく口を開いた。
「本当か」
 それにこたえたのは聖子であった。
「本人に確かめるのがよかろう」
 そう言うと聖子は何やら口元で呪文を唱えはじめた。
 あたりにいっそうの煙が立ち上りはじめる。
 やがて、一同の見守るなか、煙の中央に人影が見えだした。
 それはだんだんと形をあらわにし、ついに良俊を形作ったのであった。
「良俊……」
 思わず恵敬の口から嘆息がもれる。
 その呼びかけもむなしく、煙の形作る良俊の視線は恵敬を、その場の誰をもとらえてはいない。
 良俊はただただ宙を睨み「わかまる……」と繰り返すばかりである。
 その場にいた者の中で良俊の言葉を聞くことが出来たのは、不思議の術に精通している聖子と朔、それに恵敬と僧兵たちであった。
 煙だけがもうもうと立ち上っているように見える兼家は、面白くなさそうに恵敬のつぶやきを聞いている。
「良俊」
 苛立ったような調子で恵敬が呼びかけても、その声は良俊に届かない。
「駄目じゃの。恨みで我を忘れておる」
 聖子はなすすべもなく若丸の枕元に座っている。
 恵敬はなおも続けた。
「良俊、本当にお前ののぞみはその若武者の死であるのか……」
 その問いかけにも、良俊はこたえなかった。
「仕方なし。若丸とやらの身柄をあずかろう」
 恵敬はそう言うと若丸の体を持ち上げた。
「何をする」
 聖子と朔、光が口々に訴えたが、それは聞き届けられなかった。
 若丸の熱い体は丁寧に着物にくるめられ、僧兵たちに抱えられ小屋から出て行ったのであった。
 いくぶんか時が経ち、小屋の中の煙がようやく晴れたころ、聖子がぽつりと朔に言った。
「山へ入り祈るんじゃ。きっとお前の祈りなら聞き届けてもらえるから」
 この言葉の意味を知る者は、もはや聖子以外にいないのであった。


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