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キャンプの日 ( the non-fiction days )

朝目覚める度に理由を求めてしまう日々の私。そんな日々にもいつかは終わりが訪れる。
the non-fiction days は BAND-MAID の曲名からです。題については「私の作品紹介」も見てください。

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眠りの世界に少しずつ現実が入り込んでくる。

捉えどころのない、しかし妙に親密な印象だけを残して眠りの世界の出来事が少しずつ背景に消えていって、ベッドに横たわる自分だけが残る。目を開けずに考える。起きて何かやりたいことがあるだろうか。

何かひとつでも? PCを立ち上げてメールをチェックする? ネットニュースを見る? それかテレビをつけるとか。音楽を聴く? 朝ご飯を食べる。どれもしたい気がしない。洗濯機を回そうか、あるいはただ起きて窓の外を見て天気を確認するというのは? どれも一切興味が湧かない。まったく何もしたいことがない。そりゃぁ、とりあえず起きることくらいできる。そしたらトイレを済ませてついでに水を一杯飲むことはできる。でもその後にやろうと思う事がない。その後また寝てしまうかもしれない。だったら何のために起きるのか。

結局起き上がったのは一時間も経ってから。このところずっとこんな感じだ。洗面所に立ち顔を洗う前にまじまじと自分の顔を見る。いつの間にか年齢を重ねて、気がつくと目つきまでどこかおかしい。見たいものが何もない目というのはこんななのか。うっすらと生えた無精髭はみすぼらしい。でも剃ろうという気にもならない。この家には誰も起こしに来てくれる人はないし、毎朝出かけて行く決まったところもない日々がもうずっと続いている。いまはまだ今日明日生きるのに困らないとしても、ずっとこのまま過ごしていけるはずもない。そもそも毎日毎日起床する意味を自問するようでは人生と呼べない。

冷蔵庫から麦茶を出して食卓の椅子に座って飲む。差し込む日の光がつくるテーブルの脚の影をただ見る。そうやって朝食を食べようという気が湧いてくるのを待つ。二、三十分して、それから朝食にとりかかって、食べ終わるまでにもだいぶかかる。サラダと、食パンにバターを塗って一枚はチーズ、一枚はハムを乗せる。日によってカップスープを飲んだり。せいぜいそれぐらいなのに。サラダはレタスを切ってサラダスピナーで水気を切る。そんなことだけきっちりする。サラダスピナー。スピナー。スピンさせるもの。サラダを回すもの。回ることでその瞬間、家の中で唯一活発さというものを引き受けるもの。

朝食を食べ終わるとそれだけでひと仕事終えた気がする。疲れを癒すためにテレビを見たり、ネットを見る。それから食器を洗ったり。

昼を過ぎてようやく着替えて家を出る。たじろぐほど日差しが強い。一年で一番暑い盛り。住宅街は人の気配もなく、暑さの中で時間が止まったよう。ひしめき合う家々の間の路地をぶらぶらと歩いていく。汗が顔を流れる。だが歩くのは楽しい。軒先に花を育てている家々。隙間なく並べられた植木鉢にたくさんの花がさまざま咲いている。

別の家では口の広い水鉢に睡蓮を育てている。蕾が膨らんでくる様子をここ毎日と見ていた花が、今日開花していた。睡蓮は花の中でも特に美しさがある。薄桃色のグラデーションの花弁は清らかで穢れない。穢れのない水の精髄が形となったかのよう。いつまでも見ていたい。透明な水の中でひらりと動く姿があった。メダカだ! と思ったがすっと葉陰に入ってしまった。しばらく待ったが二度と出てこない。睡蓮の隙間の水面すいめんを見つめていたら広い水面みなもを吹きわたる風を一瞬感じたような気がした。見回すが、暑い夏の日にまったく無風の路地。

歩いて行くと住宅街の中にぽっかりと小さな公園が現れる。隅に人の居ない鉄棒が起立している。敷地の中央にかたつむりの滑り台。滑り台のコンクリートのレーンはきっと照りつきで座れないほど熱くなっているだろう。もし滑ったら一大事だ。それでもかたつむりの造作はぴかぴかとあたりに安らぎを放射している。盛夏の昼下がり、一帯が平和にしんとしている。

しばらく歩いて車通りに出る。駅に続く道路は雑居ビルが互いに接して建っていて一気に忙しい街に来た。習慣のようにビルの一階にあるコーヒーショップへ向かう。ガラスのはまった木製の扉を手前に引いて入るなじみの店内。たいてい客は一組かせいぜい二組しかない。今日は特に一人の客もいなかった。入り口からやや奥左側にカウンターがあり、そこへ行って注文をする。一人だけの店員はホットコーヒー=ラージの代金を受け取ると、「コーヒーができたら席へお持ちします」とこの日は言ってくれた。店員は曜日によって人が違う雇われとおぼしき白ワイシャツ黒ベスト統一コスチューム。カウンタで待たずに席に進むよう言ってくれたのは年若い今日の女性。

いつもの大きなガラス窓の前の横長テーブルと横長ソファの隙間にいったん腰をおろし、よっこいしょよっこいしょとおしりをずらして壁際の大きなガラスにくっつく位置に落ち着く。外の景色は道行く人々の腰の位置が視線の高さに来る。すぐにコーヒーが来る。この店は二階までの吹き抜けになっている。そのくせ床面積は狭くて、結果店全体が縦長だ。コーヒーショップとしてはちょっと珍しい。たいていは籠もれる場所という感じなのだが。ここはまるで教会にいるような感じ。天井が高い空間に居るとは自分がいつもより小さな存在という気がする。店の外のずっと高い空の下にいるときはむしろそんな気はしないのに。

道行く大型トラック、軽トラ、宅配の車、乗用車、バイク。みな目的へ向かって走っている。反対車線の車は皆逆方向へ走っている。それでも逆方向なりに彼らなりの目的に向かっている。歩道を歩く人もみな目的へと早足で歩いている。

三、四十分そこで過ごして誰とも話すことなく店を出る。外は相変わらずじりじりと暑い。スーパーの方へ向かう。晩ご飯の買い物をしなければならない。晩ご飯を思うと気が重くなる。朝起きてやっとご飯が済んだのに晩のことを考えなければならない。昼飯はもう嫌になってだいぶ長いこと食べていない。

スーパーに着いて自動ドアが開くと冷気が一気に身体を包んでほっとする。早い時間はここも人気ひとけがない。最初に弁当のコーナーに行くが見る前からどれもすっかり食べ飽きている。あらためて店内を見て回る。この店に通いすぎていてめぼしい物は見つからない。変わり映えのしないマンネリメニューが頭の中にどんよりと居座る。こうやって悩んでいる時間。さらに買い出しが終わってその先に支度をして、最終的に夕食を食べ終わるまでの未来の時間が気持ちにずしりと来る。食事をすることに毎日毎日多くの時間を費やしている。一日に、食事以外にたくさんのことができていたのが遠い昔の気がする。

パックされた肉が並ぶ売場に来て、ふと、こんな一日の時間配分はまるでキャンプをしているようだな、と思う。キャンプでは食事のためにたくさんの時間を費やすもんな。そもそも火を起こすのが大ごとだし。食材の調達も、水を汲んでくるのも、湯を沸かすのも、食材を切るのも、焼くのも、暖めるのも。おかずの魚を釣るのは食材調達じゃなくて遊びにいれてもいいけど。要するに大半の時間を食事のために費やしている。キャンプはそれを大勢でやるから楽しいイベントだ。時間配分だけそっくりでも、今していることはひとかけらも楽しいことはない。

今日の夕食はキャンプをテーマにしよう。焼肉用の牛肉パックをカゴに入れる。タマネギとか焼く野菜。トウモロコシも焼きたいけど家に焼き網は無かったな。魚焼きグリルでやってみるか。あれこれキャンプの時のメニューを思い起こしながら買っていく。スイカは?  キャンプらしいし、久しぶりに食べたい。けど、まるごとは無理だし八つ切りでも大きすぎるのであきらめる。

レジはたくさんあるが店員の居るのは一つ。私が商品のカゴを台に乗せると淀みなく流れるように値段をスキャンして別のカゴに移していく。その間、私の顔は特に見ることはない。精算を終えて店を出る。

外の暑さはまだまだゆるんでない。それに少し買いすぎて荷物が手と肩に重い。アスファルトの車道の端の白い線の外側の狭いところを歩いていく。五分ほど歩いたらビニール袋が手の平に食い込んで痛くなってきた。息も切れてきた。道が少し上りになっているし。山道のすぐ外は見下ろすような崖で見晴らしがいい。ところどころの木立の下は涼しくて少し元気が出る。そして大きな木が並ぶ木陰に入ると凄い蝉時雨。こんな大きな音はめったに聞かないと思う。音が物理的な物として身体を包んでいるようで陶然とする。道を上りきって下りにはいると木立が途切れずその陰を行けるので助かる。が、荷物で手が痛いのはどんどん強まる。ガードレールの切れ目があるところで舗装の道を離れ草の生えた細い道に入る。ここまでくればもうすぐだ。道はどんどん下っていく。せせらぎの音が聞こえて爽やかな風が感じられる。空気が人里を離れた場所のかぐわしさに満ちている。

川べりに出た。浅瀬を靴が濡れないように石づたいに渡って、テントの前にビニール袋を置いて一息。手のひらをさすって痛みが引くのを待つ。テントを開いて中をあらためる。当たり前だが昼過ぎのここを出たときと何も変わりない。湿気を飛ばすためにジッパーを開いた寝袋も朝起きたまま。

ここで寝泊まりしてもう何日になるだろう。固い地面を感じるところで寝るのもすっかり慣れた。クーラボックスを開けて肉を入れる。買い物をみなテントに仕舞うと、テントの外の大きめの石に腰かける。キャンプ用に整地された場所。なのにテントは自分のひとつだけしか設営されていない。夏のシーズンなのに、とりわけ学生は夏休みの最中だろうに皆何処にいるんだろう。

太陽の位置を見ると日暮れまでに四時間くらいか。暗くなる前に夕食を済ませてしまわないと。だけど、どうしても気が向かない。キャンプ場での一人の食事の支度は飽き飽きした。もう何ヶ月もキャンプをしている。そもそも私はどうしてずっと一人でキャンプをしているのだろう。

少し気分を変えたくなってテントに上半身をつっこんで青くて重いプラスチックの円盤が中央で太い軸で繋がっている手の平大の遊具、ヨーヨーを取り出す。足場のいい所に肩幅に足を広げて立ち、巻いた紐の端を中指に通して、手首を利かせてヨーヨーを地面へ向けて投げる。凝った技は知らない。ただ何回ちゃんとヨーヨーを上下できるかに挑戦する。10回、15回、20回。今日は調子がいいぞ。ヨーヨーが上がってこなくなったら糸を巻いて繰り返す。いつまでもいつまでも。人のいない川べりに気持ちの良い風が吹き渡っていく。

食事を終え、日が暮れ、椅子代わりの丸太に腰掛け、焚き火をずっと見つめる。焚き火と言っても薪が燃えてるわけじゃない。どういうわけかこのキャンプ場では夕方になると地面の所々から炎が吹き上がる。その炎で煮炊きもできる。そんなキャンプ場の施設なんて聞いたことがないけど。そういえばここの地面は真っ黒な砂のようでキャンプをする普通の川べりの丸みを帯びた小石の地面ではない。天然ガスが地表に噴出する地域なのだろうか。そんな地下にガス田のある場所もあるらしいが。でもここでは昼間は消えているのに夕刻に勝手に火がつくのはどういうことなのか。

座っているほんの10m先は火の光が届かない漆黒の闇に包まれている。炎はたまにに2mくらいの高さにまで立ちのぼり、その時は闇を払う範囲が広くなる。もしそこに何か恐ろしいものが潜んでいたらどうしようとずっと心配だ。だから闇に目をやらないように炎を見つめている。

黒い砂地の漆黒の闇の中いたる所で立ち上がる炎の様子にもしかすると地獄はこんな景色なのではないだろうかと思う。火を一人きりで見つめていると現実感が去って辺りがよそよそしくなって、作り物の世界に身を置いているような気がする。何かの間違いで構築された架空に吸い込まれてしまったような。

切実に誰か話し相手が欲しい。今日の夕食のことを話したりしたい。魚がつれなかったので保存食のハムを焼いてメインのおかずにしたこと。油をケチったので少しフライパンが焦げ付いてしまったこと。飯ごうのご飯は今日はうまく炊けたこと。煮た野菜とかをそろそろ食べたくなったこと。そうだ、じっと焚き火を見ていると何かを召喚できるような気がしてくる。話をすることのできる何ものかを。

暗闇を恐れているのに。召喚に応じて現れる創造物なんてどんな魔物か知れないのに。あえてそれでも呼び出そうという矛盾した行為。だが、そんな理屈はどうでもいいくらい孤独の苦しさが強い。一人のキャンプがもうずいぶん長い。一人でいるくらいなら、魔物だろうと幽霊だろうとここに居て欲しい。召喚するにはきっともう少し火の勢いが強い方がいいだろうと思いながら火を見つめている。すると炎が確かに勢いを増してきた。

これなら本当に何か召喚できるかもしれない。話したい相手のイメージをはっきり掴もうとする。姿形すがたかたちは浮かばない。ただ会話するイメージだけ。自分の話を正面から聞いてくれる、自分よりたぶんちょっと年上の感じ。しかし実は何万年も生きているという雰囲気を醸し出す存在。こちらの話を聞いてすぐ理解できるほどに賢くて自分に考えが近いが、少し奔放な所があり、突拍子のない事を言ったりもする。そんなイメージをしっかり持ってひたすら召喚しようと念じる。

夜遅くまでその努力に没頭した。しかしフクロウ一羽も現れることはなかった。

翌日目が覚めたときはもう太陽が真上だった。昨日の夜は長い時間根を詰めすぎた。孤独の苦しさがつのって、寝る前に缶ビールをいくつも空けてしまった。飲み過ぎでだるい。空腹を静めるためにあんパンを口に詰め込むように食べた。そのあとは丸太に腰掛けてとりとめもなく浮かぶ考えに身を任せた。真っ黒な砂が広がる中にぽつんとテントがある風景の中。

やがて川のことを思い出した。川はどこにあるのだろう? 昨日確かに魚釣りをしたはずだが。ここからはどの方向にも川は見えない。少し先に砂がいくぶん高くなっている所があり、それが同じ高さでずっと左右に続いている。あれが川の土手でその向こうに川があるのだっけ?  腰を上げ、その場所まで歩いていってみると、そこは単に地面が高くなっているだけで、ずっと先まで見渡しても川はなかった。

見に行った甲斐なく戻り、再び丸太に座る。しばらく地面を見ていた視線をふと上げると遠くに人影があった。まっすぐこちらに向かっている。全身黒い服で暑い日に黒いフードを頭からかぶっている。フードから覗く白い顔が光るようにひときわ目立つ。女だ。ひらひらとした布が集合したような形のよくわからないゆったりした服装。黒いブーツはヒールがあるようだが砂に足を取られることはなく着実に歩んでいる。足の交互の動きにつれて黒服の形が一瞬一瞬変化し、総じて身体のラインが分かる。とても細くて腰高でスタイルが良い。そして堂々と自分の領地を行くかのように歩く一歩一歩が自信に満ちている。

女は私から視線をそらさずに近づいて、とうとう目の前まで来た。立ち上がった方がいいのだろうか。女の顔は氷の彫刻のように繊細で美しい。フードの脇から見える黒髪は背中まであるほど長いようだ。女の上から見下ろす表情は冷淡で自分の王国に侵入したことを咎めているかのようだ。吸い込まれるように顔から目が離せない。女が口を開いた。

「キャンプ場は今日で夏の営業は終わりだから。ちゃんと後始末して出て行って」
低い、しかし豊かな声。しばらく返事ができなかった。
「あなたは?」
「ここの管理人」
「管理人?」
「そう言ったでしょ。えーと、あなたのレンタル品はと」
女は服のどこからか黒表紙で手の平サイズの手帳を取り出すと長い爪でページをめくり出す。爪も黒い。あたかも今日死すべき人間の名を手帳の中に探しているかのようだ。歩いている時は分からなかったが腕は肩口近くまでむき出し。そういう服装だった。細くて白い腕が動くのを見ながら、さっきの言葉がやっと自分がしなければならない行動として意味を成した。
「ここを出て行く?」
「そう。テント一式、寝袋、クーラボックス、バーベキュー焼き網、それぞれ一個。テントは畳んで、クーラボックスは空にして。後の物も全部このあたりに並べておいてくれればいい。後で回収に来るから」
「でも、今日で終わりとは思ってなくて」
「秋になるとここの川は増水するの。だから毎年夏の終わりにキャンプ場は閉まる」
やはり川はあるようだ。記憶は間違っていなかった。
「でも、でも急に言われても。明日まで待ってもらえませんか」
「今日でキャンプ場は終了と決まっている。どうにもならない。そして考えてもみて。もしあなたが今晩もここに居て、今日川が増水して、あなたが流されでもしたら、それは全部管理人である私の責任になってしまうのよ」
「それは、分かりますけど」
「だったらちゃんと大人の責任を果たして」
「大人の責任?」
「今日ここを引き払って立ち去ることが、あなたの責任」
「でも、ここを出て何処に行ったらいいんですか?」
女はあきれたように両手を広げた。
「そんなことキャンプ場の管理人に聞いてどうするの? 自分の行きたいところに行けばいいじゃない」
「それはそうだけど、行きたいところがわからないんですよ」
そして自分でも思いもかけなかったことに気がついた。
「そもそもからしてキャンプだってやりたくて始めたわけでもないし」
女は少し言葉に窮したようで、間を置いてから言った。
「馬鹿なこと言わないで。キャンプはしたくてするに決まってるでしょ。やりたいと思う時にキャンプをしてバーベキューを作って、食べて、テントに寝て、そしてキャンプ場を後にする。そういうものでしょ」

返す言葉が見つからないので黙っていた。それで女管理人は私が十分納得したとみなしたようだ。黒表紙の手帳を服の中にひらりとしまった。
「それでは、そういうことで」
背を向けかけた彼女に声をかけた。
「あの、川はどこにあるの」
女はくるりと振り向いた。こちらの顔を見据えるような表情。
「ここにテントを張って泊まってそれで川の場所を知らない」
強い口調にたじろいだ。しかし私のそんな様子を見たせいか、女は表情を緩めた。
「まあ、いいでしょ。私が怒ることじゃないし」
そして、まるで運命を告げるかのように厳かに長い腕を水平に上げると布がはらりと落ちてむき出しの腕が日光を受けて光る。そしてやはり長くて細い人差し指がとある方向を指し示す。
「川はこの先。では」
さっき見に行った砂が高くなっているところの真反対だ。あわてて言う。
「あの、それからもうひとつ。キャンプ場から出るにはどうすれば?」
黒い衣装をひるがえして電光石火で振り向く。何か言葉を投げつけられるかと思って身構えたが女はどうやら自制したようだ。気持を抑えるかのように間を置いてから言った。
「その答なら簡単。キャンプ場から出るには川にある舟で対岸に渡ればいい。誰でも来るときにその船に乗って来ている」

そして、女はどうやら事務的態度一辺倒を幾分緩めるくらいには私に興味を持ったようだ。
「さっきからおかしなことばかり言って。あなた何か事情がありそうね」
確かにのっぴきならない事情の中にある。しかしそれがどういう事情なのかがさっぱり分からない。この場所自体どうもおかしい。そもそもこのキャンプ場の管理人と称する女だっておかしい。服装はともかく容姿がまったくそぐわない。かといってキャンプ場の管理人がどういう容姿でなければならないという決まりなどもちろんない。つまりどこまでが普通でどこから私の普通でない事情のせいなのか全く判別がつかない。だから訊かれたけれど今ここでどう話せばいいのか考えても頭がまとまらない。

「どんな事情か知らないけど」
女は私の沈黙を話したくない意思と受け取ったようだ。自分から話し続ける。
「誰にだってそれぞれ事情があるのよ。でも、誰もが自分の事情を深刻に思いすぎてしまう。世界中で一番自分が大変だとその時は思ってしまうのよね。あなたは今日ここを出て行く心の準備がなかったみいだけど。突然今まで通りでは済まなくなることは誰にでもある。そういうことは避けられない。そしてその時は大変に思えても、行動して後から振り返れば大したことじゃなかったとわかることも多い」
そこまで言うと、黙って私の顔を見まもる。

考えたことではなく、言葉が口をついて出る。
「わたしは、一人でキャンプを続けるのはとても嫌だったんだ。早くその状況から逃れたいと思ってた。だけど、急に今日キャンプをやめて出て行けと言われると尻込みしてしまう。出て行くにしても一人なことには変わりないし」
そして唐突に口を閉じる。女はそれを聞いて少し考えるようだ。それから言葉を宙に刻むかのようにゆっくりと話しだした。
「孤独は確かに辛いけどいいところもある。孤独で苦しむということの一番辛いことは、実は自分で孤独を選んでいることに気づくことなのよね。何が何でも孤独を脱したいと思えば実はそれはなんとかなる。ただ、その代償が大きすぎるかもしれない。どうするかは自分で選ぶしかない」
女はさらに言うことがあるかしばらく考えているようだったが、これで十分話したと確信したようだ。
「私が言えるのはそれだけ。では」
少し間を置いて、
「さようなら」
女はそう言い終わるや否や背を向け、やって来たときと同様に威厳に満ちた歩き方で歩み去った。

小さくなっていく姿をただ見ていた。彼女は果たして昨日の召還の試みで呼び出してしまった相手なのだろうか。召還のやり方が未熟で容姿がモデルのキャンプ場管理人としてこの世に現れてしまったとか。会話は、確かにまあ少しできたし。でも私の話をとことんじっくり聞こうというまでの感じではなかったが。年齢は年上というより年下に見えたが実は何万年も生きている雰囲気もないこともなかった。

いや、そんなことを本当に信じているわけではない。彼女が何万年も生きている魔物であるなどと。昼の光の中で彼女はとても人間らしく見えた。言葉遣いは少しだけ荒かったけれど。とにかくここを出て行く仕度をしなければならない。テントを畳み、それ以外のレンタル品を砂の上に並べた。長らくの住まいはあっけなく消えてなくなった。テントの隅に見つけたネイビーブルーのバックパックに残った私物を全て入れて丸太の上に置く。

そして背負う。大した荷物ではない。歩き出す前に、キャンプ場を出て行くよう告げた人が見えなくなった方角を目をこらして見た。だが建物らしき物も何も見えなかった。出て行く覚悟はどうやらできた。先ほど指し示された方向へ歩き出す。

それからひたすら歩いた。行っても行ってもずっと黒い砂地が続く。いつまでも川は見えてこない。こんなに遠いとは思ってなかった。四方八方どちらを向いても同じ景色。ひたすら前方を凝視しながら歩く。

そしてとうとう水辺についた。しかしそれは到底川ではなかった。

向こう岸の見えないほど広い水の領域が眼前に広がっている。水の面は静かで注意し見てもどの方向にも流れの兆候はない。これは湖だ。それも大きな湖。打ち寄せる波はないし、鼻をつく潮の香りもなく、舐めてみるまでもなく海水ではないだろう。そしてこんな湖は間違いなく今初めて見た。この対岸にあるはずのキャンプ場の出入り口についてはまして何も思い出せない。

岸の右方向の少し離れたところに黒い何かがある。行ってみると手漕ぎボートだった。岸に乗り上げて置かれている。年季物だがオールもあって使う事には支障なさそうだ。キャンプ場を出るのはこのボートに乗るしかないというわけか。向こう岸も見えない湖に漕ぎ出すだと?

そして気がついた。まっすぐに見えた湖の岸が実は左右とも少し湾曲している。そしてその湾曲の具合がずっと先の方まで一定だ。つまり岸がものすごく大きな円の一部を成しているように見える。もし湖がこの湾曲具合のままの正円の形をしているとしたら途方もない大きさだ。脈絡なく、睡蓮鉢を思い浮かべた。巨大な睡蓮鉢の縁に自分がいるような気がしてきた。どうしてそんなことを思ったのか。そしてこの湖を成す鉢の底深くには年古としふりた主である巨大な生き物が身を潜めているかもしれない。

それでも自分にできることと言ったらこの小舟で対岸に渡ることしかない。もうキャンプ場にはいられない。他にここを出て行く方法を知らない。もしかすると女管理人を探しに行くべきかもしれない。川と聞いていたのに巨大な湖だったと。漕ぎ出すのは無謀に思う、と。

それはどうもうまくいかない気がする。誰でもあのボートを漕いでキャンプ場に出入りしていると言っていたし。それがなぜできない、とか言われそうだ。そして、そもそもあの女管理人を見つけられるかどうかもあやしい。どこに居るのか何のあてもないし。うろうろしている間に日が暮れてしまったら。そして本当にこの川/湖が今晩増水してしまったら。

先の見えない水の中に漕ぎ出すのは怖い。しかし、多少やけ気味に、行こうという気持ちも湧いてくる。女管理人が運命のように指し示したのはこの湖のこっち岸ではなくて対岸にある何かだったという気がする。ここからは見えない向こう岸に何か自分がするべきことがあるという一縷の希望。それだけが自分に残されたもの。

彼女にも言ったように、一人きりのキャンプはさみしくてずっと嫌だった。だが、キャンプ場を離れて一人漕ぎ出すとなると、一人キャンプが嫌なのではなくて、ただ孤独が嫌ということだった。

いつからかずっと自分の孤独に真剣に向き合わずに来たように思う。今になって、どうやらどこで何をしていても自分は孤独であるようだ。いつか孤独から逃れられると思ってきたのに。実は孤独は自分自身の半身のようなものだった。だとしたら自分から逃れられるはずはない。

バックパックを手漕ぎボートの中に置いて船縁に両手を掛けて足を砂に踏ん張って力いっぱい船を岸から押し出す。船が水に浮かぶと足を濡らしながら乗り込む。そして、ぎこちなく櫂をあやつって漕ぐ。

この先に待っていることについては全く何もわからない。それでも櫂に全推進力が伝わるように柄を胸に引寄与せて精一杯の力で漕いでいく。はるか遠くまで、自分にとっての何かがあるかもしれない場所に向かって、真っ直ぐずっとずっと漕いで行こう。


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