見出し画像

(短編小説) カフェの四人組

 こじんまりとした、けれども、空間を広々と使った、居心地のいいカフェだった。通りに面した全面は、端から端まで、すき通るようなガラス張りで、午後の穏やかな自然光に、カフェの中はほどよく明るかった。天井からは、オレンジ色の弱い光を放つ、豆のような形をしたランプが下がっていて、きらきらと、ときおりわたしの目をまぶしくした。二人席の片側に、わたしは、通りの方を向いて、一人で、座っていた。暗い茶色をしたオークの床は、ぎしぎしと音を立て、わざわざ首を動かさないでも、店員の動きが目に映るようだった。テーブルも、いすも、すべて、暗い茶色をしたオークだった。店員は、一人しかいないようだった。外の世界は、なんだか遠くにみえた。

 わたしは、女のわりには、大柄で、そのせいか、男のような性格をしていた。いや、わたしが男のような性格なのは、小さくて、華奢で、少し力をこめて抱きしめただけで、すぐにもポキリと折れてしまいそうな母と、二人で生きてきたせい、いや、そのため、でもあるのかもしれない。(わたしは、どちらかに優劣をつけようというつもりはないのだ。)もっとも、男のような、とか、女のような、とかいった表現は、わたしはふだん、使ったためしがなく、というのも、わたしの中では、ほとんど身近にない概念で、にも関わらず、何の気まぐれか、なんだか手っ取り早い気がしてふと使ってみたにすぎないのだが、もう、いや、とっくの昔に、古くさく、ほんとうは、めんどうくさがって甘えないで、もっとましな……もっとまともな、時代の価値観に頼らない表現を考えた方がいいのだろう。そう、はっきりいって、時代遅れもいいところだし、それに、いうまでもないことかもしれないが、そうした表現がいかに不正確で、不的確なものであるかをよく知っているのは、この、わたし自身かもしれないのだった。いや、結局……部分的には……表現を、不正確で、不的確にするのは、時代なのかもしれないが……。わたしがもし、別の時代に生まれていたら……しかし、わたしの本質は、いつの時代に生まれようと、変わっていたとは思えない。わたしは、今、この時代にしか生まれようがなかったのだから、わたしがいくら脳を働かせてみたところで、それも、ただの妄想に終わってしまうだけのことなのだが。ありえないことだと分かっていても、それを想像してみるのは、いつだっておもしろくて、新しい発見をもたらしてくれるものなのだ。それなしには一人分しか生きられないはずの人生を、何人分も経験するような、それに近い満足感を得ることができる。(もちろん、脳の中だけで終わらせたくないと心が叫ぶものがあれば、リアルで、自ら体を動かしていく必要がある。)さて、わたしは、女らしくとか、男らしくといったことにも、ほとんど関心はなかった。わたしは、わたしのような女がいてもいいと思っていた。

 わたしは、手を軽くあげて店員を呼び、温かいコーヒーを注文した。店員は、髪の毛がほとんど真っ白で、顔には少し、しわが刻まれつつあった。六十くらいだろうか、それとも、七十近いのだろうか。しかし背はすっと上にのびていて、老いの気配はほとんど感じられなかった。黒や灰色の混じった、白いテン。わたしはそう思った。
 店員が、砂糖はご入用ですか、と丁寧に尋ねた。わたしは、たくさんください、といった。店員は、軽く頭をさげ、立ち去ろうとしたようにみえた。けれど、すぐには立ち去らなかった。
「パリジェンヌのように、おしゃれでいらっしゃいますね」
 と、なんだか拍子抜けするようなことをいった。
 わたしは、ストライプの入ったグレーのパンツとジャケットに、内側には、派手なオレンジ色のブラウスを着て、ごつい足を茶色のローファーにぎゅうぎゅう押しこめた格好をしていた。ファッションというものにまるで疎く、母が用意してくれたものを、適当に組み合わせて身につけていただけのわたしは、恥ずかしくなって口ごもった。
 言葉を何も返せないうちに、店員は、くるりと向きを変えて、去っていってしまった。と、いっても、それは、ほんの数秒にも足りない出来事だった。口ごもらずとも、何か反応を示そうとすれば、並外れた反射能力が必要だっただろう。
 わたしは、少しうつむいたまま、店員の姿を目で追っていた。店員の立ち居振る舞いは、わたしの目を引いた。……そう、女ながら……いや、それは、わたしにとっては、どうでもよいことで、わたしにあえて断りを入れさせるのも、わたしではない、何か別のもの……いや、結局は、わたし自身なのかもしれないが、とにかく、店員の立ち居振る舞いは、わたしの目を引いた。そう、女ながら、常に紳士的でありたいと思っていた、わたしの目を。店員は、頭のてっぺんから、足の先まで、すみのすみに至るまで、紳士的だったのだ。わたし個人にしか通用しない尺度でもって、わたし自身にも、何がそう感じさせたのか分からない、不明瞭な尺度でもって、そう感じた……紳士的だと感じたに、すぎないのだが。しかし、そもそも、紳士的とは、一体何なのか。何がわたしにそう感じさせたのか。それを、今この場で分析し、長々と議論をするつもりはない。それはまた別の、わたしが完全に一人きりの機会に譲ることにしよう。わたしの瑣末な趣味の、つまらない話になるだけだろうし、今、わたしが語ろうとしているのは、別のことなのだから。
 わたしは、組んでいた足をほどき、丸く縮こめていた背をのばして、姿勢を正した。胸を開け、とは、再三母にいわれていることだったが、どうにもわたしの癖は、まだ治りきらない。伸び切ってブロンズ像のように冷え固まっていた肩甲骨周りの筋肉が、ぎちぎちと音を立てるようだった。わたしは、痛みに顔をしかめた。ひどく肩が凝っていた。それにしても、パリジェンヌのよう、なんて、おかしな言語センスだ、今まで一度たりと、聞いたこともない。わたしは、心の中でつぶやいた。

 いくつ入れたか分からない、たくさんの角砂糖を入れ、コーヒーを銀スプーンでくるくるとかき回しているときだった。店に、新しい客が入ってきた。(少なくとも見たところは)女子の、四人組だった。わたしのとなりの四人席に案内され、めいめいに腰をおろした。
 彼女たちは、メニューを広げ、楽しげにしゃべりはじめた。好奇心の強いわたしは、気を引かれて、甘いコーヒーをすすりながら耳をすませ、横目に彼女たちを観察した。話を聞いていると、すぐに、わたしの向かい……わたしの、右斜め前に座っているのが、わたしに近い方から、ユリコと、リコ、そして、わたしのすぐ右どなりに座っているのが、みっちー、であることが分かった。ただ、みっちーの右どなりに座っている小柄な女子だけ、名前もあだ名も分からないままだった。名前の分からない、その小柄な女子は、ひときわ高い笑い声をあげ、楽しそうにしているのだった。わたしが、ほおづえをついて、不審に思われないぎりぎり、と思われる程度に首を回すと、やっと視界の端にとらえることができた。茶色の髪の毛をくりくりさせているさまは、まるで頭の上にモンブランを乗っけているみたいだ。かわいらしい、女の子だった。なんて、ほほ笑ましい光景だろう。わたしは、口元につい笑みを浮かべかけ、しかし、次の瞬間には、はっとして硬直していた。そしてそのとき、わたしは、彼女がホノカ、という名前なのではないかと、ひらめいたのだ。

 店員が、四人の席に水を運んできた。わたしは、ほおずえを外し、コーヒーをすすった。そして、カップを両手で包むようにして持ったまま、なおも、となりの席を観察し続けた。
 店員は、水をひとつひとつ、女子たちの前においていった。ユリコに、リコに、みっちーに、おいた水は、三つだった。当然だ、わたしは思った。頭にモンブランを乗っけたホノカは、なぜ自分には水がないのかと、転げ落ちそうなほど大きな目に戸惑ったような表情を浮かべて、店員を見やっていた。店員も、他の三人の女子たちも、何も気づかないようすで、ユリコとリコと、みっちーは、店員に自分たちの、午後のおやつを注文した。ガトーショコラ、紅茶のスコーン、メープルシロップのかかったワッフル。ホノカは、注文をまだ決めていなかったらしく、焦ってメニューをめくり始めた。店員は立ち去りかけ、そのとき、「おや?」という表情を浮かべたのが、わたしの目に止まった。しかし、店員は、そのままテーブルを離れた。ホノカのとなりに座っていたみっちーが、ホノカからメニューをひったくって、テーブルの端のメニュー立てに片づけた。わたしは、四人の席から少し目をそらし、コーヒーを飲んだ。そして、自分も何か食べようかしら、と思ったわけでもなく、そわそわと自席のメニューをめくり、眺めた。

 やがて、店員が、四人の席におやつを運んできた。一度目に運んできたのは、ユリコとリコの、ガトーショコラとスコーン、二度目に運んできたのは、みっちーのワッフルと、そして、何かのシャレだろうか、立派な栗の乗った、モンブランだった。モンブランを目の前に置かれたホノカは、ほっと安心したような笑顔を浮かべ、「なんだあ、わたしのも、ちゃんと注文できてたんだ。そう、これが食べたかったんだよお」といった。それから、店員が、どこから出したのか、水の入ったコップを、ずっ、とホノカの前へ押し出した。
「先ほどは、あなた様の分をお出ししていませんで、申し訳ありませんでした」
 怪訝そうな顔をする他三人の女子たちに、店員は、軽くほほ笑みかけて、テーブルを離れていった。
 三人の女子たちは、戸惑ったような笑い声を立て(そのとき、ユリコの口元に歪んでできたしわが、わたしの目にびったりと焼きついた)、やがて、気を取り直したようにしゃべりはじめた。ホノカも、モンブランをすくっては口に入れ、すくっては口に入れしながら、楽しそうに……自分の発言がことごとく無視されている……されているようになっている、ことには、まるで気づくようすもなく、おしゃべりに加わっていた。そして、相変わらず、ひときわ高い笑い声をあげた。まあ、気づかないのも、無理はない。ホノカ、という単語が、そしてそれは、おそらく、ホノカのことを指す単語であり、それが、彼女たちのおしゃべりに、何度も何度もあがってくるのだから。そう、わたしはそれで、彼女の名前を知ったのだ。

 会話を聞いていると、彼女たちは、あまり、独自の道理や価値基準を持たないタイプのように思えた。自分自身ではない、他の誰か……いや、誰かと特定することはできないのかもしれないが、少なくとも、自分ではない、他の何かが作った道理や価値基準……そこには、もしかすると、世の中の道理や価値基準、ともいえるものが、含まれているのかもしれない。彼女たちは、そうしたものの支配する世界を、ほとんど疑うことなく、当然のものとして受け入れ、共有しているのだった。……いや、少なくとも、そのように、振る舞っているのだった。それもまた、ホノカを除いては。ホノカは、彼女たちの共有する世界……どこかの誰か、あるいは、何かが作った道理や価値基準によって支配されるその世界を、絶対的なものとして信じこんでいる、いや、信仰している、といっても過言ではないだろう、そんな風に、みえるのだった。そして、自分がその中で、どこに位置するのか、中位でも下位でもなく……いや、下位なんてもってのほかだろう。ちゃんと、自分が、上位にいるのか、神経質に気にしているようなのだった。他者からの評価が気になってしかたがない、そんな風にみえた。他者はそれほど、他者に興味を抱いていないというのに。なぜなら、そう、それが、彼女の価値をすべて、決定するのだから。

 あの人はかわいい、あの人はかわいくない。そんな話を傍らに聞きながら、わたしは、コーヒーを一口飲み、心の中で首を振った。勝手な妄想を膨らませてしまう、自分の悪い癖だ。たったの会話の端々から、彼女たちの一体何を知れるというのだろう。しかし、わたしは、もう、十数年も前のこと、女友だちに、あなたは見た目がかわいくないのだから、せめて文字だけはかわいくしないとまずい、と、当時クラスで流行っていた、風船のように丸っこい文字を書く練習をするよう、助言というのか、何というのか、そう諭されて、まんまと彼女のいいなりになっていたときのことを、思い出していた。もとよりまずいような気になっていたわたしは、彼女に直接指摘をされて、びっくりしてしまった。それから数週間、そう、数週間しか続かなかったのだが、わたしは、丸っこく崩した文字を書く練習をしながら、見た目がかわいくない自分がかわいくなるためには、どうなったらいいのか、しきりと考え続けたのだ。
 とはいえ、当時……わたしも彼女も、まだ小学5年生だったあのとき、わたしを動揺させた彼女は、今の、わたしの親友である。恥ずかしくなるくらい、わたしを褒め、絶賛してくれる、わたしの親友なのである。もし彼女がいなければ、いかなわたしでも……いや、こんなわたしでこそ、かもしれない、今ほど落ち着いてはいられなかっただろう。
 しかし、この仲良し四人組に評点をつけられたら、わたしのような人間は、果たして、いくらくらいになるのだろう、と、ふと思いかけ、わたしは、フイと苦笑した。この後にも及んで、それも、見ず知らずの、価値観もまるで違いそうな他人を相手に、高得点を期待しているとは。自分が褒められたがりであることには、ようやく、最近になって気がついたのだ。だが、今のわたしの考えは、こうなのだ。自分の価値も、自分の人生の価値も、自分や自分の人生に関わる、あらゆるものの価値も、それらを決めるのは、他の誰でもない、自分自身なのだと。わたしは、そう、考えているのだ。美しいと思った花を、誰かは、見向きもせず、あるいは、あざわらいながら、踏みつけにするかもしれないが、自分も同じようにしなければならない義理は、どこにもない。そうする意味も、どこにもない。馬鹿にされずにはすむかもしれないが、感謝をされることはないだろう。少なくとも、美しい花を踏みつけにし、称賛、という名をみせかけた、価値のないメダルに向かって手を伸ばし続けなければならない、苦しさ……そう、それは決して、楽なことではないのだ。楽なことではないが、しかし、それに見合うだけの報酬は得られまい。そう、人はそれほど、他者に興味を抱いていないのだから。きらきらと光る、金のメダル。それはもしかすると、自分が、金色だと、称賛されうるべき金色だと、思い込んでいただけのものかもしれない。幻の、金のメダル。息も絶え絶えに手にしたそれを、どれほどの人が、どれほど、気に留めるというのだろう。自分でさえ、それに価値を見出せなければ、それは、ただのゴミでしかない。わたしがあのときペンを放り出したのは、どこかでそれを、分かっていたからなのだろうか。
 
 そんなことを考えていたのもつかの間、わたしはすぐに、四人の置かれた状況、いや、四人の、ではない、そのうちの一人の、といった方が、正確だろうか、それを思い出して、暗い気持ちになった。
 気がつくと、ユリコが、わたしを迷惑そうににらんでいた。わたしは、急いで視線をそらした。しかし、我慢できずに、視線はまたじりじりと四人の方へ戻っていった。
 わたしは、ゆっくりとまばたきをした。一、二、三。わたしの視界が、切り替わった。ホノカは、消えていた。高い笑い声も、気配も、すべて、消えていた。モンブランも、水も、消えていた。そこには、三人の女子がいて、三人分の食事があるだけだった。みっちーのとなりは、空席だった。ポカリとした空間が、あるだけだった。
 そう、はっきりいおう。ホノカは、生者ではなかったのだ。ゴーストだった。彼女の肉体はそこにはなく、魂だけが、そこに生前の形をもって浮いているのだった。わたしは、なぜか、昔から、物心がついたころから、ゴーストが見えた。始めは、それがゴーストだとは、気がついていなかった。分かっていなかったのだ。人には見えず、わたしにだけ見えている人物がいると気がついてから、わたしはそれが、肉体をもたない魂の塊であることを知った。わたしはゴーストに触れることもできたので、一緒に鬼ごっこをしたこともある。わたしは鬼になって、ゴーストにタッチをした。タッチをしたのに、周囲は、お前は誰も捕まえていないという。え、わたしは、もう鬼じゃないよ。鬼は、ほら、そっちの……。名前が分からなかった。しかし、わたしはすぐに悟った。ああ、ゴーストだったのだ。わたしはそのころ、まだゴーストの見分けが今ほどつけられなかった。今は、もう、ほとんど気配で分かる。自分の目を切り替えるすべも身につけた。切り替える、といっても、見える状態と、見えない状態を、自由に行き来できるわけではないのだが。目の前にゴーストが現れたとき、見える状態から、見えない状態に、スイッチを落とすように、いや、スイッチを入れるように、といった方が、わたしの感覚に近い。そうして、見えない状態にして、わたしは、ゴーストの見えない他の人たちが見ている世界を、確認するのだ。しかし、その状態も、数十秒と続かない。
 再び、ホノカが薄ぼんやりと現れ始めた。そして、元の状態に戻った。わたしのとなりのテーブルは、四人組になった。わたしは、いすの背に深くもたれかかった。軽い疲労を覚えていた。わたしは店員を呼び、コーヒーのおかわりと、紅茶のシフォンケーキを注文し、カバンからダブレットを取り出した。何か、別のことに集中したかった。小難しい専門書でも読んで、気を紛らそうと思った。

 電子書籍の文字を目でなぞりながら、シフォンケーキを口へ運んでいるころ、四人が席を立ち、一人ずつお金を払ってカフェを出て行った。店員が、テーブルを片付けにやって来た。
「あなたも、お見えになるんですね」
 わたしは、話しかけた。
 店員は、テーブルを拭いていた手を止め、顔をあげた。
「お見えになる、というと?」
「……ゴースト、です。ああ、幽霊、っていったらいいのか、その」
 わたしは、自信を失いかけた。
「いえ、わたしはただ、かすかに気配を感じるだけでございます」
「なぜ、それがゴーストの気配だと?」
「わたしの友人に、霊感の強い者がいましてね。輪郭がぼんやりと分かるようです。顔まで見えることもあるとか。それ、今そこにいる、と、何度か教えられまして、わたしはその気配を覚えました」
「ああ、なるほど」
「お話からすると、あなたは、お見えになる?」
「ええ。……かなり」
「やはり、この世に未練があると、人はゴーストになるのでしょうか」
「分かりません」
 わたしは、正直に答えた。
「……ただ、後悔をしているゴーストは、多いように思いますね。ゴースト本人が自覚しているかどうかは、分かりませんけど。自ら死を選んだものの……はっきりいうと、その、自殺ってことになりますけど、それで、ゴーストになっている場合は、多いようですね、見たところ。彼らは、自分が死んだことを覚えていないんです。いや、思い出そうとしないんです。自分が死んでいることに、気がつかないこともよくあります。自分は生きているんだと、強く信じ込んでいる。そう信じたいからなんでしょう、たぶん」
「今日、いらっしゃった方は?」
「さあ。彼女がどうして亡くなったのかは、分かりません。理由も、経緯も、何も」
 わたしは、ぶっきらぼうにいった。そして、
「ああ、すみません」
 と、すぐに謝った。
「でも、後悔していたんじゃないでしょうか。そうでなきゃ、大体は自分で気がつくし、分かってますよ」
「そうですか。心が痛みますね。あなたもお辛いでしょう」
「……まあ……痛んでいるんでしょうかねえ」
 わたしは、軽く微笑んで、コーヒーに口をつけた。それで会話が終わったと思ったのか、店員は再び、テーブルの片付け作業に戻っていった。

 店員が立ち去ってから少しして、わたしもコーヒーの最後の一滴を喉へ流しこみ、席を立った。カバンにタブレットを押し込みながら、大股に会計用のカウンターへ歩いていく。わたしはそのとき、妙な気分に囚われた。自分の動く手も、脚も、まるで現実のものと思えない。この世界に、わたしは存在しているのだろうか? 肉体をもって、この世界に? そうだ、自分がゴーストでないと、どうしていい切ることができるだろう? わたしはただ、勘違いをして、自分は生きているのだと、そう思い込んでいるだけのゴーストなのかもしれないではないか。わたしは、そんな馬鹿げた、いや、切実な、というべきなのか、思いつきに苦笑しながら、ふと、不安にかられた。
 わたしは、カウンターでベルを鳴らし、店員を呼んだ。電子マネーが空っぽだったので、わたしは小銭をじゃらじゃら鳴らしながら、財布から現金を出した。店員が受け取り、レジに入れる。わたしはその間、ほとんど無意識に、カウンターの背を指でそっとなでていた。
 店員が顔をあげ、わたしと目があった。
「どうか、されましたか?」
「ああ、いや……」
 わたしはためらったが、いった。
「あの、生きていますよね、わたしは?」
「ええ。わたしの目に、はっきりと見えておりますから」
 店員は、にこりと微笑んだ。
「あなたは、わたしの言葉を信じればよろしい」
「ええ、まあ、そうするしかないですよね。でも、信じます」
 わたしは笑った。
「あなたは、生を愛していますね」
 店員が、おつりを差し出しながらいった。
 わたしは、一瞬きょとんとして、それから、
「ええ、それはもう」
 と、うなずいた。本当は、何か、冗談で返したかったのだが、結局、そうすることしか、ただ素直に答えることしか、できなかった。
「また、いらしてください」
「はい。今度は、ゴーストのいないときに」
 わたしはガラスの扉を開け、外へ出た。日は、すでに傾きかけ、空は、うす黄金色に染まろうとしていた。随分長いことカフェにいたのだ。わたしは、じっと物思いにふけりながら、歩き出した。

 正直に打ち明けると、わたしは、今朝から、いや、昨日の夜から、だろうか、それよりも、ずっと前からかもしれない。わたしはずっと、憂鬱だった。仕事が、そして、今の職場が、ちょっときつかったのだ。
 わたしは、考えていた。この世界は、さまざまな音にあふれているのに、どうして、雑音ばかりがよく聞こえてしまうのだろう。「君のような人間が生まれたことに、何か意味があるのかな?」投げかけられた問いに……いや、それは、問いではなかったのだが、わたしは、答えることができなかった。だが、わたしは今、はっきりと答えたいのだ。意味ならあると。確かに、明確にあると。
 わたしの親友は、わたしを褒めてくれる。わたしの母も、わたしを褒めてくれる。そう、誰よりも先に、誰よりも、わたしを褒め、讃えてくれるのは、わたしの愛しい母だった。お前は目立ちすぎるから、もっと小さくなって目立たないようにしていろと、そういわれることの方が多いわたしに、母だけは、もっと胸を張れと、それしかいわなかった。その他大勢のいうことか、それとも、母のいうことか。わたしは、迷わず、母の言葉に従いたい。こんなに立派に大きくなって、わたしはうれしいわ。あなたは、わたしの誇りよ、宝物よ。宝物、だなんて。思わず口元がゆるんでしまう。だが、そう、母はそういってくれるのに、わたしが自分を誇らないでどうするのだろう。
 わたしは、ふと、母のことを考え、それから、わたし自身のことを考え、軽く笑った。いつもいつも、守られてばかりなのは、わたしの方なのだ。図体ばかりでかいわたしより、母は、比べようもないくらい、何十万倍も強い。そうだ。今日は、ケーキを買って帰ろう。母の分と、わたしの分の、いちごのショートケーキを。シフォンケーキなんか、あんなの、食べたうちに入らないもの。そう思うと、自然と心と足が、軽くなった。ああ、わたしは、こうして生かされているのだ。
 人の感情なんて、ほんの、一時的なものにすぎない。わたしのこの憂鬱も、そうだ。霧が晴れるように、気がつけばすっかりどこへともなく消えているのだろう。辛いときは、ただ、その一時が、あまりに長く感じてしまうかもしれないが。
 わたしは強い人間ではないので、そう長いこと憂鬱ではいられまい。今までの経験からいってもそうだ。どうせ、明日には、そうでなければ、明後日か、明明後日か、もう少し先になるかもしれないが、そのころには、笑ったりにやついたりしながら、のんきに生きているにちがいないのだ。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?