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12年前のあの頃。

2023年の3月11日。
12回目のこの日を迎えようとしている。

12年前。2011年3月11日。

黒やん、中学3年生。卒業式前日。
この日は午前中で卒業式の最後の練習を終えて、卒業生はお昼には下校していた。在校生は午後まで準備や諸々の授業があったのか、まだ学校に残っていた。

早めに帰ることになったおれは、中学の卒業祝い、高校の入学祝いで携帯電話を買ってもらうことになっていた。ちょうどこの頃はガラケーが流行ってて、パカパカ折り畳めるガラケーを買いに市街地の携帯ショップへと向かった。携帯を買った直後にデータの移行を実施するだかデータを入力するだかで30分ほどかかるから、少し待つことになった。店内で待ってるのも落ち着かないので、駐車場の車の中で親と待っていた。

車の中にいた時、激しい揺れが襲ってきた。上下左右に揺れる車はただ恐怖でしかなかったが、それ以上に、ついさっきまでいた携帯ショップと、隣接する薬局の天井が崩落し、中の陳列棚が次々に倒れていき、店内から客たちが血相変えて走り出てきていたその光景が、ただ怖かった。

揺れが収まると、あちこちで落下物が散らばっていたが、こうなると携帯どころではない。急いで家に戻ることにした。我が家は高台だった。車を走らせ、我が家に戻ると、家の中は家具が倒れ、ものが散らばって悲惨なことになっていた。割れた瀬戸物や破片などを優先的に片付けたが、ここで気づいた。電気が付かない。

テレビが付かないので一切映像の情報がないまま、ラジオで情報を漁った。入ってくる情報は「津波がきた」という情報と、海岸部は壊滅的な被害を受けたという情報だった。何度聞いても信じられず、周波数をいじって違う放送局に変えても、どこも同じことを話していた。ろうそくの灯りに照らされながら、ひっきりなしにやってくる余震に怯えながら、ただ夜が明けるのを待った。眠れずにカーテンを開けて、窓の外に目をやると、深夜の空が真っ赤に染まっていた。これは何の現象か、おれにはこの時理解できなかった。

翌日。卒業式当日。しかしながら、やるのかやらないのかわからなかった。
とりあえず行ってみよう。そう思って制服を着て、車で市街地に降りようとしたら、道路がなかった。通学路と思われる場所の家や店は原型がなく、そこらじゅうに車がひっくり返っていて、木材や様々な破片などが泥とともに大量に散らばっていた。大量の黒いヘドロの景色を見て、海からだいぶ離れているこの場所にも津波がきたことを確信してしまった。

中学校にどうにかたどり着くと、校庭にも瓦礫と泥が上がっていた。やはり誰もいなかったため、卒業式はそりゃあやらんよな、それどころじゃないもんな、と思い、引き返そうとした時、腕をがっと掴まれる。
「良かった!生きてたか…!なんともなかったか!?」
それは中学校の先生だった。学校を見に来たようだ。久しぶりに会ったわけでもなく、開口一番が「生きてた!」というのも、この先下手したら一生起きないよな、と思った。

家に戻る道中、食料品を買っておこうと、親と車で高台のスーパーへ向かった。駐車場に車を止めて降りてみると、恐ろしいほど人が並んでいた。そして、ほぼほぼ品物がないようだ。まあみんな考えることは同じだよな。
食い物だけではなく、電気の代わりのもの、電池やバッテリー、ガソリンや燃料、水、ガスなど。一気にライフラインがやられると、いかに人間が無力か、そして今までの生活が豊かであったかが再確認できる。

食料の確保は日を追うごとにできるようになり、被災から10日ぐらいでうちは電気が通った。ガスと水も来るようになった。それでも市街地では、避難所で生活している人たちが大勢いる。学校もなくずっと家にいるだけなのもなんともいえない。だから避難所でのボランティアへ参加した。配膳、物資仕分け、掃除など、大勢の方が住まわれてるから、手伝えることはたくさんあった。だが、避難所といっても段ボールなどで簡易的な仕切りを立てて区切っただけの、プライバシーも何もないような、大きな空間に100人近い人数がいたもんだから、あんなことがあった直後というのもあって、たくさんの方からきつい言葉や、暴言を受けることも多々あった。怒鳴られても、配膳で持って行ったおにぎりのバスケットごと奪われて「早く帰れ」と物を投げつけられても、それでも手伝えることは手伝いたいと、しばらく避難所へ通わせていただいた。しばらくするとお住まいの方とも仲良くなり、様々な方とお話できるようになった。災害派遣の方々とも繋がれて、今でも連絡を取り合ったりしている。

ボランティアをしていたある日、中学校からついにお知らせが届いた。
やれていなかった卒業式をやるのだ。ただ、誰か一人でも欠けていたら、と思うと、前夜は怖くてあまり寝れなかった。
当日学校に行ってみると、久しぶりに会った、というよりも、無事だった、という感情が先に出て「良かった、生きてた、良かった」と声をかけて回った。先生と同じことしてるね。でも、真っ先にその感情が出たんだよな。

卒業式は、避難所として使っていた体育館でおこなわれた。避難されていた方々が協力してくれて、1日体育館をまるっと貸してくれたようだ。また、中学校の校庭には自衛隊の普通科連隊が臨時で駐屯しており、自衛隊職員の方々も一緒に卒業式へ参加していただけたのだ。この日中学の制服が流されてしまった子たちもいたため、私服だったりジャージだったりも入り混じっての卒業式だったけど、この日の集合写真と、自衛隊の方が撮ってくれた卒業証書授与の写真は、宝物。

高校へ入学する日。高校の体育館も、避難所になっていたため、各教室で全校放送で入学式がおこなわれた。皆高校の制服がまだ届いていなかったので、それぞれの中学の制服でおこなわれた。この日の入学式には親御さんたちも各教室へ来ていたが、ボランティアでお世話になった方も祝いに駆けつけてくれたのだった。これは本当に嬉しかったな。

時間が経つとあの頃の記憶も薄れていって、「あんなことあったなあ」ぐらいになってしまうのが恐ろしいと思うし、あんなことがあって、自分は大丈夫だろう、と思っていると、自然てやつは読めないもんだから、いつ何が起こるかわからない。あの頃の記憶を忘れないように、こうして文字にして残していきたいと思うのである。

瓦礫の中で、名前を泣き叫びながら探し続ける人。
避難所に家族を、娘を、息子を探しにくる親や親族。
道端の泥にまみれたアルバム。
水につかったランドセル。
1階が空っぽになった大好きな店。
打ち上げられた巨大な漁船。
ひっくり返った、泥だらけの車。
流出した燃料が引火して、燃え上がった気仙沼の海。真っ赤に染まる空。


忘れないために。備えるために。
12年目の今日に、これを残そうと思います。
気仙沼、おれの大好きな街。
これからも変わらず、気仙沼のミュージシャンとして頑張るぜ。

UNGLIDE 黒やん

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