みじかい小説 #139『夫が主夫になります』
「じゃあ、僕、ホントに主夫になっていいの」
夫の正雄はそう言うと、じっと葵の顔を見た。
「うん、いいよ。私が稼ぐから」
言うと葵はそっと腕を伸ばし、正雄の頭に手を置いた。
「いままでありがとうね、おつかれさま」
にこりと笑い、葵はその手を軽く左右に振る。
「乾杯」
「かんぱい」
夫の正雄が、ある日突然「話がある」と言って妻の葵を呼びつけたのは一ヶ月前のことである。
なんだなんだと初めのうちは好奇心をそそられた葵であったが、いざ話を聞いてみると「主夫になりたい」と言うのだからびっくらこいた。
葵と正雄は共働きで、結婚して10年になる。子供はいない。このまま夫婦で稼ぎながら、子供のいない分余裕のある二人だからと定期的に外食などをして気ままに過ごしてきた。
それが突然「主夫になる」だ。
葵はあわてて夫をとめた。
「待って、いきなりじゃない。どうしたの。もしかして何か病気になったとか?」
葵はまずは正雄の心身の状態を心配した。
「そんなんじゃないよ。ただ、このまま稼げるんだったら家に入るのもいいかなあって」
「いいかなあって……あんた」
葵はあぜんとした。
「私は稼ぎたいから稼ぐけど、まー君これから稼げなくなるんだよ?稼がないんじゃなくて、稼げなくなるんだよ?」
葵は説き伏せようとした。
「おっさんでもよければアルバイトがあるでしょ」
……なんと楽観的な。
「家計はどーなんの。もう外食とかできなくなっちゃうよ?私一人で家計を支えるんだから。ぱっつんぱっつんになっちゃうよ?」
葵は言う。
「いいよ。ささやかな日常、おおいに結構」
正雄はどこ吹く風だ。
「でもでも、家に入るっていったって暇だと思うよ。今までバリバリ仕事してきたまー君が毎日家事だけして生きていくなんてことできるとは思わないけど」
「それは大丈夫。ちゃんと趣味を見つけるから」
「そういう問題じゃ……」
葵は言葉を失った。
「あおちゃんは、嫌?」
葵はまたも言葉を失う。
「……嫌じゃないけど、ただ、この先大丈夫なのかなあって」
「大丈夫だよ、あおちゃんはデキる女だから」
「そうじゃなくて」
正雄は首をかしげる。
「ほら、世間体とかあるでしょう。今はいいよ、気分がのってるから。でもやっぱり男が家庭に入るのは…」
葵は言葉をにごす。
「あおちゃん」
正雄はまっすぐな目をして葵を見据えた。
葵はその目にどきりとする。
「あおちゃんは誰のために結婚したの」
それだけでは、葵に正雄の真意は届かない。
それを察して正雄は続ける。
「この二人の結婚は誰のためのもの?」
葵はハッとした。
「もちろん、二人のためのものだよ」
しばしの沈黙の後に、正雄が微笑む。
「でしょ。なら問題ないでしょ」
再びの沈黙。
「……そっか」
葵は正雄の視線にぱちりと自分の視線を合わせた。
二人の視線がかち合う――。
それから二人は、二人のために、二人だけで正雄の主夫決定祝賀会を開いた。
それはそれはささやかな、令和元年の、都内のとあるマンションの一室での出来事であった。
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