書雨(短篇小説)
Chapter01
海の方から本の匂いがしてきたのを、八尾鳥アオリは感じた。しかし気のせいだろうと思い直した。なにしろ広くはないこの借家には、数千冊の蔵書があるのである。
いっぽうで、いつも身近にあって感覚が麻痺しているに違いない本の匂いを、あらためて感じるというのは少し妙な気もした。そして湿度が高いので匂いが留まりやすくなっているのだろうとも考えた。
彼人は、そのまま日課の読書を続けてから眠りについた。
Chapter02
翌朝、八尾鳥アオリが庭で家庭菜園の手入れをしていると、ウォーキング中に通りかかった於保多カジは挨拶をして、同じ懸念を話した。
「もしかして、海の方から磯の匂いに交じって本の匂いがしませんか」
「ええ、気のせいだといいのですが。昨晩から私も妙な具合だと疑っていました」
「それでは、ヨリの勘違いというのでもなさそうですね。僕にはわからないのですが、妻が朝からそう言って不安がっているのです」
Chapter03
於保多カジは携帯端末のSNSアプリで、「なるべく緊急で返事をお願いします。海の方から本の匂いがしませんか?」と町内の友人と同僚たちに問いかけ、ウォーキングを続けた。
しばらく経つと何件かコメントが返ってきたので八尾鳥アオリの家まで引き返し、端末の画面を見せながら、「本の匂いがする、あるいはするような気がすると答えた人と、わからないと答えた人が半分半分くらいでした。もしかすると信憑性が高いかもしれません」と話した。
八尾鳥アオリは、「一応、大事になることを踏まえて行動した方がよさそうですね」と言い、彼人は同意した。
Chapter04
於保多カジはすぐに帰宅し、隣人とのやりとりをパートナーに伝えた。それから、まだ本の匂いはするかどうか確認した。於保多ヨリは好物のドライフルーツのシリアルに牛乳を注ぐのを中断して、「する」と答えた。
Chapter05
砥生海町役場は始業前だったので、於保多カジは町長の自宅に直接電話をした。町長の環場ミミはダイアウルフを思わせる大きな四頭の飼い犬に餌をやっていたところで、夫の環場ドオタが電話を取り次いだ。町長はカジの報告を受けると、一瞬驚き困惑したが、すぐに呼吸を整え静かな声で言った。
「わかりました。今のところ確かではないけれども、万全を期すに越したことはないでしょう」
Chapter06
環場家は比較的海から遠い場所にあったこともあり、海岸近くに住む姻戚関係や同僚に電話をして、海から本の匂いがするかどうか確認した。「本の匂いがする」あるいは「するような気がする」と答えた人も「わからない」と答えた人もいたが、「する」「するような気がする」という回答の方が多かった。環場ミミは心当たりに一通り電話を終えたあと、仏壇の線香に火を灯して先祖に手を合わせた。そして町長としての職務を果たすべく決断を下した。
直ちに緊急事態宣言を発令し、すべての町民に対し避難勧告を出したのである。確証もないのに大袈裟ではないかと訴える者もいたが、ほとんどが指示に従った。
ただ、新しく砥生海町に越して来た住民の中には事情をよく知らない人たちもおり、周囲が必死に説明し避難をうながした。
もし本当に前触れだとすれば、実に二百十年ぶりの災害になる。
Chapter07
住民たちは、身の回りの物や食料を携え、あるいはペットを連れて、指定の避難場所である小中学校や高校に集まった。ここ三十年ほどで急速に過疎化が進み未成年者の数が五分の一まで減っていたので、空いている教室がたくさんあり、混み合ったりあぶれる者が出るといったことはなかった。
人々は勉強机を移動しスペースを確保して荷物を下ろすと、本当にそんなことが起こるのだろうかと談話を始めた。また携帯端末でニュースを見たりゲームアプリを開いたりし、慎重な者は端末のバッテリーを温存した。子どもたちは学友に会い、非日常的な出来事の興奮を分かち合った。
ただ、この状況をどう捉えればいいかわからないといった様子が、そこかしこで見受けられた。
Chapter08
やがて日が暮れ、夜になった。
しかし特に何も変化はみられなかった。
住民の中には制止をふりきり、自宅に戻る人もいた。写真も映像も残っていない二百十年前やさらにもっと以前の災害のことなど信じられなくても当然かもしれない。
だが、その頃には大半の者が本の匂いを感じていたので、避難所で夜を過ごすのに異議はなかった。慣れない堅い床に寝つけない者も多くおり、いつ訪れるかわからない災禍を心配した。
Chapter09
八尾鳥アオリも、周囲の人の気配が気になり落ち着かず目が冴えていた。ライトを付け本を読める状況ではなく、外に出るのは危険だとわかってはいたが、学校のすぐ隣の公園まで歩きベンチに腰をおろした。電灯の明かりを頼りに読みかけのアーレントの本のページをめくっても眼が紙の表面を滑るばかりで、何も頭には入って来なかった。もっと愉快な内容のエッセイでも持ってくればよかったと思いながら、ぼんやりと夜を過ごした。
Chapter10
そして、朝をむかえた。
海は凪いでいて、いつもの光景と別段違うところはなく、町の対応に疑義を呈する者が増え始めた。しかし依然として本の匂いがしていたために、避難は継続された。
Chapter11
午前9時12分頃のことである。
ドローン(シューウ八号)を飛ばし空撮していた大学生の丸間永モトカが緊張しながら言った。「波が来た」
近くにいた人たちはざわめき、ノートパソコンの周りに集まって覗き込んだ。
「あまり詰め寄らないでください」と操縦者は声を張った。
Chapter12
ディスプレイには、迫る高波と、分厚くインクをこぼしたみたいな黒い雲の映像が映し出されていた。
やがて、ドローンや報道のヘリコプターのカメラは、高波が巨大な生きものであるかのように海岸に押し寄せる様子を捉えた。波は瞬く間にせまり、轟音を立てながら、すべてを押し潰していった。船を飲み込み、陸に乗り上げて、沿岸の道路や家や樹木を圧壊した。
Chapter13
間もなくして、本が降ってきた。
本の大きさは、長辺がおよそ5ミリメートルくらいから、30センチメートルくらいのものまで色々だった。そして、たしかに相応の重量を有していた。
表紙のデザインは多様だったが、すべて黒を基調としており、ほとんど無彩色だった。
もちろん、これらは人がつくった本ではない。
Chapter14
本の雨は、多くの建物や民家を破壊して押し潰した。とくに木造の建物などはひとたまりもなかった。
また本が電柱や電線にあたり、停電になった。
Chapter15
本が直撃したドローンは翼を折られた。しかし丸間永モトカは貴重な映像が撮れたことに満足していた。
撮影する場所や撤退時期を見誤ったヘリコプターは、プロペラが本を巻き込みたちまち墜落して死傷者を出した。
Chapter16
避難所には、絶え間なくボコボコと本が当たる音が響き、避難した人々は怯えたり心配したりしながら、為す術もなくただじっと本の雨音を聞いているしかなかった。
降り積もる本を、飛散防止のガムテープが貼られた窓ガラス越しに見る者や、カメラや携帯端末で撮影する者もいた。
Chapter17
不幸中の幸いだったのは、風が強くなかったことだろう。もし暴風雨であれば重い本が窓ガラスを突き破っていたかもしれない。
ただし、一階に避難していた者たちは二階以上の階に移ってきた。想定していたより本の雨量が多かったために、窓ガラスが割れて安全が脅かされたのである。
Chapter18
しばらくするとさらに降本量が増え、二階にいた者たちも三階以上へ移ることを余儀なくされた。収容できるキャパシティーを超え、混み合って廊下にまで人があふれた。
また町長の大きな飼い犬は周囲に恐れられた。
Chapter19
本の雨が降っていた時間は、午前9時23分からおよそ32分間だった。そのあいだに町の約六割の面積の土地にほぼ満遍なく本が積もり、5メートルくらいの高さになった。
本が降っている最中もそのあとも、本の雪崩が起こり被害が拡大した。
Chapter20
音がしなくなり本の雨が止んだのを確認しても、人々は呆然としていた。自分たちの町や家が破壊されたことを頭では理解しながらも、信じたくはないという者がほとんどだった。
辺り一面に大小様々な本が降り積もっており、窓から見える光景は、この世のものとは思えないほど異様だった。
Chapter21
住民たちは外に出ることはできなかった。いたるところに本があり、しっかりとした足場がなかったためである。堆積している本を踏めば、蟻地獄のように本と本のあいだに飲み込まれたり、雪崩を誘発したりするだろう。
実際に軽率な行動をとった数名が死亡した。
Chapter22
環場町長は、この事態は到底自分たちの手に負えるものではないと絶望していた。
また見積もりが甘かったのを悔やんだ。まさか、二百十年前の二十倍の量の本が降るなどとは考えていなかったのである。避難すべき場所は丈夫な建物などではなく、町の外だったのだ。
加えて悪いことに、電話などの通信関連の基地局も破壊されていたので、連絡手段が途絶えていた。
Chapter23
住民たちの救助は困難を極めた。車両が入れず、ヘリコプターが着陸する場所もなかった。
そして避難者の数は数千人に及んだのである。
救助を始めようにも、どこから手をつけてよいのか目処が立たず、差し当たって食料品や簡易トイレなどの物資が支給された。ヘリコプターがホバリングし、受け渡しが行なわれ、また補給に向かうといった往復が繰り返された。
Chapter24
様々な議論が飛び交ったが、結局、避難所の屋上の本を人海戦術で掻き分けて下に落としヘリコプターの発着場所を確保することになった。
そして、何度も避難者を搭乗して行き来した。
Chapter25
避難せず自宅にいた人たちの中には、無事だった者もそうでなかった者もいた。無事だった者は、なんとか発見してもらおうと手を振ったり、目立つようにメッセージを書いたりして手立てを講じた。事件後も三週間は町中を捜索のヘリコプターが飛び回っていた。
ただし、本の下敷きになった者の救助は見送らざるをえない状況だった。
Chapter26
町の復興は絶望的に思われた。大量の本を焼却するか埋め立てるかしなければならず、しかし現実的に考えてそれは困難だった。
また、もし復興できたとしても、今度はいつ同じように本の雨が降るかわからないのである。前回は二百十年前だったが、次回は数か月後かもしれないし来週とも限らない。
復興は諦めそのまま放置して見捨てるべきだという有識者の意見が多く、世論なども同様だった。
Chapter27
八尾鳥アオリは救助されたのち、近隣の町のホテルに滞在していた。その後、もうあの家へは帰れないだろうと考え、東京へ居を移した。
直面した惨事に対する心的外傷が残り、うなされたり茫然自失としたりする日々が続き立ち直れなかった。身の回りのことや、長年にわたり蒐集してきた蔵書や資料を失ったことなどを考えられるようになったのは、だいぶあとになってからだった。
Chapter28
本の雨が降った年から二年が経ち、八尾鳥アオリはあのときの出来事を文章にしたためる決意を固めた。
自分以外の視点からも当時の状況を記録すべく、於保多夫妻や環場元町長に取材を打診し再会を果たした。また紹介してもらい、知り合いではない元町民たちを訪問して話を聞いた。
Chapter29
さらに七年後、八尾鳥アオリがあの日の出来事を取材したルポルタージュが書籍としてまとめられた。
多くのジャーナリストや研究者や著述家が、それに関する様々な本を出版したが、元住民の著作だということもあり注目を集めた。
本のタイトルは、『本の雨に破壊された町――砥生海町の災禍』であった。
<了>
セルフコミカライズしました。
書籍代にします。