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メルセデスC-Classセダンのデザインから学ぶ我ら自動車エンジニアのあり方とは?

メルセデスベンツC-Class
 日本の車業界で設計に携わる人間にとって、その存在はベンチマーク対象として常に見上げる存在。新型が出るとなるとお祭りのような騒がしさ、海を超えて神輿に担がれた(分解された)御神体(パーツ)を崇めるべく人混み(エンジニア)をかき分けては聴こえるかもしれない御神託(新技術)に耳をそば立てるものです。
 セダン人気が低迷する今、小さくなるその属性。ただ所属する事実だけを拠り所にしていた個体は淘汰され、まだ体力のある個体にもその縮む輪郭の圧力が高まっています。クラスを牽引する一台であるC-classの動向は気になるところです。
 車という機械が、乗員を最適に運ぶ上でセダンは合理的です。一方でその他のカテゴリーも一般的に十分な水準に達しているいま。生活の合理化。モノからコトへ。それに伝統的なハレとケの濃淡が薄まっていること。詰まるところの近年、車中心の価値を体現するセダンという存在が特異とされつつあります。

 我々エンジニアはどうか。環境問題、自動運転やカーシェアといった社会の動きが、クルマを取り巻く強固な価値感を揺さぶっています。たいていの人間の車好きは本能であり理屈はなく、そのまま大きな業界に身を置くことは幸い。自然な流れです。
ただし掛け流しの温泉よろしくその大きな存在に上せて浸っている人間は、湯煙の中で水温の低下や源泉の枯渇の可能性を見定めているのでしょうか。
 はっきり言ってもう所属することに価値はないのです。『とりあえずみんなでやってみる』『たくさん試験した結果がそうだった』といった多数の労力で賄った帰納的な結論の出し方そのものが、不況を発端とした残業規制と、グローバル化に準じた高効率化の流れに合わなくなってきています。今まで所属した枠組みの中で自分の役割を充てがわれる事が常でしたが、今は個人がどのような判断して物事を先に進めるのか。加えて演繹的な働きを求められています。結果的に主体的に判断する能力がない人間は一時代前に確立した『前例』から抜け出せなくなっています。それに近年の、機能の統合や価値の強化や転換の流れの傍らに取り残されます。そもそも車開発自体も円熟期になっています。「ふつーに使える車」が量産される世の中になりました。それは社会が車に求めるものと技術の目標が当たり前に一致しなくなったと意味します。立ち返ってはもう大きな環境がエンジニアに役割を付与する風習は消えたということです。今どれだけの人間が自分の価値を意味のあるものにすることができているのでしょうか。

 ーエンジニアは当たり前を疑え。現象の原理原則を学術的に捉えろ。ー
尊敬するエンジニアは言っていました。
 自らを浸す水を温泉ではなく、泉水とすれば不自然に熱いと思うはずです。疑って探り当てた熱源を理解すれば同時に池の限界が見えてくるでしょう。そうしたら湯から上がって服を着るタイミングです。大丈夫。熱を生む原理がわかっていればまた暖は取れます。
 
 製造メーカーの販促力や、培ったブランド力によらずともセダンのカテゴリーで強力な存在感を示しているC-Class。
比較的挑戦的なデザインアプローチを取り入れている歴代モデルですが、整合性の取れたメカニカルな構成をベースとすることで、緊張感のあるフォーマルな雰囲気を纏う事は統一していました。一方で現行モデルは全体からバロック的な要素が漂っているように見えます。フォーマル要素を少し削って置き換えた挑発的な要素は、生き残りへの力のこもった覚悟でしょうか。いや、これは開き直りに近い胆力に感じます。それでも維持する格式の高さはさすがです。現モデルに関しては、デザインから放たれる危険な妖しさや艶やかさで庶民を突き放した孤高の凄みに置き換えられると思われます。いずれにせよ先代と同様にC-classに近づける人間はやっぱり少数だということです。もちろん私もその色気に怯んで動けません(と言う事にさせてください。そもそも近づけませんが)。


次回予告:シドニーのショッキングピンクスーツマダムとC-classのデザインの共通点??


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