見出し画像

夏の夕風と見知らぬ妻。そして迷子

ありふれた一日として過ぎ去るかに思えた夏の夕刻は、思ってもみなかったことの始まりだった。                              (10000字)                                              

麦茶を入れたグラスは外側に水滴をつけてガラスのテーブルに置かれている。テレビの低い話し声が部屋に溶け込むように流れている。昼間は座っているだけで汗ばむほど暑かったが夕刻になってほっとする涼しい風が暗くなってきて視界がすぐ先までしか届かない縁側の外でうずくまっているように見える庭木の間を抜け肌を撫でていく。昼から始まったニュース情報番組が終わりかけ、そろそろアニメ番組に切り替わる時間。

玄関の扉ががらがらと開く音がして誰かが入ってきたように思えた。空耳か、と思う間に足音がして居間の入り口に人の姿が現れた。ぎょっとする。見知らぬ女。息を呑んで見つめる。圧倒的不審人物の言葉は拍子抜けなほどそぐわないものだった。
「こんばんは」
互いに視線をそらさずに過ぎる数瞬。

「誰だ? 君はいったい」
女は小さく肩をすくめるような仕草をした。
「そういう態度なの。いくら気に入らないからって、それじゃ私だって居づらくなるじゃない」
「どういうことなんだ、君なんて知らないぞ」
「まだそんなこと」
女はそのままつっと居間を通り抜けて奥に入っていく。急いで立ち上がりテーブルに脚をぶつけながら追いかける。アドレナリンが血管を駆け巡り、激しい鼓動が耳に聞こえる。
「おい、勝手に人の家に入ってきてどういうことだ」
「ええ、ええ。でも私の家でもあるんだから」
「君の家?」
「妻なんだから、まだ住む権利があるでしょ。いくら家を空けてたからって」
奥に進んでいく背中に向かって大声を投げつける。
「妻だって? 君は私の妻なんかじゃない」
「まだそんなことを続けるの? それとも本気で言ってるの?」
「本気って、妻とは似ても似つかないぞ」
「そうだった。忘れてた。顔は変わってしまったの」
女は躊躇なく廊下を進んで妻の部屋のドアを開け中に入る。
「おい、ちょっと待て」
かすれた声で言い、追いかけて自分も部屋に入る。部屋のずっとそのままにしていたよどんだ空気が鼻に押し寄せる。女は部屋の中に立って見回しながら言った。
「何も変えてないのね」
「君が私の妻だって?」
「私の声がわからないの? 体形も変わってないはず」
確かに声は似ている。身体つきも妻といってもおかしくはない。長袖のサマーニットとスカートは見覚えがないが、妻が選んでもおかしくない服装ではある。
「とにかく顔が全然違う」
「整形したの」
「整形だって?」
「そう」
「なんで整形なんかしたんだ。というか、そもそも整形でそんなに変わるものか。面影も何もないぞ」
「面影もないなんて大げさね。整形した訳はいろいろあって、ひとつにはその時の自分の殻を破りたいと思ったこともあったし、うーん、分かってはもらえないからもう訊かないで」
女は窓を開ける。久方ぶりに部屋に風が入る。女が振り返って言う。
「晩御飯まだでしょ、つくるわ。私もお腹すいた」

台所で我が物顔に振る舞う知らない女をどうすればいいのか。これといった対策が思い浮かばず入り口で見守る。どうしたらこの女が何者かはっきりさせられるのか。台所のどこに何があるか熟知している様子はどうにも不可解だ。
「妻だというなら、君はいつここを出て行った?」
「そうね。二年前の、確か…、五月よね。何日かまでは覚えてない」
「どういう風に出て行った」
「ただ、私は出ていくことにしたと言って荷物をまとめて出て行ったわ。そう、日曜だったのは覚えてる」
「何で出て行ったんだ」
「そうしたほうがいいと思ったから。その話を今さら蒸し返さなきゃならないの?」
「そうじゃない。そうじゃなくて、妻だと言い張るから確かめようとしてるだけだ」

女の料理が食卓に並べられた。妻がいつも座っていた席に当たり前のように座っている。主菜は鮭のムニエルのようだ。そしてサラダとパスタ。妻が選びそうなメニュー。今日の夕食はこの鮭を焼いてみそ汁とご飯のつもりだった、と痺れた頭で思う。
「早く座って食べましょう。 せっかく作ったのに」
「しかし、…」
「もう、先に食べるわよ」
俺の買ってきた食材だ、と思う。が、口には出さなかった。しぶしぶ向かいの自分の椅子に座る。それを見て女は食べ始める。あらためて顔を詳細に観察するがよくよく見ても見覚えが無い。見知らぬ女が自分の家で食事をしているのを眺めるのは何とも非現実的だ。

仕草に何かを感じた。女の手。手は妻の手に似ている気がする。はっきりとは覚えていないが。その認識に慄然とした。動かし方も長年見慣れた感じが湧き上がってくる。
「塩鮭だったからやっぱりしょっぱかった。塩抜きする時間があったらよかったけどもうお腹減ってたし」
自分も食べようとして箸がないことに気づく。立ち上がって取りに行く気はしなかったのでナイフとフォークを取り上げる。女が食べながら言う。
「今日は何してたの?」
「別に何も。庭の植え木の手入れをしたくらいで」
「ひとりは楽しい?」
「いや、楽しいわけがないだろう」
思わず声を荒らげた。
「私を責めてるの? あのままだと二人とも駄目になると私は思ったの。だからああするしかなかったの」
見覚えのない相手の顔を見る。
「そんな話をするのはまだ早い。つまり、君の正体がまだわからない。君が他人だったらそんな内輪の話をするのはとんでもない」
女は肩をすくめて食事に戻る。そうして落ち着かない時間が流れていく。

     *     *     *


自然な習慣かのごとく、流れるように食後の茶を飲む時が訪れた。まだ暑かったので二人とも麦茶のグラスを前に置いている。
「仮に君が君の言うとおりの人間だとして。じゃあ聞くが、なんで急に戻ってきた。連絡も入れずに」
「ちょうど近くまで来る用事があったから、それで私のものを取りに来ようと思って」
「取りに? 何を?」
「服とか靴とか」
私の方を見て付け加える。
「でも、持っていくにはあなたが私だと納得しないといけないということね。赤の他人なら持ってけるわけないものね」
「もちろんだ」
私はうなずく。

「困った。じゃあ、絶対二人にしか分からないと思うことを訊いてよ」
「え、二人にしか分からないこと。そうだな。それなら」
しばらく考えて言う。
「最初に揃って海外旅行に行ったのは?」
「新婚旅行のドイツ。そんな質問で納得するの?」
「考えるつなぎで言っただけだ」
二人以外知り得ないこと。そして他人には興味もないくらい些細なことなので妻も誰にも話していないだろうこと。それでも妻なら覚えているはずのこと。それはじっくり考えないといけないな。でも今はちゃんと考えられない。
「二番目の海外旅行は?」
女はふうと息をついた。
「私がアメリカの大学に留学に行くときに、ついてきてくれて入学の手続きまで一緒にしてくれた」
「本気で言ってるのか? 結婚した後に留学したと?」
女はうなずく。
「じゃあ、三番目は」
「そうね。海外といっていいかわからないけど、二人で火星旅行に行ったとき」
「おもしろいよ」
「まじめに質問する気がないのはそっちでしょ。最初と二番目と三番目の海外旅行なんて。私だって時間がいくらでもあるわけじゃないのよ」
「わかったよ。ええと、じゃあ」
考えが全くまとまらない。

「その顔を見ているとまともに考えられない。とにかく君が妻だなんてありえない」
「じゃあもう完全に袋小路ってこと?」
二人で押し黙る。女が口を開く。
「そういえば、ちょっと前に街であなたを見かけた」
「ふん、どこで?」
「渋谷の駅の中をどたどた走ってた。夜だった」
「ああ、なるほど。それはあったかもしれない。一本逃すと夜は次までが長いからな」
「走り方がよたよたしてて情けなかった」
「大きなお世話だ。仕方ないだろ、もう若くない。それは君だって同じだ」
間を置いて付け加える。
「つまり、君が言うとおりの人物だったらな。いや、誰にしろ君の年は私とそう変わらないだろう。君だって、若者のように颯爽とは走れはしない。人は年を取るということだ」
そこまで言い終わると言葉を飲み込む。こんな話をして一体どうなるのか。

玄関ベルが鳴る。
「こんな時間に誰だ。この時間に来る人なんか居るはずないが」
立ち上がって玄関に向かおうとして、女に問う。
「誰か来る予定があるのか? 君の関係で」
女はかぶりを振った。またインターホンが鳴る。仕方なく玄関に向かう。戸を開けると警官が立っていた。
「夜分にすいません。実は近所で子供のオオカミが逃げ出しまして、捜索しています。何か気づいたことはないでしょうか?」
「いやあ、何も気づきませんでした。オオカミですって? 逃げたのはどこですか?」
「須見野公園の近くで輸送中の車から逃げたんです」
「ここからはけっこう離れてますね。何時頃に?」
「午後三時過ぎです」
「時間もだいぶ経ってる。そのオオカミの子は危険なんですか?」
「まだ離乳前なので自分から人を襲ったりはしないはずなんですが、切羽詰まれば噛みついてくるなど危険がないとはいえません。もし見かけたら決して手を出さずに直ちに110番に通報してください」
「わかりました」
「よろしくお願いします」
警官は持っていた紙挟みにささっと記入すると身を正して制帽のつばに手をやり、「失礼します」と言って出て行った。

居間に戻ると女がこちらを見た。
「警察だったよ」
そう言った時に注意して女を見たが動揺の気配は少しも見られなかった。
「近所で子供のオオカミが逃げたんだそうだ。それで警察が探してる」
「オオカミが? 何でこんなところに?」
「さあ、それは詳しくは訊かなかった。車から逃げ出したと言ってたから動物園に輸送中とかそんなことじゃないかと思ったけど」
「そこらにいたら怖いわね」
「まだ離乳前だから人を襲ったりはしないはずらしいけど。知らずに近づいたりしたら向こうも怯えて何をするかわからないということはあるみたいだ」
「オオカミの子って見たらわかるの? 犬と区別がつくの?」
「そう言われればオオカミと犬は近い種だし、子供だととうてい分からないかもね。首輪のない子犬が一匹でうろうろしていたらまあ、通報するしかないだろう」
「そう言えば、そう言えばじゃないけどさっき棚を見てたらデュオコードのCDをたくさん買ってるのね」
「ああ、そう、ファンになったんだ」
「私が聴いてた時はそれほど気に入った風でもなかったのに」
「その後にファンになったのさ」
「ふうん、アカネとオリビアとどっちの方が好き?」
「声はアカネの方が好きかな。でも、どちらも好きだよ。デュオコードが今の僕の癒しだ。唯一の癒しかもしれない」

女が目を見開き、逼迫した声でしかし低く囁いた。
「あの、何か今動いたような気がするんだけど」
私の肩越しに庭を注視している。私も急いで振り返る。
「何かって何?」
「動物だったかも」
「まさか子犬くらいの大きさの?」
「うん」
私はその場で立ち上がって庭に目を凝らす。しばらく身動きもしないで暗い庭を凝視していた。
「何も見えないな。庭のどの辺?」
「右の方へ動いてったように見えたの」
そろりそろりと開け放した縁側に近づく。何も見えない。またじりじりと前に進む。さらに進む。もう縁側のすぐ手前、一歩踏み出せば板の上だ。何かが動いた。
「何かいるな」
「オオカミ?」
「わからない。動くのがちらっと見えた」
さっきから二人とも声を潜めている。女がゆっくりと隣まで移動してきた。植え込みから顔が覗いた。薄暗い明かりの中に浮かぶ白くて丸い頭。そこから動かず出てこない。人と動物は身動きせず見つめ合う。
「これオオカミ?」
「いや、オオカミじゃないな」
「ただの猫じゃない?」
「うん、そうかも」
「なんだ。こんな時に紛らわしい」

そのとき動物が前に出てきて全身が現れた。白いがっしりした身体に浮かぶ縞模様、顔にも猛獣らしい縞が見て取れる。脚がとても太い。
「猫じゃないわね」
「うん、猫科でもトラとかの猛獣の子供って感じだ」
「警察はオオカミだって言ったのね」
「うん」
「おかしいわね」
「聞き間違えじゃないつもりだけど」
知らせに来た警官の顔を思い出した。若くていかにも頼りなさそうな感じがしてきた。
「どうする?」
「110番しよう」
「その間に逃げちゃわない?」
「それはそれで仕方ない」
「牛乳あげてみる? 逃げ出した子ならきっとお腹空いてるでしょ」
「そんなことしたら危ないだろ」
「まだ離乳前なんでしょ」
「それはオオカミのときの話だ」
「とにかくまだ子供には間違いないから。私あげてみる」
「だけど、牛乳の買い置きがない。あいにくと」
「あん」

これまで人間がこちらを注視しながら何やら話しているのを見ながら、その動物は逃げもせずこちらに注意を向け続けている。人を怖れていない。たぶん人に飼われていたのだろう。でなければ二人を獲物にしようと狙っているか。女が急に思いついたように言う。
「そうだ。大人の粉ミルクは? まだ残ってるんじゃないの?」
「え?」
「ほら、色んな栄養が採れて割安だからいいと言って飲んでたじゃない。途中でやめちゃったけど」
「ああ、スキムミルクのことか?」
「そう。口を開けてないのはずっと捨てないでとっておいてたわよね。どうせまだ捨ててないんでしょ」
「でも、もうずいぶん古い。何年も前のだ」
「でも、いつか自分で飲むかもしれないと思ってとってたんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「取ってきてよ。原料は牛乳だけで何も足したりしてないんでしょ。だったらこの子が飲んでもきっと大丈夫でしょ」

全身が真っ白な猛獣の子供らしい動物はぬるま湯で溶いて皿に入れたスキムミルクを一心に飲んでいる。私はその様子を見ながら110番をして事情を説明する。住所を言って電話を切る。
「すぐに警官が来るって」
「よほどお腹空いてたのね。息もつかずに飲んでる」
動物はミルクを飲み終わっても皿の前を離れず、くつろいだ様子で座っている。あまり待たずに呼び鈴が鳴った。玄関を開けるとオオカミが逃げ出したと知らせてきた若い警官とつなぎ服の若い女の二人が居た。警官は若い女の方に伸ばして、
「こちらは動物園の飼育員です。捕獲の手伝いをしてくれます。まだ逃げずに居ますか?」
二人を縁側に案内すると飼育員の女が声を上げた。
「良かった! マッハ!」
飼育員は玄関で脱いで持っていた靴をすばやく履くと庭に降りていく。飼育員は穏やかにしゃべりながらゆっくりと動物に近づいていく。
「マッハ、怖かったのね-。知らない所に来ちゃったねー。ここは知らない場所だねー。もう心配ないからねー。私が来たからもう大丈夫よー」
女が腰を落として近づいていき、しゃがんだ体勢で白い頭に手を伸ばすと動物はおとなしく頭を撫でられた。それを見ながら私は警官に訊いた。
「これが逃げ出したと言ってた動物ですか?」
「はい。飼育員が確認したようなので間違いないと思います」
「これはオオカミじゃないですよね?」
答えは庭の飼育員から返ってきた。
「ホワイトタイガーです。マッハという男の子です。本当にありがとうございました。助かりました。今日中に見つけられなかったらと思うと心配で胸が張り裂けそうだったんです」
私は飼育員に向きなおって言う。
「それは良かった。で、他にオオカミも逃げたんですか?」
「いえ、この子一頭だけですよ。何ですかオオカミって?」
首を回して警官の顔を見る。
「どうも情報の伝達中に不備があったようで、みなさまに不正確なことをお伝えしてしまって申し訳ありませんでした。いずれにしても捕獲できてよかった。捕獲にご協力いただき、心から感謝します」

檻に入れられたホワイトタイガーと飼育員と警官は去っていき、家の中はまた二人だけになった。女が言う。
「ずいぶん時間が経っちゃった。今日はもう何をするのも無理ね」
私はしばらく考えをまとめるために黙っていた。それから話し出した。

「スキムミルクのことを知っていたのは決定的だった。いくらなんでも他人がそんな知識まで準備してここに来ることができるわけがない。警官と飼育員までが最初からの筋書きだったならあり得るかもしれないが。いや、それでも家に牛乳があれば出番のないはずの知識だ。そこまで用意周到にするなんて相当な話だ。うーん、どうもはっきりと頭が回らないが。とにかく、ええと、そもそもホワイトタイガーを調達してまで私を騙す理由なんてとうてい考えられない。だから元に戻って君が本当に僕の妻なんだと考えるのが一番無理がない」
女は黙って聞いている。表情からは何も読み取れない。
「でも、やっぱり君は私の妻ではないと思う。顔の違いだけじゃなくて、話の受け答え方が全然違う。そもそも妻は私の話をしばらくでも黙って聞くことができないたちだった。今日は私の話をちゃんと聞いて、その上で返すということを一貫してやっている。それにユーモアも違う。火星旅行の冗談なんか絶対に妻の口からは出てこなかったはずだ。だったら君は誰なのか」

女の目を見ながら続ける。
「スキムミルクのことを知っていて当然の人間がもう一人だけ居る。それは私自身だ。君が私だとしたら、受け答えの仕方も、ユーモアのセンスも何もかも辻褄が合う。そう考えると全てが落ちつく。ひとつだけ、私が実は今ずっと自分と話していたということを受け入れれば。

そうだとすると、今起きていることはどういうことなんだというと、それは良くわからない。夢を見ているというのはあり得るかもしれないが、それは違うだろう。夢の中ではどんなにおかしな事が起きてもただ受け入れるだけだ。おかしな事をおかしいと感じて綿密な理屈を立てて細かく検証するなんてことは絶対しない。あるいは、事故にでもあって死にかけて昏睡状態でみている幻覚なのか。それについては全然知識がないのでこれ以上否定も肯定もできないが。

あるいは肉体じゃなくて精神的な傷害のほうかもしれない。今は催眠状態で何かカウンセリングを受けているのか。そのカウンセリングの最初の頃には私が妻との出来事を思い出すように仕向けられていた気もする。それなのにそれには乗せられなかったということだったのかもしれない。真相はわからないが。とにかく今のところは。今が終わった先があるなら、その「先」次第ではわかることがあるかもしれないが。

顔が全然変わっているのはどういう意味なのか。それもわからない。でも今の顔は話しやすい顔だ。ちゃんと話を聞いてくれそうだと思う。そういうことで私が造り出した顔なのかな。もしかしたらね。わからないけど」

ここで口をつぐんで相手の顔を見る。何か言うのを待つ。だが、ずっと黙ったまま。女の表情に何か変化があるかと注意して見たが特に変化はない。さらに黙っているととうとう女が言った。
「ずいぶん遅くなっちゃったから、今日はもう何もできないわね」
さっきそれを言ったのをまるで無かったかのように。なんだか部屋が急にしんと静かになったような気がした。

頭にあることが浮かぶ。
「そうだ。ひとつ思い出したことがある。言う機会があるうちに言っておきたい。何年か前に甲府の山の中で私と妻が二人で偶然見つけたレストラン。外から見てステンドグラスが綺麗だったところ。食べたかったけど時間がなくてあきらめたところ。この前、行ってみたらとても良かったよ。君、か、つまり妻が絶対に気に入る味だった。だから機会があったら行くと良いと思う。それを言っておきたかった」
「今日はもう遅いし、仕方がないからまた今度来ることにする」
現実感がさらになくなった。劇中に俳優の一人がシナリオを外れてしまって台詞が合わなくなってしまったような。

「自分に向けた独りごとかもしれないのに、レストランのことを言っておきたかったの?」
不意をつかれた。今のは本当に女が言ったことだろうか。顔を見直すが表情は相変わらずすました表情のまま。
「うん、もう言えないと思っていたことを言うことができて満足だ。今日のことはまったくおかしな出来事だったけれど、これだけは良かった」
「食事の後片付けをしなくて悪いけど、遅くなったからこれで帰る」
女は立ち上がって、もう背を向けて玄関に向かう。私も後からついていって靴を履いている女の背中を見る。
「君は本当は誰なんだ?」
振り返った女は無表情のまま。そして顔も全く見知らぬ顔であることに変わりない。
「それじゃあ」
あっさりそう言うと女はドアを開けて出て行った。ドアはスプリングの力で自動的に閉まった。閉まった扉に気づいてじっと扉を見つめながら考えた。

玄関は本当は引き戸だった。思い返しても、警官が最初に来たときも後から飼育員を伴って来たときも引き戸をがらがらと右に開けて迎えた光景をはっきり覚えている。

ここはどこだ。振り返らずに、ドアに向いたまま考える。そうしていると部屋の間取りが頭に浮かんでくる。ここはマンションの六階だ。そしてここは自分の家だ。今住んでいる自分の家。

さっきまでの一軒家は前に住んでいた家だ。妻と住んでいたその家。あの家を思い出すときはいつも庭の枝振りのりっぱな桜の木といっしょに思い出す。毎年桜の季節にはそれは綺麗だった。夏の盛りの今頃は葉が茂って堂々とした古い樹齢の姿があの路地の景色の一部となっているはずだ。もうずいぶん前にあそこから引っ越した。妻とは引っ越しの片付けの時に会ったきりでその以来連絡も取っていない。もうみんな済んだことだ。

サンダルを履いてドアを開け外に出る。間違いなく自分のマンションだ。廊下の手すりから下を見ると六階くらい下の狭い道路をヘッドライトをつけた車が一台通り過ぎていく。廊下の様子は覚えている通りだ。見慣れた様子を確かめながらエレベーターまで行ってみる。エレベータの前には誰も居ない。

ボタンを押してエレベーターの箱を呼び、一階に降りてマンションの外に出る。自宅の前の通りの道路と街並み。さっきまでのことはいった何だったのか。もしかして妻の身に何か起きたのか? もし今、そんな知らせを受け取ったら自分はどんな気持になるのだろうか。悲しく思うのだろうか。それとも。

街路樹のプラタナスの根元に動くものがある。子犬だ。こんなところに子犬が一匹でいるとは。首輪はなく、脚が太くてがっしりしている。爪も子犬にしては大きい。こちらをじっと見て動く気配はない。ふとその子犬が首を回し、耳をくるくると四方に動かして何かを探る仕草をした。そしていきなり走り出すと左側の路地に駆け込んで見えなくなった。そしてすぐに右の路地から人が飛び出してきて叫んだ。
「こっちだ」

警官だった。その後につづいて四、五人の警官がネットのようなものを持って路地から走り出てきた。全員が消えた動物の後を追っていった。その中に見覚えのある私の家に来た若い警官もいた。今自分が体験しているのが何なのかここがどこなのかはわからない。とにかくここはオオカミの子供が逃げてまだ警察が捕まえられずにいる世界のようだ。まだまだ暑い夏の夜に皆たいへんだ。

私は振り返って部屋に戻るためにマンションに入る。今から向かうその部屋は玄関は引き戸ではなく手前に引く開き戸だし、六階で縁側などないし、だから当然庭もない、独りで住む我が家。一階のホールには仕事帰り姿の女性が一人エレベーターを待っていた。

そばまで近づくとこっちに気づいた。
「あら」
どの階の人だったか。ぼんやりと見覚えはある。エレベーターが来て女性に続いて乗り込んだときに思い当たった。少し前の時間。つなぎ服を着てホワイトタイガーの子供を捕獲に来た飼育員だ。今は白いブラウスと黒または紺のスカートで雰囲気がずいぶん違うのでわからなかった。この人はここに住んでいたのか? でも捕獲に来たときにはそんなそぶりは何も見せなかった。そして今だって数時間前に私に会ったことを思い出した様子もない。そして、あのときはずっと若く見えたがいま見ると年齢はだいぶ上だ。まるであれから十年くらい経ってしまったかのように。

私と会ったことを思い出すかどうか確かめるために訊かずにはいられなかった。
「逃げた動物は無事捕まえられたんですね」
女は驚いたようだ。
「え、どうしてそんなことを?」
女性はこちらに向き直ってまじまじと私の顔を見る。それから理解した表情に変わる。
「ああ、ニュースになってたのね。動物園のことが。私は今日はニュースも見る暇がなくて」

自分の階が近づいて行き先階を押しただろうかと思ったとき六階に着いてエレベーターのドアが開く。その女性が降りる階を確かめようと行き先ボタンを見る。ボタンはすべて消灯していた。揃ってエレベーターを降りる。エレベータを降りて右に歩いて行くのも同じ。
「ホワイトタイガーもオオカミも両方とも捕獲できたの?」
「全部。あれから全部、とにかくもう全て終わった事。何もかもきれいさっぱり。だからもう何も心配することはないの」
女性は私に向かって晴れやかな笑顔を見せた。そして私に問う。
「今日はどうしてたの? いい日だった?」
「今日は庭木の、…いや」
私達はもしかして同じ部屋に向かっているのだろうか。でも、それももうどうでもいい。彼女の言葉の何も心配はないという中には自分のことも含まれているように感じた。だから私ももう何も心配しなくて大丈夫だ。
「いや、特にこれといったことはしなかったかな。ただ、夕方に気持のいい風が吹いていたよ。それが本当に心地よくていい日だった。そんな一日だった」


              (了)


                

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?