一期一会など認めない

確かにあの日は楽しかったな。
たぶん5時間くらいぶっ続けで喋っていた気がする。訪問の主目的であった作業時間を挟んで、寝るまでずっと話していた。話題はずっと尽きなかった。
会話好き、というかアイデア形成において言葉そのものに重きを置く自分には、楽しい会話がずっと続く相手というのは最重要項目だ。そしてなかなか出会えない。今まで、自分にとって実のある面白い会話がいつまでも尽きなくて笑いも絶えない相手というのは、弟以外に数人しか会ったことがない。全員男性だ。

自分は普通の女性には怖がられやすい傾向がある。女にしては声のトーンも低いし、基本歯に衣着せぬ物言いだからだろうか。かといって大概の男性からは怖がられない。シンプルに体格が小さいから、男性からしたらどうってことないのだろう。元カレから「怖い」と言われたことはあるが。

相手を威圧しようなどとは思っていない。いや、全くと言うと嘘になるかもしれない。威圧しない努力もまた全くもってしていないからだ。ただこれは人間関係を結ぶ上で必要なバランス感覚だと思う。特に、友達であろうと多少利害が絡むような関係性ならば尚更である。まあでも一番大きな理由は「威圧しないように気を使うのは疲れるし自分らしいと感じない」からである。だから私は他人と良い関係を築くための努力の方向性を親切さや優しさではなく面白さエンタメ性に向けた。そっちの方がよっぽど「自分らしい」と思えるし、何より優しさを磨くより面白さを磨くほうがよっぽど楽しい。実際それで私は友達作りに難を感じたことはないし、割と誰とでも初対面で喋れる。
例の最近知り合った話題の尽きない男友達も、ライブハウスで知り合い、初対面で向こうの恋愛相談に乗り、そのまま彼の友だち含めた飲み会で朝まで盛り上がって友達となったのだ。

この能力は本当に生きていく上で恩恵がデカいと感じている。私は朝決まった時間に起きるというかなり社会的に重要な能力を有していないが、それと引き換えにこっちのコミュ力を授かったのかもしれない。それもまた仕方ないだろう。これさえあれば、恐らく本気で頑張ればどんな有名人とでも友達になれそうな自信がある。結構人脈ってすぐ繋がるんだな、という実感が蓄積されている。
ただ、この能力も万能では無い。私は躁鬱なのでバッテリー切れが定期的に起こる。そうして引きこもり、多くの人との関係は希薄になっていく。たくさん出会いたくさん切れていく。重要な人間だけが残る。鬱が明ければ濾過されて綺麗になった人間関係が残っている。なんだかこれはちょうど良いなと感じるようになった。躁鬱って意外と合理的な生理システムなのかも、と。

それともうひとつ良い事だと思われるのは大量に出会い大量に別れることで一期一会を体現できることだ。だって、なんかさぁ、一期一会ってスゲー良い感じの考え方なんでしょ?仏教的なさ。精神的に健康になるにはやっぱり執着を捨てて、得たものに感謝のみして他人に期待せず、来るもの拒まず去るもの追わずが基本のマインドセットらしい。
まぁ本気で死のうと思っていた時期、瞑想をやって楽になったタチだから、執着を捨てるが正道なのは身をもって痛いほどわかっている。だけどそれから数年経って、特大の失恋とかもして、「あぁ人間って本当に、本質的に孤独なんだ、その事をどうしても受け入れたくないんだ自分は」って気づいちゃって。
それで「一期一会だから」って綺麗さっぱり別れの解釈を終わらせることが、逆に出来なくなった。
だってそれって本当に認めることになるでしょう、人は結局どこまでいってもどうあがいてもひとりってことを。私はそれを認めるのが怖くて怖くてできない。「認めた方が健康になれるから、認めたってことにした」ことはできる。
でも、生まれてから死ぬまで、人とハグしたり手を繋いだりセックスしたり会話で通じ合ったり愛を語り合ったりしても、それは一瞬だけのことで常に一緒に行動はできないし、親でさえも、誰かと一つにはなれなくて、死ぬのはひとりだけで、心中したって別々の存在がそれぞれのタイミングで死ぬだけで意味がないし、とにかく、私はこの「世界にはわたし一人だけなんだ」って本質的孤独を思うたび、悲しくて悲しくて泣きそうになるし、泣く。
なまじ、それが世界の真実なんだなって察しちゃったから。

今まではただなんとなく「ゆうても、最終的には誰かとは通じ合ってハッピーエンドでしょ!」そんなメルヘンな希望を抱いてた。私の結婚コンプはそこから来ているかもしれない。だってそれが今まで観てきたアニメだとかの言ってることだったから。せかいを救うのは愛なわけで、それは生きている中での実感も多少はあって。だから私の中で何か欠陥を埋めるために愛で繋がった相手と一生を共にすれば自分の世界は救われるっていう確固たる信念があった。
でも多分それは違った。あの大失恋は、そういう話だった。周りの人には理解されなかったけれど自分の中でそういう大きな文脈が生まれていたから、あれだけ離人症みたくなって私の世界に大きな打撃を与えた。あんな思いは、もう一生できないだろうな。

まあ、ハリボテの希望をもっと年取るまで信じ続けるよりも良かったと思う。
だけど、まだ苦しい。もう過去の男のことはとっくにどうでもいい。だけどまだ受け入れられない。本質的孤独を。
自分の幸福のためには受け入れろって頭ではわかってるけど、多分まだ、あがく人生が必要だって思ってる。
だってそれも結局、世の中のアニメが言ってることだから。たぶんそれが正しいんでしょ?あーなら死ぬわとか、人との関わりなんていらないとか極端に断じるんじゃなくて。ただ毎日を生きていくしかないんでしょ?もうわかってるよ。もうわかってるけどそれがつらくてしょうがないんだよ。シンエヴァ観て「あー、やっぱりそうか」ってそれが正しいことを再確認したよと同時に絶望したよ。超自然的な力で突然に全てが解決するって夢を抱きがちだけど、そんなのなくて、ただただ毎日をやり過ごして、生き過ごして、いく。それだけ。田植えをして、人と生活して、自他境界線を保って、現実を、生きろ。大切なことは、それだけ。これってポジティブでもあるけれど、うっすらとした絶望も感じる。だって、みんなそれがつらいからアニメとか作るんだろ。田植えだけしていれば良いならエヴァなんて作る必要ないんだもん。

そんなただ生きるしかない毎日からエスケープするために他人を使うのは持続性が低いしやめとけってことだよ。
だから人は一期一会、と言う。

それを心の底から認められるようになったら、言うね。

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