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「ずっとここで暮らしたい」と白黒の花嫁

同じシェアハウスで暮らしていた小林さんは僕より5つくらい年上のいつもニコニコしているさわやかな男だった。
彼は結婚式などで写真を撮るプロカメラマンだったが、辞めてカメラ片手に世界を転々とし、そのころオーストラリアで永住権を取得するために調理師を目指していた。

彼はいつもリビングでギターをぽろぽろ弾いていた。彼は永住権のためだけに英語を勉強し、調理師になろうとしていたので料理は出来るけど、別に作ること自体はそんなに好きじゃなさそうだった。

どうしてここ(オーストラリア)に住みたいんですか?僕がたずねると「なんでだろうねー」と笑いながら言っていた。
永住権を目指している人は僕がしるかぎりはみんな、絶対にオーストラリアじゃなければならない、と言う感じではなくどちらかと言うと日本に居場所がなくて、ここに居場所を見つけたような人が大半だった。もちろんそうじゃない人もいるんだろうけど。全くゆかりもないところに自分の場所をみつけることに僕はすごく共感した。

誰も自分のことを知らないし、自分も誰のことも知らない。そういうところに位置から居場所をつくる。しがらみや自分を拘束するものがとても少なくてすごく素敵な生き方のように今も思う。長い時間そこに暮らしたら結局同じなんじゃないかと言う気もするけどでも全然違うと僕は思った。そこにあるのは自分で決められる、決めなくちゃいけないという自尊性だ。誰かと居るのはとても助け合えるし、人は一人では生きていけないけど、誰かと居るとどうしても、その人に何かしらどんな些細なことでも求められてしまうし、それに答えなければと思ってしまう。

逆に僕も要求したくなるし、うまく要求できないストレスなんかが現れてしまう。そして相手との関係が深ければ深いほど(相手との関係の質によるけど)答えなければという気持ちや、答えて欲しい気持ちが強くなってしまう。
そしてそうすることが“正しい”という空気があったらもうそれから逃れるのは大変だ。そうしたくないわけではないけど、そうしたくないときも認めて欲しい。何なら認めてもいらない。そうしたくないときに、そうしなくてもなんとも思わないで欲しい。

そういう一切合財から逃れられる場所があるなら僕は素敵だなと思わざるを得ない。ただただ一人で生きて行きたいってことではなくて。

一度だけ彼が世界を放浪していたときの写真を見せてもらった。どこかの東南アジアの結婚式の白黒写真だった。
木で出来た小さめのベンチくらいの大きさの椅子に花婿と花嫁が伝統衣装を着て写真に写っていた。二人とも表情は硬くじっとこちらを見つめていた。

その写真をよく見ると花婿は中心よりに座っているのに、花嫁は椅子の外側ギリギリまで寄って座っていた。わからないけど彼女はとても若く見えた。これは家と家が取り決めた結婚なんですか?と聞いた見たが小林さんはたまたま通りかかって撮らしてもらっただけでよくわからないと言った。

僕の考えすぎなだけかもしれないけど多分世界の中には自分がどこで生きていくかを選ぶこともできない人たちもいる。あるいは数少ない最悪な選択肢の中から選ぶしかなくて、その選択を「自分で決めたんだから」と責任を求められる人もいる。日本にだってそういうことはあるだろう。そういう意味では自由に選ぶことが出来るということ自体、特権なんだろうなとも思った。

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