空虚な紙切れ

彼は歩き続ける。目先の目的地に向かって歩く。最終的な目的地などない。ただ歩き始めてしまったからには戻ることも、止まることもできやしない。
ある川に沿って、上流から海に向かって歩く。海にたどり着くことができたのなら、また目的が見つかるだろうという僅かな希望を持って、彼は今日も歩いていた。ゴツゴツとした岩を下り、もさもさと生い茂る林を抜け、比較的歩きやすい川辺まで辿り着いた。
向こう岸に小さな白い影が見えた。辺りには緑しか見当たらないので、目立って見えた。ただの花びらかなにかかと思ったが、どうも気になってしまった。
彼は川へ入っていった。夏の夕暮れだったので、悪くないかもという期待を持ってはいったが、水温は思ったよりも冷たかった。そして、胸の高さまで来るとそこからは上がっていった。岸に着くと、まず衣服を脱いで乾かした。
白い影の正体は小さな一枚の紙切れだった。手に取ってみると、そこには何も書かれていない。写真でも手紙でもないただの紙切れだ。
そこで彼は密かに感じ取った。これは自分のものだ。なぜだかはわからないが、それは確かな感覚として残り続けた。
彼は大事にバックパックにしまい、川辺に腰をかけ、衣服が乾くのを待った。時間は人を思考の渦へと巻き込む。彼はあの紙切れが頭から離れなかった。
その頭の中の紙切れは色々なものを映し出した。それは過去の自分の記憶だった。人や物、時間や空間が見事に再現されていた。
その中に入っていこうと試みたが、どうもそうはいかない。頭の中とはいえ、ただの薄っぺらい紙切れなのだ。
そこで彼は我に帰った。そうだ、僕は歩いてしまったのだ。そして、数ある道の中から自分で選んでしまったのだ。数多くの記憶はそこに確かにあったはずなのに、それは過去のものとなり、存在を失ってしまった。しかも、僕はそれを映し出す術すらなく、全て落としてきてしまったのだ。
彼はいつのまにか眠っていた。起きた時には太陽がもう一番高くまで登っていた。
眠たい目を擦りながら辺りを見渡すと、奇妙なことが起きていた。川の流れが逆転していたのだ。それでも彼は海を目指さなければならない。
彼はまた下流に向かって歩き始めた。

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