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遠藤一郎「ちょっとほふく前進やってます」

生きとし生けるものとの連帯

遠藤一郎の今回の個展は一般には公開されない。作家自身がEメールで50通出したという招待券を持った人しか入れないという。

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でも本当はそんなこともなく、招待券はアートセンター・オンゴーイングのホームページから誰でもダウンロードできると遠藤は笑うのだが、それでもこの展覧会は観る人を選ぶ。それは遠藤からのメールにあった以下の文言から察せられる。

はっきりと見たいと思ってくれる人、意識のある人に見てほしいと思うのです。それが大事で嬉しいです。必要な人は見逃さないで下さい。

アーティストがこのように書くことはあまりない。なんだか切実な思いが伝わってくる。

今回の新作は約40分の映像作品「足元から、こんにちは」。冒頭から最後まで遠藤一郎がただひたすらほふく前進をしている、それだけの映像なのだが、映像の中の遠藤はちゃんと腰を左右リズミカルにローリングしながらひじとふくらはぎを使って実に巧みに前へ進んでいく。ほふく前進がものすごくうまい。

うまいのには理由がある。じつは遠藤は10年前にほふく前進をパフォーマンス作品にしたことがある。2009年水戸芸術館で開催された「Beuys in Japan: ボイスがいた8日間」に合わせ、日本人作家による併催企画として遠藤一郎に白羽の矢が当てられ(当時同館学芸員だった高橋瑞木さんの企画だった)、遠藤は毎日8時間水戸芸術館の中庭をほふく前進するという体当たりのパフォーマンス「愛と平和と未来のために」をボイス展の会期46日間にわたって行ったのだった。

たぶん、未来芸術家を自称し「未来へ  GO FOR FUTURE」を合言葉に掲げる遠藤はヨーゼフ・ボイスの思想に共鳴し呼応するために、前に進むという行為にもっとも身体的な負荷をかけるためにほふく前進を選んだのだと思う。ボイス曰く「すべての人は芸術家である」。このとき来場者は遠藤といっしょにほふく前進をすることで遠藤と同じ未来芸術家になった。

みんな最初は床を這う赤ん坊だった

今回、40分間のほふく前進の映像を見ながら重大なことに気がついた。それは、ほふく前進は赤ちゃんのするハイハイとひじょうによく似た身体運動だということだ。サン=テグジュペリの『星の王子さま』風に言うなら「誰もが最初はハイハイをしていた、でもそのことを覚えている大人は少ない」。ほふく前進は戦争時に敵弾を避けて前進する術である以前に、人が生まれて最初にする移動の術だったということだ。歩兵術と赤ちゃんのハイハイは対極にあるもののようでありながら、生き残り=生きるための技術としてじつは共通していることも奇妙だ。

赤ん坊はハイハイをすることで世界(の表面)を確かめながら前へ進み、自分の世界(の認識)を拡げていく。しかし、1歳になる頃にはつかまり立ちを始め、やがて歩き始めてしまう。同時に言葉を覚え、人間の社会の一員になってしまうとそれ以前のことをすっかり忘れてしまう。立ってする生活を始めてしまうと、立てなかったときなどなかったかのように──最初から立って言葉を使っていたかのような顔をして自分勝手に生きている。

遠藤のするほふく前進は、人が立って歩いて移動する生活以前の状態や存在に戻るための行為だ。おそらく人が二足歩行することによって道具や火を操り、すばらしいものやくだらないものを作り、言葉によって真理を探究したり複雑な仕組みを構築したりして人が人や自然を支配をしてきたことをいったん消去すること(いいことも悪いことも全部)。そのことによって現代社会のさまざまな矛盾を乗り越えていこうという意思の表明なのではないか。人は芋虫や蛇と同じレベルで大地を這うことからやり直さなければならない。

ほふく前進をするだけのサイレントの映像には途中さまざまな出会いや笑いを誘うハプニングもある。これはロード・ムービーよりさらに路上に密着したオン・ザ・ロード・ムービーだ。そして、ラストにのみ音声とテロップ文字が入り、私たちのよく知る現実に立ち戻される。虫の声や路上を行き交う車の音。それらをかき消すように挿入された遠藤一郎自身のモノローグ──というよりは声量の大きなシュプレヒコール──が10年前の映像作品「愛と平和と未来のために」とあえてそっくり同じ台詞であることを、おせっかいかもしれないがそれを知らない人のために指摘しておく。

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会場にはほふく前進に使用した服と靴が掛けられている。昔ワタリウムで観たヨーゼフ・ボイス展でフェルトのスーツ上下が掛けられていたことを思い出した。

上映後、遠藤一郎がカッパ師匠の姿で出迎え、自作のお茶を入れてくれた。静岡出身の彼は富士山とお茶に目がない。このお茶は現在拠点にしている大分県国東半島にある休耕状態の茶畑を借りて自分の手で育て独自の製法でつくったという。こうして話をしながらおいしいお茶を飲んでいると、彼の立てるお茶は作者と観者をつなぐメディウムとしてつくられていることが内臓の粘膜で感じられる。土を耕すこと(カルチべイト)が文化(カルチャー)の語源であることに加え、作物の中でも食菜とは異なりお腹の足しにはならないお茶は太古から伝わり近世に様式化されたメディア=アートのようなものといえる。

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カッパ師匠のコスチュームに身を包む遠藤一郎。腹には昔から合言葉にしている「やればできる」というメッセージが書かれている。なぜカッパなのかは、それが人間ではない、生物学的な生き物でもない、ということなのだろうが、当初「ふつう研究所」という名称を掲げ、普通に縛られない生き方の研究の一環としてパフォーマンスやライブペインティングなどの活動を始めた遠藤一郎が、つねに普通の人間ではない存在になろうとしていることは確かだろう。それは普通の人間から見ると普通以下に見えてしまいがちなのだが、人間以外の存在から見るときっと普通を超えた普遍的な存在であるということを、お茶を飲みながら考えた。

そう、カッパ師匠は人間をやめることによって人間らしさを取り戻そうとしている。それはけっして無茶で無理な話ではない。なにしろここにはメディウムのひとつとして(無茶ではなく)お茶がある。そして、そのために必要なことは目の前のカッパ師匠のお腹に書いてある。「やればできる」と。

遠藤一郎
ちょっとほふく前進やってます
2019.09.14 [土] - 2019.09.22 [日]
12:00-21:00 入場料:¥400(セレクト・ティー付き)アートセンター・オンゴーイング(東京・吉祥寺)






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