見出し画像

浦上の丘のトマさんー小崎登明修道士のこと~天神亭日乗 5

四月十七日(土)
 長崎在住の絵本作家、長谷川集平さんのツイートに一瞬息が止まった。
「トマさん、お疲れ様。多くのことを教えてくださってありがとう。安らかに。」
 この前日。H先生の研究室で打ち合わせをしていた。どの文脈でだったか忘れたが、古い映画の話になった。昭和六年制作の映画「日本二十六聖人」。この無声映画は教会で上映されるDVDでは弁士を聖母の騎士修道院の修道士がつとめている。それが名演で非常に面白いのだ、と熱弁を奮ったばかりだった。
 
 トマさん——小崎登明修道士、二〇二一年四月十五日帰天。

 私がブラザー小崎のことを話していたときはもう既に天国に旅立たれていたのだ。長崎でもお目にかかることはなかったが、小崎師は私に「長崎」を教えてくれた人である。

 二〇〇七年の師走。私は長崎にいた。
長崎本原の聖フランシスコ病院。浦上の地の病院だ。そこに母が入院し、私は付き添いをしていた。
 手術の前の検査入院の時、品のよい老婦人、Yさんが同室であった。この方もカトリック信徒である。
 ある日、私が病室にいない時にYさんの身体に異変が起こった。痙攣をおこし、Yさんは声にならぬ叫びをあげていたという。母が慌てて看護師を呼びに行き、緊急に処置がなされ、事なきを得た。その日以来、母のことを「命の恩人」とYさんは言い、親しく言葉をかわすようになった。
 ある日、Yさんが何冊かの本を私にくださった。数が十冊を超えていたので、驚き、遠慮したら、微笑んでこう言った。
「従兄の本やけん。ぜひ読んで」
 それが小崎登明修道士の本、聖母の騎士社から発行されている数々の著作であった。

 母の入院は長引き、Yさんが先に退院していった。病室と家との往復。洗濯物を運び、猫に餌をやり、また病院に戻る。長崎はどこも坂。毎日坂をのぼり、くだった。
 ある時、ふと道沿いに、案内板があるのに気付いた。
 長崎の、この浦上のあたりは原爆の遺構が多くある。その案内板が立っているのだ。
 その時見た案内板によると、この病院が元々は神学校だったこと。戦時中は「浦上第一病院」の名で結核患者の病院として機能していたこと。そして八月九日の原爆投下。浦上の地の唯一の医療機関として、医師や看護師がここで救護にあたったという。
 母の命の灯も両手で消えぬように祈る毎日だった。しかし、この地はまさにあの日に何万もの人の命が一瞬のうちに失われた場所。そして傷ついた人々が耐え難い熱さと痛みに苦しみながら、ここに運ばれ、死んでいった場所なのだ。

 Yさんからもらった文庫本の一冊を手に取った。その頃は病室も個室を取り、私は夜も付き添いをしていた。簡易ベッドに横になり、表紙を眺める。原爆のキノコ雲、山王神社の一本柱鳥居、瓦礫となった浦上天主堂、赤ちゃんから青年期までの男性の四枚の写真、これが小崎師だろう。本のタイトルは「十七歳の夏」

 その夏はあの昭和二十年のあの「夏」。
のちに小崎登明となる田川幸一少年の、あの夏の「あの日」がその本には記録されていた。あの日、長崎の少年たちは皆いつものように母ちゃんに「行ってきます」と声をかけて出かけて行った。台所から見える母の笑顔。それが最後の母の姿となるのも知らずに。
 原爆直後の田川少年の彷徨。傷つき、焼けただれた人々の群れ、助けてくれという言葉を振り切って少年は歩いていく。地獄絵図だ。一頁を読むごとに苦しくなる。
 そして、ある場面。それは同じ工場で働く少し年上の男と対峙する場面だ。それは自分をいじめていた男だった。彼が今地面に横たわっている。腹部が裂け、内臓が出ている。
「無傷の私は、彼を見下した。優越感でいっぱいであった。(中略)あざけりの目でなじった。
『ざまア見ろ、くたばったのか』」※
 あのとき、なぜ偶然に彼と出会ってしまったのか。小崎師は繰り返し語る。母の笑顔とともに、この仇の男のギロリとこちらを見た顔が脳裏から離れないのだ。この状況下でも、人を許せなかった自分、その罪の意識を小崎師は一生背負っていく。
 これは彼の「告解」。「罪の懺悔」だ。しかし、あの「地獄絵図」の状況のなかで、人は慈悲の天使になれるだろうか。私は暗い病室で天井を見ながら眠れぬ夜を過ごした。

 その後、私は長崎で三年暮らし、大阪に移った。京都の西陣教会で映画「二十六聖人」の弁士を務める小崎師の声を聴いた。この二十六聖人の一人、トマス小崎少年が、この小崎登明師の名前の由来なのだ。この映画に私は魅せられて、DVDを借りて何度も見た。いつか小崎師に会って、Yさんと本との出会いと、この映画のことを話したいと思っていた。しかしもうそれも叶わない。
「あの日」から七十六年め。長崎はトマさんのいない八月を迎える。

※小崎登明『十七歳の夏』聖母の騎士社

*歌誌「月光」69号(2021年11月発行)掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?