「私はあなたにコーチングがしたい」


****【35歳 女性 寛子 看護師】****

 寛子は、今年三十五歳になる看護師だ。三歳の息子と夫と、経済的に何不自由ない毎日を送っている。
 今日も、彼女は勤務している病院で仕事をした後、保育園へと走っていた。朝から預けている息子を迎えに行くためだ。
「こんな日に、緊入(緊急入院)とかついてない!」
 すでに、迎えにいかなきゃならない時間は過ぎている。
 契約上は定時で帰れるはずなのだが、病棟が忙しいと残業せざるを得ない。
 息を切らしながら病院を出た寛子は、保育園に延長保育を電話でお願いすると、少しでも早くたどり着こうと駅から走っていた。電話の切り際に聞こえた、保育士のため息が今も耳に張り付いている。
「今日は、敦夫も早く帰ってくるって言ってたのに!! ご飯の支度、全然間に合わない!!」
 夫の名前を恨めし気に叫ぶものの、悲痛な叫びは誰にも届かない。
 そして、そんなときに限って嫌なことは重なるものだ。
 曲がり角を走り抜けようとしたその時、目の前から自転車が飛び出してきた。寛子は、慌てて止まろうとするも、自転車を避けるので精いっぱいで、そのまま歩道へと倒れ込んでしまう。
「いっ、たぁー……」
 飛び出した自転車はすでにはるか遠く。文句を言おうにも、言う相手がいないのであればどうしようもない。
 寛子は、悔しさをかみしめながら、立ち上がろうとする。
 けれど、膝に感じた痛みで、思わず顔を歪めた。
「何これ。もう……嫌」
 使い古されたデニムの膝は破れており、そこからは血がにじんだ肌が見えた。
 大きなため息とともにふと顔を上げると、そこには店先のガラスに映り込んだ自分が見える。
 まとめていた髪をほどいたばかりだからか、髪の毛はぼさぼさだ。
――誰よこれ。
 動きやすさ重視のデニムとシャツの姿は、おしゃれのかけらもない。疲れ切った顔は、看護師になりたての頃の自分とは雲泥の差だ。
 そんな自分の姿を見ていた寛子は、思わず涙ぐむ。
(どうして毎日こんななの? もっと、幸せで楽しい毎日を送ってるはずだったのに)
 どこで、何を間違ったのか。
 子供は可愛いけれど、言うことは聞いてくれないし、子育てもちゃんとできてるか自信がない。
 夫は嫌いじゃないけど、かつて感じていたときめきもなければ、家事も育児も手伝ってくれない。休みの日に寝転んでいる姿をみると蹴り飛ばしたくなる。
 ママ友付き合いも難しい。仕事と家庭のことばかりで自分一人の時間なんて取れやしない。
 寛子は思わず茜色に染まった空を見上げた。
「ずっと、このままなのかな……」
 その言葉に応えてくれる人は、今の寛子にはどこにもいなかった。
 ◆
 結局、保育士さんに謝りながら息子を自転車に乗せる。そして、すぐに帰途へついた。
「……ねぇ、ママ?」
「ちょっと、今急いでるからお話、あとでいい?」
「えー」
「必ず聞くから」
 半ば無理やりに息子を言いくるめる。
 あともう少しで敦夫も帰ってくる。晩御飯の支度と、明日の仕事の準備、この子のお風呂や寝かしつけ。やらなきゃいけないことはたくさんある。
 私は、頭の中で動きを計算しながらペダルを必死に回していた。
 家のドアを開ける。
 息子を家の中に押し込みながら、私はまっすぐ台所へ向かった。
 流しで手を洗いながら、すぐさま冷蔵庫を開ける。ぱっと中を見渡して、おかずになりそうなものをキッチンへ放り投げた。
「健太! 手洗ってうがいした? 保育園のカバン、おきっぱなしだから、いつものところに置いてくれない?」
「うん、やるよ」
「すぐにやる! ほら、テレビは後だよ!」
 やや強い語気で伝えると、しぶしぶ健太は動き出す。それを横目で見ながら料理を準備を進めていると、玄関のほうで音がした。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい!」
 時計を見ると、もう六時を回っていた。
 ――あぁ、もうこんな時間。
 心の中で悪態をつきながら、私は冷凍してあったおかずを電子レンジにいれた。
「え? 晩飯に冷食とかまじで?」
 リビングに入ってきた敦夫がぽそりとつぶやいた。
 私は思わず顔を上げる。
 すると、どこか呆れたような表情を浮かべてネクタイを外し、ソファへと放り投げる夫が見えた。
 床を見ると靴下も脱ぎ捨てられていた。
「あ、パパ!」
 帰ってきた敦夫を見つけた健太は、嬉しそうに夫に駆け寄っていく。が――。
「ちょっと、あっちいっててな? パパ疲れてるから。ママんとこ行けよ」
「えー」
「いいから、ほら」
 乱暴に健太を私のほうに押しのけた敦夫は、そのままソファへと座りこみスマートフォンに視線を落とした。
 そんな夫の一部始終を見ながら、近づいてくる健太の寂しそうな顔が目に飛び込んでくる。
 私は、どこかおかしかったのだ。
 日々の疲れと、仕事の融通の利かなさと、保育士さんのけだるげなため息と、健太の些細なわがままを背後に背負いながら、敦也のいつもの行動に押しつぶされる。
 だからだろう。
 私は、その感情をありのままに吐き出してしまう。
「少しは手伝ってくれたっていいじゃない! どうして、いつもそうなのよ!!」
 私の叫びは家中に響く。
 一瞬の静寂の間、きん、と声が共鳴した。
 そして、その余韻をかき消すかのように敦夫の不機嫌そうな声が耳に飛び込んでくる。
「は? そんないきなり怒るとかわけわかんないんだけど?」
「わからないわけないでしょ!? 私だってさっきまで働いてたし、健太を迎えに行って帰ってきたばかりなんだよ!?」
「そんなのいつものことじゃん」
「じゃあ、どうしていつものことなのに! 靴下だって脱ぎっぱなしでネクタイも片付けられないわけ!? すぐそうやってゲームばっかりやって健太にかまってもあげないで! 私が何やってるか見える? 家族の料理を作ってるの! 作ってもらえるのが当たり前だなんて思わないでよ!」
 私の剣幕を押し返すように、夫が纏う空気もぴりついた。
「いきなり切れられても意味不明だし。っていうか、お前はパートだろ? そんなに責任ある仕事してないんだから、俺とは違うじゃん」
「責任ですって! 別に常勤の人と同じ仕事してるし、パートだからってミスしたら人は死んじゃうんだよ!? それのどこか責任がないっていうのよ! じゃあ、あなたの仕事はミスしたらたくさんの人が死ぬの!? ねぇ、どうなのよ!」
「べ、別に……そういうわけじゃないけど」
 ひるむ夫を見て、思わず我に返る。
 言い過ぎだ。明らかに。
 私は、とっさに下を向くと、そこには涙をためた健太がいる。
「ぶ、ふぇ……」
「あ、ごめんね? 大きな声出しちゃ――」
「うえええええぇぇぇぇ!!」
 最悪だ。
 敦夫は健太が泣く姿をみて踵を返し、別の部屋に行ってしまう。鳴き声はますます大きさを増していく。
 どうしてうまくいかないんだろう……。
 ピー、という電子音が聞こえる。電子レンジの音。
 その音は、ひどく無機質な感じがした。
 その冷たさに、思わず涙があふれた。義務感のように健太を抱きしめると、そのまま私も泣いた。
 ――あれ? 私って本当にこんな人生を送りたかったの? どうしてうまくいかないの?
 そんな疑問が身体の奥底から湧き上がってくる。
 思わずついてしまった膝が傷むのを、私は頭の端っこのほうで感じていた。
 ◆
 絶望感を感じながら、私は昨年同じ病院を退職した同期に電話をかけた。彼女は今は独立して、自分で事業を立ち上げている。
 そんな彼女なら、きっと何かアドバイスをくれるかも。
 そんな淡い期待を込めて、スマートフォンの画面をタップする。
「もしもし。元気?」
「うん、どうしたの? 声、暗いけど」
「うん……実はね」
 私は先日起こったことを語った。
 自分の生き方に疑問を感じていること。本当は何をやりたかったのかわからなくなったこと。
 そのせいで家族とも関係が悪くて、どうしていいかわからないこと。
 ひとしきり話した後、彼女はさも当たり前のように私にこう言った。
「私もそうだったよ?」
「え?」
「私もそうだったの。だから、私相談したんだよ。コーチにさ」
「コーチ?」
 聞きなれない単語に、私は首を傾げた。
「一緒にね。やりたいこととかなりたい自分を考えてくれるんだ。本当に全部受け止めてくれて、ちゃんと具体的にどうしたら理想の未来に近づくか作ってくれて。私はそのコーチに出会って変わったんだ。もしよかったら、相談してみたら?」
 そういって、LINEでそのコーチの紹介ページを送ってもらった。
 中を見ると――。
「あなたが投げるすべてをキャッチします……そして、わかりやすいボールを必ず返しま……す?」
 最初はよくわからなかったが、よくよく読むとこういうことらしい。
 やりたいことや人生の目標を一緒に考えてくれて、それに気づいたらどうやれば夢に近づけるのか、具体的なプランを形作ってくれるみたい。私の想いを受け止めてくれて、ちゃんと無理なく使えるプランを提示するっていうのがキャッチとボールを返すって意味らしい。
 なるほどね、と思いつつ、一つのワードに私は惹かれた。
「仕事ができなくなってしまった後輩を助けたかったんだ……」
 そのコーチは、ショックな出来事が原因で仕事が続けられなくなった後輩に何もできなかった自分に無力感を感じていたらしい。そんな中、出来ることを探して色々試してそしてコーチングっていうものに出会ったみたい。
 看護師が笑顔で生き生きと働けたら、その力はすごいって恥ずかしげもなく書いてある。
『あなたが夢に向かって笑えていたら、それはきっと看護を変える力になる』
 そんな青臭い言葉に、私は思わず噴き出した。
「なに言ってんのよ。この人。そんなこと起こるわけないじゃない……」
 そう言ってスマートフォンの画面を消した。
 そしてそのままその場を離れようとしたのだが……ふと友人の声が頭に響いた。
『私、コーチングで変われたんだ。だから、よかったら試してみて?』
 そういえば、彼女はそんなことを言っていた。
 同時に、彼女の声色がとても明るく、生き生きしている活力のようなものも感じたのを思い出した。
「あんな風に……なれるのかな」
 半信半疑。
 私の心は信じたい気持ちと疑っている気持ちで揺れていた。けれど、このまま何もしないと、きっと何も変わらない。
 そうおもって、私はもう一度スマホを手に取った。
「……変われるのかな」
 そう呟きながら、私は画面にそっと触れる。
 お願いだから未来よ変われ。そんな願いを込めながら。
 ◆
「今でも昔でもいいけど、寛子さんが一番充実していた瞬間のことを思い出して。それっていつかな?」
 私は、小さいころを思い出していた。
 コーチと共に、昔の記憶を探る。ありありと情景をイメージすると、あの時のことが臨場感とともに脳裏に浮かび上がってきた。
 「だって! 全然うまくできない!」
 泣きじゃくる私を、お父さんはしょうがないなぁ、と表情で語りながら見上げてくる。
 私は立っていたから、お父さんはきっとしゃがんで覗き込んでくれたんだろう。
 その時私は、家族でキャンプに来ていた。
 お父さんとお母さんがテントを立てて、私はお兄ちゃんと一緒にテーブルを組み立てて。足を立てるときに指を挟んで泣いた私を、お母さんがそっと慰めてくれて。
 お兄ちゃんは、お母さんの代わりにテント張りを手伝ってて、大きなテントを立てたお兄ちゃんはどこか誇らしげだった。
「ほら、寛子はこれをお願いね」
 そうやって渡されたのはピーラーだった。
 まだ包丁が使えなかった私は、夕食のため一生懸命ピーラーで皮をむいたんだ。それでもあんまりうまくできなくて。
 段々と悲しくなってきて、泣いてしまったのだ。
 もっとうまくできると思っていたから。
 そんな私を覗き込んだお父さんは、おもむろに私が持っていたジャガイモを手に取った。
 そして、荒々しく四つに切るとそのまま鍋にぶち込んだ。
「えっ!?」
「寛子、ありがとな。これで、カレーが作れる! おかずがゴロゴロ! うまそうだ!」
 満面の笑みでそういったお父さんの顔はどこか子供っぽくて。だからこそ、心から言ってくれてるって強く感じた。
 すっごく嬉しかった。
 あぁ、私にもできることがあったんだって。いつまでも一番下の足手まといじゃないんだって。そんなことを思ったんだ。
 ――目を開ける。
 すると、そこには穏やかに話を聞いてくれているコーチがいた。
「その時、寛子さんは何が一番大事だったのかな?」
「えっと……大事なこと?」
「そう……なにがあったから、充実しているって思ったんだろう?」
「あぁ――」
 あの時の私達には、みんなに居場所があった。
 やるべきことがあった。
 ちゃんとお互いに役に立てていた。
 だから、自分でやったことがとても誇らしかったのを覚えてる。
 あぁ。
 私、またあんなあんな感覚を味わいたいんだなぁ。
 みんながみんなのために、自分ができることをする。それでいて、お互いに思い合ってて笑い合って。
 私と敦夫と健太にちゃんと居場所があって、みんながお互いを思っていて無理なく過ごせてる。そんな家庭が――。
「じゃあさ……寛子さんは何の制約もなかったら……どんな未来を描きたい? どんな未来なら最高に幸せって思える?」
 たくさんの言葉を通して。
 たくさんの感覚を通して。
 たくさんの想いを通して。
 私は、今まで考えもしなかった理想の未来を描き始める。
 その未来は、考えるだけで胸が熱くなって、そして本当にそうなったらいいと心から想える未来だった。
 気づくと、背筋が伸びていた。
 視線が上がっていた。
 心が私を急いていた。
 早く動き出せと、そう叫んでいた。
「くるまじさん……私は、何の制約もなくていいなら、本当は――」
 私はようやく未来を語りだす。
 すこし変な名前のコーチに、一つずつゆっくりと。
 ◆
 二か月後。
 私は、勤めていた病院を辞めた。
 そして、訪問看護ステーションで働くことを決めたのだ。
 自分の夢。
 いつか、訪問看護ステーションを自分で立ち上げて、やりたいように働ける場所を作りたいと思ったから。
 家庭も、仕事も大事にする。そんな自分のための職場。
 私は、そんなわがままな未来を実現するために行動を始めた。
「ねぇ、ママ! 今日もお迎え早いね!!」
 健太はそういって笑ってくれる。
 自分で訪問件数をコントロールできる職場だから、帰る時間もある程度自由になった。そのおかげで、健太を早めに迎えに行くことができる。
 健太の重みを感じながら、私は自転車のペダルを力強く踏みしめる。
「うん! 今日は健太の好きなオムライス作ろうか!?」
「本当!?」
「いつも健太は頑張ってるからね! 昨日もちゃーんと後片づけしてくれて保育園の準備してくれたもんね」
「うん! 今日もやるよ! ママ、お勉強あるから健太もお手伝いするんだ!」
「ママ嬉しい! 期待してるね」
 そう。
 新しい職場に行くのは武者修行。お金をためながらステーションを開くために、今はケアマネージャーの資格も勉強している。
 健太はそんな私をみて、自然とお手伝いをしてくれるようになった。
 そうして家に帰ると、なぜだかドアの鍵が開いていた。
 中にはいると、見覚えのある靴が無造作に並んでいた。
「あ! 敦夫! 帰ってるの?」
「ああ。寛子、明日試験だろ? ゆっくり勉強したいと思って。時間休だけどとってきた」
 そんなことを言いながら、敦夫は洗濯物を干していた。
 少し前なら考えられなかったことだ。私は嬉しくなって敦夫にそっと抱き着いた。
「ありがと……嬉しい」
「別に。たまにはこれくらいやるさ」
「うん、感謝してる。本当にありがとね?」
 コーチングを受けた後、私は敦夫に伝えたのだ。
 やりたいこと、理想の未来。私と敦夫と健太がどんな存在になっているか。最初はもめたけど、コーチと相談しながらコミュニケーションを変えていったら、敦也はわかってくれた。そして、実際に行動している私をみてこんなことを言ってくれたのだ。
「寛子が頑張ってるの見てさ……俺も家のことやりたいって思えたんだ」
 涙が溢れた。
 自分の行動が、家族に影響を与えるなんておもってもみなかった。
 夫と息子の優しさに支えられて、今私は夢に向かって走ることができている。
 私がやったことは、コーチと一緒に理想の未来を作ってそれに向かって目標を考えて何ができるか具体的に考えたこと。そして、実際に行動に移しただけだ。
 その行動も難しいことじゃない。
 簡単ではないけど、ちゃんと自分ができる、やりたい、って思えるものしかなかった。「わかりやすいボール」をたくさん持たせてくれたから、私もボールを投げ続けることができたのだ。
 たった2か月でここまで変わると思っていなかったけど、この前コーチはこう言っていた。
「え? 寛子さんなら絶対できると思っていました。でも、まだまだこんなもんじゃないでしょ?」
 おもわず笑ってしまったけど、こんなにも満たされて、こんなにも笑顔にあふれて、素敵な生活が実際に送れている。
 コーチの言葉を、いつも自分を認めてくれる言葉を、最近は私も心から信じられるようになってきた。だからだろうか。
 私は、色々なことにチャレンジできるし、前向きになれる。
 新しいことをやる時、あきらめそうになる時、いつも頭に響くんだ。
 そう――
 『どんな未来を描きたい?』
 そんなコーチの言葉が。
 私は、それに胸の中で答えながら、明日も一歩を踏み出していく。
 きっと私は、そうやって未来に向かって生きていくんだろう。
 

~~三十五歳 看護師 寛子 完~~

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