【短編】五ノ鹿町観光協会案内係(前編)
(4,068文字)
1 名無しの権兵衛さん
「はいっ?」
五ノ鹿町観光協会に勤務する菅野亜希子は素っ頓狂な声を上げた。
自分の声の大きさに気づいた亜希子は、慌てて口を押さえながら見回した。マネージャーの石田と目が合う前に、亜希子は顔を伏せて声を潜めた。
「もしもし、それはどういう意味でしょうか?」
<君は、私の日本語が分かりませんか?>
「いいえ、分かります。一応日本人ですから。そうでは無くて……」
<だから、面白そうな場所を教えて欲しいのです>
「ですから漠然と面白そうと仰られても……」
<死ぬ前に一度は見ておきたい、行った方がいい、見ないで死んだら損するみたいな所ですよ。そこは観光協会でしょう。そういう所を教えてくれるのではありませんか?>
「そうですが、もう少し具体的に言ってもらえないと……」
<私を面倒くさい人間だと思ってますか?>
「いいえ、そんなことはありません」
<でも敬語の段階が一つ下がったでしょう。私の気のせいですか?>
亜希子は、受話器の送話口を手で塞いで、そっと溜息を吐いた。
月に数件、こういうわけの分からないことで電話を掛けてくる輩がいる。窓口だとマネージャーに代わってもらうこともできるが、電話だとそれがやりにくい。
平日の午後三時から五時までの二時間。もうすぐ今日の仕事も終わりだと気を抜いていると、厄介事が転がり込む。亜希子は密かに魔の時間帯と呼んでいる。
<溜息の一つも吐きたくなりましたか?>
「いいえ、そんなことはございません。ただ面白そうと仰っても、その感じ方は人それぞれです。例えば風景がきれいな所とか、史跡とか、具体的な好みをお教え頂ければ、希望に添えるような所をお勧めすることはできるのですが……」
<どこの誰かも分からない人がきれいと言おうが、私には関係ないのです。それに昔の人が造ったものなどには全く興味が持てません>
亜希子は、「では何のために電話をしてきたのだ」と言いそうになる気持ちを抑えて、
「お言葉ですが、きれいに見える自然や風景も、そこに到る道を作った人がいたから、見に行くことができて、きれいだ美しいと言えるのです。どんなに素晴らし所でも、誰も知らなかったら、無いのと同じです」
<無いのとおなじですか>
「ええ。人が見ることができなかったら、美しいもへったくれもありません」
<ほう、へったくれ、ですか>
口が滑った。でも今さら引っ込みが付かない。半分やけになって、
「はい。へったくれです」
と言い放った。
<君は、「へったくれ」と言ったり、ちゃんと「の」と言ったり、面白いですね>
「どういう意味でしょうか?」
受け答えするのも面倒になってきた。そろそろ限界かな。亜希子は、誰かに代わってもらおうかと顔を上げた。ちょうど石田マネージャーと目が合ったが、直ぐに目を逸らされた。私の受け答えを聞いて厄介な相手だと判断したらしい。面倒はなるべく避けて通るタイプだ。
さて話の途中ではあるが、老人との電話が長引きそうなので、ここでこの物語の舞台となる五ノ鹿町観光協会と主人公である菅野亜希子について少し説明しておこう。
ここ五ノ鹿町は、T県の西部に位置し、三方を山に囲まれた小さな町である。唯一開かれた西側には千宗町が接している。海に面した千宗町には広い海水浴場があり、夏場には大勢の人々が訪れる。そのお零れを頂戴しよう(そこまで卑屈になってはいないが)と、ここ五ノ鹿町でも観光協会を立ち上げて集客に努めているところである。
しかし、この五ノ鹿町は、歴史的建造物といっても冴えない猪鹿稲荷神社があるだけで、これといって風光明媚な場所もない、ただただ普通の町である。それでもSNSが何かの拍子で ”バズる” と、一気に観光客が増えることもあるらしい。そんな『瓢箪から駒』的な、あるいは『棚から牡丹餅』的な ”バズり” を期待している嫌いがある。
さて一方の菅野亜希子であるが、彼女は県内の短大を卒業して、自ら希望して五ノ鹿町の観光協会に入社したことになっているが、少し趣が異なるところがある。
亜希子は卒業後、自分捜しとか嫁入り修行と称して、アルバイトを転々としていた時期がある。それを見かねた父親から、
「仕事は楽だし、給料もそこそこいい。県や町からの補助もあるし、公務員じゃないが、みたいなものだから、安定してるぞ」
と勧められた。都会で暮らしてみたいというぼんやりとした憧れはあったものの、それほど強い意志があったわけでもなかった亜希子は、父が言うまま何となく入社した。
五ノ鹿町観光協会とご大層な名称だが、職員は石田雄介マネージャーと七歳年上の田所路子と菅野亜希子の三名だけ。肩書きは案内係となっているが、他に係があるではなく、それでも業務内容は、観光案内、観光情報媒体作成・配付、観光地域づくりなど多岐に亘る。
従って手抜きするつもりはなくても、どうしても行き届かない所が出てくるのは否めない。先輩は面倒な仕事をほとんど亜希子に回してくるので目が回るほど忙しい日々を送っている。父の話とは大違いである。
説明が長くなった。では、本筋に戻ろう。お爺さんと亜希子の不毛な会話は、まだまだ続く。
<分かりました。風景にしましょう。どこか、君が面白い、いや、きれいだと思う、お勧めの場所はありますか?>
最初からそう聞いてくれれば。亜希子は拍子が抜ける思いがした。
「そうですね、この時期でしたら……」
幾つか候補が頭に浮かぶ。と、その前に。
「もっとも私が好きなだけで、写真で見るのと、実際にその場に立つのとでは、風や光が違いますし、またお客様の好みの問題もありますから、気に入って頂けるか分かりませんが……」
<ほう、絡みますね。君は意外に根に持つ方ですか。そんなに予防線を張らなくても大丈夫です。私は君が好きだと思う場所を教えてもらいたいとお願いしているのですから>
「承知致しました。ですが、その前に一つ質問をいいですか?」
<ええ、どうぞ>
「の、って何でしょうか?」
<の、ですか?>
「先ほど『ちゃんとのと言ったり』って、仰いました」
<ああ。それは、先ほど「言えるんです」とではなく、「言えるのです」と言ってたでしょう。その「の」のことです>
「どう言う意味でしょうか。どちらでもいいような気がしますが……」
<いいや。大事なことですよ。若い人の言葉が乱れるのは、教育が乱れているからです。教育が乱れれば、文化が乱れます。文化が乱れれば、国も荒れます。このままでは国が滅びるかも知れません。でもあなたみたいな人がいることを知って、少し安心しました>
特に言葉遣いを意識したことはなかった。強いて言えば所作だけでなく言葉使いに関しても母の躾けが厳しかったことかしら。亜希子は自分の母を褒めて貰ったみたいで少し嬉しくなった。
「そんな大げさな。ありがとうございます、褒めて戴いて……」
<褒めてはいません。ただ少し安心したと言っただけです>
ああ、一々面倒くさい。亜希子が黙っていると、
<もしよければ、君の一番のお薦めを案内して戴けませんか?>
「いいですよ。インスタ映えしますよ、きっと」
<インスタ映え?>
「ええ。スマートフォンのアプリで『インスタグラム』というのがあるのです。自分が気に入った風景や料理なんかの写真を撮って、それをネット上に公開するアプリケーションです。写真が映えていると、見た方の多くから『いいね』って共感されます。それを『インスタ映えする』と言うんです」
<インスタグラム? ネット? アプリケーション? ああ、いいえ、説明はいいです。自分で調べてみます。あなたの話には私が知らない用語が沢山出てくる。脳にとてもいい刺激になります。でも短い会話の中に、これだけのカタカナ語が混ざると、時に私は果たしてこの先日本はどうなるのだろうか、と危惧してしまいます。あっ、電話が長くなりました。それでは今度の土曜日の9時、JRのS駅前で待っています。ではご機嫌よう>
2 田所路子@先輩
ふうーっ。やっと終わった。亜希子は長い溜息と共に受話器を置いた。時計を確認する。
ここまでに費やした時間は……何と三十分強。三日分の体力使ったわ。ほんと勘弁してよ。
隣席の田所路子と目が合った。何か言いたげだ。
「何ですか?」
亜希子が上体を寄せると、田所が耳打ちしてきた。
「菅野さん、大丈夫なの?」
「えっ、何がですか?」
「何がって。さっきの電話よ。聞くつもりはなかったけど、声が漏れ聞こえたのよ。あなた、声が大きいわね。まあ、それはいいんだけど……」
ちっともよくない、よくない。
亜希子が口を挟む間もなく、田所は話を続けた。
「さっきの人よ。菅野さん、あなた、案内する約束なんかして大丈夫なの。見ず知らずの人なんでしょう」
あっ、そうだった。うっかりいいですよって答えてしまった。
亜希子は指摘されて初めて、不用意だったかと気づいた。亜希子は母から、
「あんたは簡単に人を信用すると言うか、疑うことを知らないと言うか。あなたもいい大人なんだから、もっとしっかりしてよ。オレオレ詐欺なんかに引っ掛からないよう用心するのよ」
と口酸っぱく注意されている。
「どうしよう」
「どうしようって。あなたねぇ。私、一緒に付いて行こうか」
「でも」
「じゃあ、断りの電話、したら」
「あっ」
「どうしたの?」
「名前も連絡先も分からない。聞くの忘れてた……」
「呆れた。でもまあ、着信履歴があるから、ダイアルしてみれば……」
田所は自ら手を貸すことはないが、アドバイスだけは適切だ。
亜希子は萎えた心に活を入れて、受話器を取り上げた。
<続く>
よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。