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【ショート・ショート】ヒーロー

「そーっとだぞ」
 靴のまま、僕は静かに川に足を入れる。
「冷たいっ」
 背中は焼けるように熱いのに、流れはしびれるほど冷たい。半ズボンの裾が濡れた。
「そっちに回れ」
 岸にい茂ったかやの葉が垂れ下がって水面に陰を作っている。そういう所が絶好のポイントだと、父から教わった。
「下流の方から、そうっと近寄るんだ。でないと、人の臭いで魚が逃げてしまうぞ」
 僕は抜き足差し足で近づく。

 夏休み。父の実家に行った時のこと。
 所在なくゲームをしていると、父が魚捕りに行こうかと誘う。もちろん僕らに異存はない。
「釣り堀があるの?」
「違うよ、川だ。魚がいっぱいいるぞ」
 僕の住んでいる街にも川はあるが、両岸をコンクリートで固められて、水はにごり、魚の影なんか見えやしない。

 僕らは魚網と魚籠びくとバケツを持って、山を一つ越えた。
 土手には草が生い茂り、そこから川まで少し歩く。川の流れは緩やかで、水は底が見えるほどに澄みきっている。気持ちははやるばかりだ。


 魚を追い出すのが僕で、兄は川下でタモを構えて待っている。
 ――いつも、自分がいい役ばかり。
 川面はキラキラと輝き、薄暗い茂みの奥は見えづらい。足を取られないよう、注意深く進む。
「早くしろ」
 小さいが鋭い声で、兄がき立てる。
 ――そんなに言うのなら、自分がやればいいじゃないか。
 喉まで出かかった言葉をみ込んだ。

「今だっ」
 その声を合図に、僕は足を突き出した。
 キラリ。
 驚いた銀鱗が逃げまどう。が、僕は茂みを蹴った反動でバランスを崩し、尻餅を付いた。思いのほか水位は高く、僕は頭まで沈んだ。
 ――おぼれる。
 僕は必死で水をいた。

「いいぞ、その調子だ」
 僕のことなんかお構いなし。兄はタモを左右に動かし、必死に魚影を追っている。ひとしきり。魚網を揚げて成果を確かめると、慎重に獲物を魚籠に移した。
「ほらよ」
 やっと立ち上がった僕の頭に、兄はずぶぬれになった野球帽を乱暴に被せた。体にべったり貼り付くTシャツが気持ち悪い。僕はすっかりやる気をなくした。
「もう戻ろうよ」
「まだだ。さあ、次行くぞ」


 その時。兄の目が僕の背後に釘付けになった。
「動くな、じっとしてろ」
「えっ」
 兄は魚網を中段に構えた。
「動くな」
 僕の視野の隅を、細長い物が滑っていく。
「何、あれ?」
 兄はまばたきもせず、じっとその跡を追っている。しばらくして兄が息を吐いた。

「何だったの、あれ」
 それには答えず、
「父さんが待っているから、もう戻るぞ」
 兄はそう言うと、いきなり水から上がった。

「離れず付いて来い」
 兄は魚網を逆手に持って、柄で川岸の草むらを払いながら慎重に進む。
 ――いつもなら僕を置いて行くのに。
 水浸しの靴が、キュッ、キュッと音を立てる。土手を抜け、広い道に出た。
 兄は、僕に魚網を放ると走りだした。僕はそれを拾い後を追う。濡れた半ズボンが足にからみ付いた。


 父は僕を見ると、
「随分涼しそうだな」
 と笑った。僕は兄をにらんだ。兄は意に介する様子もなく、
「さっきヘビがいたよ。幸平の後ろを、くねくねと泳いで行ったんだ。あれ、毒ヘビだよ、きっと」
 と少し興奮している。僕は、さっきの影に背中を触られたようで、ぞくっとした。

「それは多分、くちなわだな」
「くちなわって?」
「毒のないヤツだ。それで、もし幸平を襲ったら、俊介、お前は、どうするつもりだったんだ」
「もちろん、やっつけたさ」
 兄は口を一文字に結んで、胸を張っている。
「ほう。さすが先生、勇気あるな。見直したぞ」
 兄がとても格好良くて頼もしく見えた。


「どれどれ、収穫は?」
 兄が魚籠を差し出す。
「おっ、すごいな。ハヤが捕れたのか。これは美味しいぞ。この大きいのは、幸平にやるか」
「いやだ!」

 僕のヒーローは、あっという間にいつもの顔に戻ってしまった。


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