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「星のない世界」を星煌く世界で歌い続けるaikoはまだ終わらない

七夕の物語では、織姫と彦星は天の川を隔てて離ればなれになってしまった。昔の人は遠く離れてしまった二人の距離を、夜空の星間の距離になぞらえて語り継いだ。

このような想い人を星に見立てる表現は、現代にも受け継がれている。著名な恋の歌手である西野カナはこのように歌っている。

Ahなんで 好きになっちゃったのかな(中略)
こんなにも放っておけない人は 星の数ほどいる中で
ねぇDarling あなたしかいない
(西野カナ「Darling」)

どんなに離れていても、輝いていて見失わない。そして、見えるのに手を伸ばしても届かない。星は恋人の比喩としてぴったりなのだと思う。

恋の歌の大御所aikoも、多くの楽曲でを歌いこんできた。aikoの歌でのは、どのようなイメージを孕んでいるのか。「星のない世界」という曲を見てみよう。

「星のない世界」は2007年に書かれたaikoの22作目のシングルだ。

あたしの髪が伸びて 驚く程久しぶりになってしまわぬ様に
昨日より少しだけ多めに あたしの事を考えてほしい
初めて逢った日にもう一度逢いに行って そしてまた同じ様に
ぎこちなく合った目の奥に いるあたしを愛してほしい

曲の冒頭はこんな感じ。少し離れたところに居るのであろう「あなた」への恋慕はいかにもaikoっぽい。問題はこの後に来るサビ前のフレーズである。

星がない世界なら 目を閉じて証明するのに

普通、星が恋人の比喩ならば、
・恋人に出会えてない→星が見えない
・恋人に出会えた→星が見える
と語るのが普通と思う。
それに対しaikoは「星がない世界なら目を閉じて証明するのに」という。一体、どういうことか?

星は恋人の比喩であり、aiko風に言えばあなたのことである。
つまり「星がない世界なら」とは、「あなた」がいない世界ならぐらいの意味だだろう。

「あなた」がいない世界なら「目を閉じて証明」できるとaikoは言う。
人は目を閉じるとどうなるか?当然、真っ暗になり何も見えない。視覚がなくなることで、自由に空想ができるようになる。全て自由にはできない「あなた」でさえも、自分の思い通りに、至上の愛を証明することすらも……

西野カナ(をはじめ他の多くの恋の歌うたい)は、現実の恋人を「一番輝かしい存在」として星になぞらえていた。
しかし、aikoは現実の恋人を輝く星になぞらえつつも、それ以上の理想が空想上に存在することを歌っているのである。

では、理想よりも劣る現実の恋人は他愛もないのだろうか?
サビのフレーズを見てみよう。

とても大事な宝物をあたしはやっと手に入れたんだ
胸が病みそうで 不安に溺れそうになったら
真っ直ぐにあなたを思い出すよ

「閉じ」られないaikoの目には、「とても大事な宝物」が映る。すなわち、空想に逃げ込めない理由は(空想より劣るはずの)「あなた」をその目で見たいからだとわかる。なんと複雑な構造か。

ただし、「とても大切な宝物」とはいっても「あなた」は人間である以上、不完全だ。aikoの暴力的なまでの愛の欲求を満たしてはくれない。
そこで「胸が病みそうで不安に溺れそうになったら」aikoは「あなた」を思い出す。つまり、あなたを介して理想を空想するのである。

空想と現実との間には、当然、ギャップが存在する。そのギャップは徐々に大きな歪みとなり、いつか亀裂が生じる。

夏が来る手前の 冷めた風が首をさらった

2番のサビ前にこの1フレーズが脈絡なく挿入されている。前後の文脈と離れた嫌な感じのイメージだ。夏は恋の季節。人々の生命力が高まり、恋の気分も盛り上がっていく中で、一瞬、首をさらう冷たい風。まるで、夏には必ず終わりがあり、秋、そして孤独な冬が待っていることを示唆するかのようだ。

目の前の「あなた」を至上の存在として捉える人は、このような歪みに苦しまず人を愛せるのだろう。けれどもaikoは膨大な愛を持て余し、目の前の人では足りず、空想の世界まで飛翔してしまう。

aikoは今でも恋の歌を歌い続けている。残酷なことに、その空想こそがaikoの歌の源泉なのかもしれない。aikoの歌は目の前の現実に留まらないからこそ、あらゆる人の体験に入り込む波及力があると思う。
いつか、aikoが目を閉じる必要を感じず人を愛する時が来るのだろうか。もしかするとその時は、aikoが歌手を辞める時なのかもしれない。

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